9月29日③

 スマホの画面を見るとサキちゃんからのLINEが数件入っていたが、内容も確認せず全部無視した。画面左上の時計は12時17分を示している。私は学校の昇降口前で、校舎をしばらく見上げていた。頬を撫でるそよ風に乗って、吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。

 愉快な旋律を奏でるクラリネットやマリンバ。一糸乱れぬ足並みで唸る、サキソフォンにチューバ。演奏曲は『アンダー・ザ・シー』だった。

 彼らは多分、来週末の“定期演奏会”に向けた練習をしているのだろう。年に一度、近所のホールを貸し切って一般向けに開催する、50人編成の演奏会。その本番を目前に控えた吹奏楽部は、最後の追い込みとして(日曜日だと言うのに!)、決死の練習を敢行しているのだ。そしてそれが故に、休日でも夕方まで正門は開けっ放しだった。

 私は吹奏楽部に感謝しながら堂々と正面から校舎に入り、靴を履き替え、三階を目指した。自分が私服だった事に思い至って急に怖くなってきたのは、上階に向かう為、階段に右足をかけた時だった。

 ……まあ大丈夫だよね、学生証も持ってるし。大丈夫……だよね?

 私は確信を持てないまま、一旦その件については極力触れないようにしながら、目当ての部屋の前に辿り着く。再び曲の頭から吹奏楽部が音楽を奏で始め、その分厚い音色が無人の廊下を駆け巡った。


 視聴覚室の扉は開かなかった。ふたつある入り口はいずれもきちんと施錠され、中にある高価な備品が破損したり盗まれたりしないよう厳重に管理されている。

 至極当然の結果を目の当たりにした私は満足した。鍵のかかった視聴覚室。条件は整っていた。

 振り返った私は、背後にある壁に備えられた消火栓に向き合った。使用方法が丁寧に書かれた大きなシールが剥がれかけている。私は真新しく、どこか他人行儀な消火栓をじっと見つめ、恐る恐るその扉に手をかけた。冷たい金属の触感が返ってくる。いよいよという瞬間にふと我に返って、手に力を込めるのを躊躇った。

 私は、自分が何をしようとしているのか分からなかった。何を期待してここに来たのか、説明が出来なかった。限定された思考と空間に閉じこもった、不届きな異常者。私はいっそこのまま消火栓の非常警報を鳴らして、辺り一面を水浸しにしてしまった方が“分かりやすい”かな、とも思った。

 それでも私は、自分がどこまでも冷静だと確信していた。そして当然、だからこそ異常であるという事も理解していた。あるいは――


 私は答えが出せないまま、ゆっくりと消火栓の扉を開いた。真っ先に目に入ってきたのは、バームクーヘンみたいにぐるぐると円状に折りたたまれたホースだった。扉の中を見るのは初めてだった。私はその想像以上に“ヘビー”な質感のホースに若干怯んでしまう……それから、ちょっと持ってみたい誘惑に駆られた。しかし、たたまれたホースの留め具の上部を見た私は、すぐにそのだらしない欲を忘れてしまった。

 そこにはセフィロスがいた。アミーボのやつ。

 ……信じられなかった。私は廊下の窓に目を向けて、一息ついてからもう一度ゆっくりそれを見やった。

 やはりセフィロスがいた。片翼のやつ。愛刀の正宗を逆手に持ち、クールなポーズを決めた“それ”は、整った顔つきでやや俯きながら、な微笑みを私に向けていた。

 悪夢だった。私は無言のまま両目を手で覆い、助けを求めるように天を仰いだ。しばらく経っても誰も助けに来なかったので、大きなため息をついた。それからすぐに着ていたパーカーの左ポケットから、シャープペンシルを取り出した。逡巡しゅんじゅんするように、消火栓の中で暇そうにたたずむセフィロスとシャーペンを交互に見やっていたが、ついに諦めた私はおずおずとした手つきで彼を握りしめ、右手の甲の上に乗せた。

 左手にシャーペンを持って親指で3回ノックすると小気味良い音が連続し、中の芯が顔を覗かせる。胸の高さまで持ってきた右手の上から、この片翼の天使が飛び立ってしまわないよう充分気をつけながら慎重に小指で芯を折る。


 パチン――あと二回。

 パチン、もう一回。

 パチン――。


 よっぽどニブルヘイムが恋しくなってきた頃、まだ全てが終わっていない事に思い至った私はじわじわと膝を曲げてシャーペンを足元に転がす。

 かがんだ状態から姿勢を戻し、足でシャーペンの先を“自分から見て12時の方向”に合わせた。それから頭の中で七秒間のカウントを始めた。


 1、2、3……永遠と思えるくらい長く感じる。

 4、5……吹奏楽部の奏でる『ホール・ニュー・ワールド』が聞こえる。

 6、7……ハーゲンダッツが食べたい。ブラウニーのやつ。


 一見何も起こっていないようだった。私は見られたらまずいと思い、我に返ったが如くあわててシャーペンをポケットにしまって消火栓の扉を閉めた――背後に視線を感じる。急いで振り返るとそこには誰もいなかった。

 その拍子に、右手の甲の上からソルジャークラス1stが落ちて、床に頭を打ち付ける音が廊下に響く。足元を見るとちょうどセフィロスと目が合った。“彼”を拾い上げて視聴覚室の扉に手をかけた。


 5秒以内に入室――私が考え事をまとめるには短すぎる時間だった。

 扉は簡単に開いた。

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