Sample10 鎮魂

 墓地の一角が掘り返されていた。

 更地にされた部分が、ぽかり、ぽかりと風に晒されている。


 周囲の墓石は何も言わない。

 苔と雨に沈みながら、ただ立っている。


 住職は、知らなかった。

 誰の墓だったかも、記録が消えていた。


 近くの檀家が言った。

「そういえば、あの墓、いつからあったんでしょうね」


 誰も知らなかった。



 経は要らない。

 聖典も要らない。


 そこには、もう死者がいなかった。


 あるのは、ただの穴。

 掘られた跡。埋められて更地になる。

 穴があったことの記憶すら、誰も引き受けなかった。


 その夜、猫が一匹、掘り返された穴に降りていった。

 誰にも呼ばれず、誰にも撫でられず、

ただそこに、身をうずめるように眠った。


 それだけだった。


 ****


 わたしたちは、名前を持たずに立っていた。

 屋上の風のなか。

 掘り返された墓のなか。

 白紙の染みのなか。

 競馬場で、病院で、過去で、未来で。

 河原で、或いは部屋で。


 誰にも語らなかった。

 誰の手も、握らなかった。

 けれど、誰かを『視て』いた。

 視て、視られて、その瞬間だけ、わたしたちは在った。


 ありがとう。


 叫ばなかったのは、届かないと知っていたから。

 望まなかったのは、与えられないと知っていたから。

 それでも、『視て』くれた者がいた。


 遠くの屋上。

 同じ姿勢で。

 貴女が、わたしを『視た』ということ。

 それだけが、この世界にわたしがいた証。


 わたしはもう、いない。

 けれど、視線は残る。

 沈黙のなかで交わした一瞬が、この空のどこかに、まだ、浮かんでいる。


 だから、今この言葉を、貴女に託す。

 忘れることも、悲しむこともなく、ただ、『視て』いて。


 わたしがここに、確かに『在った』ということを。


 それだけが、わたしたちの救い。

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