瀬島文の苛立たしい日常と謎
庸 草子
第1話 焦がれた日常
第1話 前編
面白くもない日常にわざわざ眼をとめる価値はない。
1
やっぱりこの辺りは田舎だなというのがバスを降りた時の感想だった。
もちろん事前に下見はしているので、それほど意外だった訳ではない。
ちょっと距離はあるが自転車を使えば移動できるくらいの距離に本屋もあるし、図書館もある。
読書以外に趣味があるわけでもないのでまあ問題ないだろう。
高校入学を機にやっとのことで実家を離れられることになったのだ。
多少田舎だからといって文句を言うべきではない。
これでようやく長く長く続いた家族との争いにも区切りがつく。
他人を自分のストレスのはけ口としか思っていない家族たち。
自分がその中でも都合のいいサンドバッグとして扱われていることに気づいたのは何歳のころだったか。
そんな扱いを許せるわけがない。
全力で反抗したけれどついぞ改善されることは無かった。
今でも思い出すと怒りで震える。
「他人は都合のいい道具じゃない」
そんな独り言が漏れた。
理不尽な扱いと否定の言葉。
そんな面白くもない生活が私の日常だった。
しかし、ここまで距離が離れてしまえば争いの起きようもないはずだ。
苦節十五年ようやくのことで多少なりとも平穏な日常を手に入れることができたのだ。
いや、十五年も人生を無駄にした。
そんな思いは拭えないけれど。
私が入学することになる明哲高校は借り上げの下宿を複数用意しており、実質的に寮として運用されている。
私がこれから過ごすことになる瓶内荘もそんな下宿のうちの一つだ。
下見に行ったときにあまりのおんぼろさにびっくりしたけれど、実家を出られるのならば贅沢を言うべきではない。
この程度の妥協は必要だろう。
少しでも早く実家を出たかったため、受け入れ期間の初日である今日こうして引っ越して来たわけだ。
民家が並ぶ通りから分かれた細道を十五分ほど歩くと、周囲の風景は徐々に変わっていった。
家々の間隔が広がり、代わりに広がる田んぼからは水を含んだ土の匂いが漂ってくる。
春の陽射しが水面に反射して目を細めていると、田んぼに囲まれた小高い場所に瓶内荘が見えてきた。
二階建ての古びた木造建築は、周囲から浮いているように孤独に佇んでいて、どこか私自身を見ているようで不思議な親近感を覚えた。
玄関前の小さな花壇には、誰かの手によって新しい春の花が植えられていた。
まるで私のような新入居者を歓迎するかのようだ。
まだ春先だしと思ってお気に入りのパーカーを着て来たのだけれど、長袖なので十五分も歩いているとちょっと暑く感じてきた。
かといって半袖に切り替えるのはまだ早い。
パーカーの袖口を無意識に引っ張りながら、どうしたものかと思案しつつ瓶内荘に入っていく。
「すみません。今日からこちらでお世話になる
入口のそばにあった管理人室で事情を説明し、部屋の鍵を受け取る。
管理人さんの話によると同室の学生はすでに来ているらしい。
……同室の学生、である。
瓶内荘は二人部屋で、私の部屋には同じ一年生がすでに引っ越してきているらしい。
ため息を吐きながら階段を上る。
正直に言って自分が共同生活に向いているとは思えない。
これまでまともな人間関係を築けたことなどほとんどないのだ。
憂鬱にもなる。
家族を説得する都合で、費用の比較的少ないこの選択肢を選んだものの、うまくやっていけるだろうか……。
せめて一足先について、落ち着いてから出迎える側になりたかった。
二階の二〇二号室が私の部屋だ。
いや、私達の部屋というべきか。
インターホンのボタンに指を伸ばしながら、私は自分の鼓動が早くなるのを感じた。
このドアの向こうにはこれから何ヶ月も、いや何年も一緒に過ごす相手がいる。
その事実だけで喉が乾いた。
ボタンを押す。
短い電子音。返事を待つ数秒間が、異様に長く感じられた。
ほどなく中から返事の声がして、扉があいた出てきたのは凛々しいと言っていい顔だちをした女の子だった。
すっきりとした直線的な眉と、感情を読み取るのが難しい静かな瞳が印象的だ。
短く切りそろえられた黒髪は無駄な動きを一切許さないかのように整っている。
ここが女性用の下宿でなければ、性別の判断に迷ったかもしれない。
緊張しながら挨拶する。
「すみません。
同室になる瀬島文と申します」
自分の声が少し上ずっているように感じた。
緊張している私に対して、相手は表情の一つも変えず、特に緊張する様子もなく言う。
「初めまして、
落ち着いた様子の村尾さんを見て、自分の緊張具合が少し恥ずかしくなる。
もう少し何事も動揺せずに行きたいものだ。
部屋に上がると村尾さんがお茶とお茶菓子を出してくれた。
テーブルに向かい合って座り、お茶菓子の饅頭をもそもそと食べる。
「母が引っ越し先の人と食べるようにとくれたお土産です」
村尾さんが言った。
良い家族をお持ちのようで正直うらやましい。
こちらは直前までドタバタしていたのでそういうことはきれいさっぱり忘れていた。
いまさら自分の家族にそういった気づかいを求めたりはしないけれど、手土産くらいは自分で買ってくれば良かった。
気が利かなかったなと反省しながら口を開く。
「それにしても引っ越してくるの早いですね。
てっきり私が一番乗りだと思ってました」
「なんとなく期限があるものはできるだけ早く済ませたくなるんですよ」
それはそれは。
なにかと期限ぎりぎりまで放置しがちな私とは大違いだ。
見習わなくてはな、と思いながら周りを見る。
村尾さんの荷物はまだ手荷物だけのようだった。
瓶内荘は二人部屋で、事前に聴いていた通り家具付きで必要な家具は最低限そろっている。
午後の日差しが窓から差し込み、二つの学習机と二つのベッドを淡い光で照らしていた。
古い木の床は踏むと微かに軋み、かすかに埃と木材の香りが鼻をくすぐる。
台所や風呂、トイレが共用ではなく各部屋についているのもありがたかった。
風呂には脱衣所もあるし、プライベートにはそれなりに配慮されているように感じる。
「私の荷物は今日の午後届くようになっています。
村尾さんはどうですか?」
「僕も同じだね。
今日届く予定」
僕……。
なんだろう、キャラづくりだろうか。
まあキャラづくりについては私も人のことはいえない。
服装もなんだか性別がわかりにくいものを着ているし、女性らしく振る舞うことについてなにか思うところがあるのかもしれない。
いや、やめよう。
これだけの情報で判断するのはさすがに早計がすぎる。
「じゃあ、荷物が届いたらまず二人がかりで片づけてしまいましょう。それでなんですが……」
部屋は二人で暮らすには十分すぎるほど広い。
もともとは下宿じゃなくて別の用途の建物だったとか聞いた気がする。
私の荷物はそんなに多くないし、村尾さんの荷物がもし多くても十分におさまるだろう。
ただ、私にはいくつか心配事があった。
無理な頼みをすることになるが、自衛のためだ。
仕方がない。
「部屋の配置について少し相談があるんですが、それぞれのプライベートなスペースを確保するために、真ん中についたてかカーテンを置いてもいいでしょうか?」
私には自分が他人と一緒に暮らしていて問題を起こさないという自信がない。
これまでの人生の中で家族と山ほどの問題を起こしてきた。
私をストレスのゴミ箱とでも思っているような奴らだった。
私が何も感じずに淡々と動くロボットのように生きられればそれでも問題は起こらなかったかもしれない。
ただ、私は人間のままでしかいられなかった。
起きた問題のすべてが私のせいだったとは思わないけれど、自分の感情のコントロールに自信が持てなくなっている。
正直に言って実家暮らしの最後の方は家族からの理不尽ないやがらせに対して私も激昂しがちだった。
新しい共同生活の相手には悪いと思うけれど、心の安定のためには対策が必要だった。
感情の問題を別にしても、ついたてがあれば見られたくないものを見られる可能性も減るだろう。
……私には隠しておきたいことがある。
その秘密については絶対に知られたくない。
もし知られたら、気まずいことになることは間違いないと思う。
村尾さんはいい人そうに見えるから、最初から話しておけば気まずいのは一時のことで済むかもしれない。
ただその際に向けられるであろう同情の目を考えるとどうしてもそうする気にはなれないのだ。
それにいつまでも隠し続けていなければいけない問題でもない。
時間が解決してくれるのを待ちたかった。
「初対面でこういうことをいうのもなんですが、時々イライラしてしまうことがあるんです。すみませんがそういう時には一人になれるようにできるとありがたいです」
じゃあなんで二人部屋だとわかってこの瓶内荘に引っ越してきたんだと言われてしまえば反論はできない。
正直言って自分でもどうかと思う。
ただ、私にもいろいろ事情はあるのだ。
とにかく家族から離れたかったとか、経済的な問題とか。
こちらの不安をよそに村尾さんの反応はあっさりしたものだった。
「いいよ。
べつに」
てっきり不審がられると思っていたので、あっさり了承されて逆に不安になる。
初対面の同居相手からいきなりこんなことを言われたら普通は仲良くする気がないんじゃないかと不安になると思う。
少なくとも私ならなる。
いや私に普通といえるだけのコミュニケーション能力があるかは置いといて。
「いいんですか。
いきなりこんなお願いをして……」
「しいて言うなら、機嫌がいいときはご飯くらい一緒に食べよう」
さすがにこれには否というわけにはいかなかった。
そもそも私だってさすがに四六時中イライラしているわけではない。
いや実家では日常的にしていたけれど。
原因から離れた今はもう少し落ち着けるはずだと信じたい。
食事くらいはできるだけ一緒にとるのもいいだろうと思った。
引っ越したばかりでまだ調理器具もそろっていないので、昼食は二人で近くのコンビニに買いに行くことにした。
コンビニで買ってきたおにぎりを食べながら二人で話をした。
とはいえそんなに話は盛り上がらなかった。
私のコミュニケーション能力はたかが知れているし、村尾さんの方もそんなに話し好きでは無いようだった。
ぽつりぽつりとお互いに読書が趣味だとか、どこ出身だとかそんな話をした。
午後になって荷物が届いた。
荷ほどきにはそれほど手間はかからなかった。
そもそも私の荷物なんて着替えと段ボール二つ分程度の本くらいだ。
それに着替えについてはしばらくはお気に入りのパーカーを着続けて乗り切るつもりだった。
お下がりばかりを着せられていた中で、数少ない自分で購入した服だ。
家族から離れられた新しい生活にはふさわしいだろう。
長袖なので今の季節だと暑く感じることもあるが、まあ仕方がない。
上着を固定しておけば、着替えも最小限で済む。
村尾さんの荷物もそんなに量はないみたいだった。
村尾さんも本好きということで、私と同じように荷物の大部分は本のようだ。
いくつか気になるタイトルがあったので村尾さんが本の貸し借りを気にしないタイプであれば貸してもらうのもいいかもしれない。
たまには自分の興味の外にある本も読んだ方が勉強になるだろう。
村尾さんの了承も得られたことだし、荷ほどきが済んですぐに近くのホームセンターについたてを買いに行くことにした。
近くといってもたっぷり三十分くらいは歩くことになったが。
ついたては大荷物になったけど折りたたみ式のものであれば一人でも運べたし、なんなら村尾さんも手伝ってくれた。
人のいい人だ。
二人がかりでついたてを担いで運ぶ姿は果てしなく間抜けな絵面ではあった。
ついたてを部屋の中央において、奥側のスペースを私が使わせてもらうことになった。
ついたてで区切られた部屋は思ったよりも手狭に感じたけれど、これからの生活を考えれば必要なことだ。
あくまでも私にとっての必要さであって村尾さんがどう思ったかはわからないけれど。
わがままを通させてもらったし一つ借りだと思っておこう。
いつか返さなくては。
ついたてのおかげで、私は村尾さんとの生活に少しだけ安心することができた。
いきなりついたてを置きたいと言いだしたことで揉めることが、事前の想定の中で第一の問題だったのであっさり了承してくれて助かった。
引っ越し作業や慣れない場所を見て回ったりしたことでさすがに疲れたのかもしれない。
夕食をとって風呂に入るとすぐに眠くなった。
その夜はぐっすり眠ることができた。
実家では日常的に何かしらのトラブルが起きてそれどころではなかったから考えられなかったことだ。
ようやく私も普通の生活に近づくことができた。
私の人生を取り戻すのはこれからだ。
今までできなかったことを少しでもして、無駄にした時間を取り戻す。
普通に生きてきた人間との差がどれだけ広がっていたとしても追いついてみせる。
2
それからの数日は特にトラブルもなく過ぎた。
高校が始まるまでは特にやらなければならないこともないから、落ち着いて過ごすことができた。
これもまた実家にいたころには夢のようだった日常だ。
こうした日常を家庭にトラブルを抱えていないいわゆる「普通」の人たちは当たり前のように過ごしているのかと思うと腹が立つことがままある。
私は何に対して怒りを抱いているのだろうか。
もちろん一番は私から「普通」の人生を奪った実家の連中だろう。
ただときどき直接の加害者ではないはずの「普通」の人々に対しても怒りを抑えられなくなる。
この怒りが村尾さんに向かうことがないかが心配だった。
村尾さんも私も口数が多い方ではなく、お互い黙って本を読んでいることが多かった。
村尾さんはほとんどが趣味の読書のようだったけれど、私の方は趣味の読書以外に中学校の教科書を読んで復習もしておいた。
腹が立つことに十五年間実家で過ごしている間満足に勉強もできなかったのだ。
私には自分の部屋がなく、日常的に隣で夫婦喧嘩や親子喧嘩が起こっていた。
今からいくら勉強したところで無駄にした時間が戻ってくるわけではないけれど、少しでもその遅れを取り戻したい。
そんなことを思いながらひたすら読書と勉強を繰り返していた。
村尾さんは習慣を大事にするタイプのようで毎朝健康のためと称して散歩に出かける。
コースも決めているのか一度散歩に出かけるとだいたい三十分間は帰ってこない。
その間に私は一通り身支度を整えておくようにしている。
あまり他人にそういうところを見られるのは好きではないのでちょうどよかった。
扉が開く音がした。
どうやら村尾さんが帰ってきたようだ。
声をかける。
「おかえりなさい」
「ただいま。
ご飯の準備するからちょっと待ってて」
村尾さんはそういって台所に向かった。
私も冷蔵庫から昨日買っておいたパンと牛乳を準備する。
……いろいろ事情があって自炊をする気にはなれないのだ。
村尾さんもすぐに準備してきた。二人で手を合わせて食事が始まる。
お互いにあまりよく話す方ではないので、いつも食事は静かなものだったが、今日は珍しく村尾さんから話しかけてきた。
「買ってきたものを食べてることが多いけど、自炊をする気はないの?」
「ええ。料理は別にいいんですが、洗い物が面倒くさくて」
「それじゃあ、外食や中食が多くなる?」
中食なんてあまり耳慣れない言葉を使うんだな、などと余計なことを考えながら返答する。
「そうですね。そうなると思います」
「それなら僕が二人分作ろうか?
一人分作るのも二人分作るのもそんなに変わらないし。
洗い物もやるよ」
「それはさすがに悪いです」
「代わりに何か別の家事を担当してくれたらそれでいいよ」
やはり村尾さんは人が良すぎる気がする。
話し合いの結果、とりあえず洗濯が私の担当となった。
といっても瓶内荘には共用の全自動洗濯機があるので、私の仕事といえばたまった洗濯物を洗濯機に放り込むこと、洗い終わった洗濯物を干して、乾いたら取り込むことくらいだった。
毎日の自炊と比べるとだいぶ労働量に差がある気がする。
……借りばかり作っているな。
こうして少しずつ共同生活にも慣れていった。
相変わらず他人と一緒に暮らすことへの不安はあるけれど、それも少しずつましになってきた。
私の行動について村尾さんは少しも気にしていないように見える。
いっそ無関心がすぎるくらいだが、それが私にとってはありがたかった。
これなら家族のことや隠しておきたいことも知られずに過ごすことができるかもしれない。
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