第15話

15-1

 真冬の早朝は、耳の奥がキンと鳴るような寒さだ。

 朝の訓練が終わった騎士たちは、身を震わせながら手早く汗を拭いている。

「どうです、戦局は」

 昂生も皆と同じように、水場で身体を拭いていると、隣にレオンハルトがやって来た。

「……微妙。市民からの支持は、前よりはいい感じなんだけど……他がね」

「王子は、貴族とか有力者とか、そっちのウケ悪そうですもんね」

「はー?全然、その通りだよ」

 軽口を返す昂生に、レオンハルトが軽快に笑う。

「いやでも、マジで良くないわ。教会が介入することになったし」

 昂生の言葉を受け、レオンハルトの表情が一瞬で引き締まった。

「教会?どういう内容で?」

「王族が選挙で不正する可能性があるから、開票日は聖職者の監査役の元行われるってさ」

 昂生が肩をすくめると、レオンハルトは眉を潜めた。

「不正なんて、王子がするわけがないのに。そんなことができるほど、器用でも利口でもない」

「ギリ褒めてるってことにしとく。……不正なんてもちろんしてないけど、疑いを持たれたってだけでイメージダウンだ」

 昂生はため息をついた。公正な選挙のために、反勢力が教会を介入させることは漫画の情報で知っていたけれど。このタイミングでの王族側の不正疑惑は痛手だった。

 ここ最近の街頭演説などで、市民からの支持が少しずつ高まってきていただけに尚更だ。

 さらに憂鬱なことに、国王から「絶対に勝て」と圧がかかっている。普段は視察だの静養だのと言ってほとんど城にいないくせに、こういう時だけ王の威厳を振りかざしてくるのだから、本当に勝手だ。

「……まあ、やるしかねぇよな。いいニュースもあったし」

「いいニュース?」

 首をかしげるレオンハルトに、昂生はにこりと笑った。

「俺が通したかった支援制度と管理権の緩和が、やっと可決されたらしい」

 昨日、伊織から報告があったばかりだ。ハインリヒが動かざるを得なくなって、義弟に承認するよう伝えたのだろう。

「ああ、ずっと言ってたやつですよね。おめでとうございます」

「ありがとう」

 レオンハルトと喜びを分かち合っていると、塔時計の鐘が六回鳴り響いた。澄んだ音が城内に広がり、朝の静けさを破る。

「やべ。そろそろ伊織が起きるから、戻るわ」

 急いで身支度を終わらせる昂生を見て、レオンハルトが呆れたようにため息をつく。近侍が主よりも遅く起きるなんて、という非難では、もちろんない。

「王子、イオリ殿を夜しっかり寝かせてあげないと」

「……寝かせてるし。……まあ、たまに、ちょっとアレだけど……」

「ああ、昨夜はアレだったと」

「うるせー。もう行くわ。またな」

 互いに笑いながら、それぞれ城へと戻った。

 王子の寝室の前で昂生は足を止め、そっと扉を開けた。室内はまだカーテンが引かれ、薄暗い。部屋の真ん中にある大きなベッドに歩み寄ると、小さな寝息が聞こえた。布団からは伊織の寝顔が覗いている。

 最近はプレイが終わると、伊織がくたりと力尽き、そのままここで寝てしまう日もある。

 無理させたかな、と申し訳なく思う気持ちもあるけれど。こうして伊織の寝顔を見られる朝と夜が、これからもずっと続けばいいと、願わずにはいられないのが本音だ。

 静かにベッドに腰かけ、相変わらずに美しい顔を見下ろす。長い睫毛も、高い鼻も、形の良い唇も、そしてその身体にも。

 昨夜も散々触れた。キスもした。伊織が寝坊してしまうくらいには、それはもう十分と。

 なのに、十分だと思っても、すぐ空っぽになる。もうすでに、伊織が足りない。

「……ほんと重症……」

 自分に苦く笑って、伊織の額に唇を落とした。

「……ん……」

 もぞりと伊織が動き、ゆっくりと瞼が開く。少しぼんやりとした顔で、昂生を見上げている。

「おはよ」

 もう一度額にキスをすると、伊織が緩く目を細めた。

「……訓練……行ったの?」

「うん。楽しかった」

「……タフ」

 吐息のように呟いて、ふっと笑う。その微笑みに心臓が甘く苦しくなる。昂生は、今すぐにそのタフっぷりを証明したい気持ちになったけれど、なんとか理性をかき集め、ベッドから腰を上げた。

「俺、汗かいたし風呂行ってくるよ」

「……うん。俺も起きないと……」

 ゆっくりと伊織が身体を起こした。昨夜の余韻を感じる気だるげな雰囲気に、昂生の理性は脆くも崩れ落ちそうになる。

「……伊織、一緒に風呂――」

「行かない」

 寝起きながらさすがの切れ味で言い、伊織はさっさと行けと昂生に手を振った。

 昂生が風呂から出ると、伊織はすでに着替えを終えていた。カーテンは全て開かれ、部屋には冬の柔らかな陽が満ちている。

 テーブルには朝食が並び、伊織が紅茶を注いでいた。湯気が上り、彼の横顔をわずかに曇らせる。

 まるで絵画みたいに綺麗で、溜め息が溢れた。壁に凭れて芸術を鑑賞している昂生に気づき、伊織が眉を寄せる。

「……なにしてる?」

「……一生飾っておきたいなって思ってた」

 さらに眉を寄せる伊織に笑い、昂生はテーブルへと移動した。腹減ったと籠に入ったパンに手を伸ばすと、伊織がさっと籠をとりあげる。

「行儀悪い。ちゃんと座ってから」

「はーい」

 昂生は素直に返事をして席に着いた。伊織も向かいの椅子に腰を下ろし、二人で食事を始めた。

 伊織が寝坊した日は、こうやって一緒に食事ができる。これも、これからもずっと続けばいいと願って止まないものの一つだ。

「今日は、午前中は城で事務作業、午後は修道院でダイナミクスについての講演会がある」

 伊織がカットされたオレンジを食べながら、王子のスケジュールを伝える。

 あの中央広場での昂生のスピーチにより、ダイナミクスを持つ人々――特にSubへの偏見や差別をなくそうという動きが王国内で少しずつ広がりを見せていた。

 昂生のもとには、ダイナミクス支援活動への参加依頼や、他の地域での講演会の依頼が日に日に増えている。それらの手紙を見るたびに、小さな変化が確実に起きていることを実感していた。

「ダイナミクスなら、隣国のアルカディアの方が考え方が進んでる。講演会までにこの本の、栞の挟んであるあたりを読んでおいて」

 伊織は隣の椅子に置かれていた本を取り、昂生に手渡した。

 昂生は『アルカディアの世界』というタイトルのそれを受け取り、チーズをつまみながらページを開く。

「へぇ、コマンドも載ってる。これアルカディア語?」

「ああ。昂生に翻訳してもらおうと思ってた」

「コマンドの言葉自体はそんなに変わらないな……ケアプロトルコ……ケアの際に有効な動作、だって」

「動作?」

 昂生はその部分を読み上げた。

「Subに『カルム落ち着いて』と声をかけながら、背中を三回軽くたたき、首の後ろを同じく三回押す。これをSubが落ち着くまでくりかえす……」

 昂生は紅茶を一口飲んで、「ツボ押し的な感じか?」と呟きページをめくった。

「この本、Subの権利をちゃんと尊重してて、現実世界っぽい内容だな。確かにいい資料になるかも」

 昂生が伊織に話しかけると、彼は視線を落とし、何か考え込むように一点を見つめていた。

「伊織?」

 昂生が呼ぶと、はっとしたように顔を上げる。

「どうした?」

「……いや、なんでもない……ただ、少し――」

 その時、部屋に届くノックが伊織の言葉を遮った。昂生が応えると、緊張感を漂わせた表情のエレナが入ってきた。

「王子、それからイオリも。ラウル宰相がお呼びです」

 エレナの硬い声が、空気を通じて昂生にも伝染する。

「わかった」

 朝食を早めに切り上げ、伊織と共にラウルの執務室へ向かった。

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