第8話

 夕食会の翌日、石畳に足音を響かせながら、伊織は昂生と細い路地を進んでいた。

 昂生は伊織と同じような質素な平服に身を包み、フードをかぶり、いつもは上げている前髪を今日は目元まで垂らしている。

 簡単な変装だが、忙しなく行き交う人々は誰一人として、この男が王子であるとは気付かない。

 今朝、いつものようにお遊びのような王子のスケジュールを読み上げていると、昂生が唐突に言った。

「全部キャンセルで。今日は城外に行くよ」

 この一言で、伊織は馬車に揺られ、初めて王宮の外の町へやって来ている。城の人間には誰にも言わず、二人きりの外出だった。エレナには報告すべきだという伊織の進言は、「護衛とか付けられるから言わない。内緒」と却下された。

 昂生は「王子として市民の暮らしを実際に見てみたい」なんて、もっともらしいことを言っていたけれど、本音はその後にぼそりと呟いた「夕食会で幹部たちの相手疲れたし、気分転換したい」だろう。

 昨夜、夕食会の感想を尋ねた伊織に、昂生は苦々しい顔でため息をついた。

 昂生曰く、昨夜の夕食会は彼の人生で一番つまらなくて、最悪で、クラシックを延々聴かされる方がよっぽどマシ、というパーティーだったらしい。

 昂生は、肝心のフレデリックについて「狸オヤジ」と一蹴した。調子の良いことばかり言って、腹の中では何を企んでいるのか分からない男、という印象を受けたようだ。

 もっとも、それはフレデリックに限った話ではなく、出席していた要人の大半が似たようなものだったという。

 国王への評価も同じく、「まさに“楽園の無能なる浪費家”にぴったりの王様」らしい。政治幹部の意のままに操られ、考えることを放棄し、国の実態から目を背けているような有様だったと。

 まともなのはラウルくらいだという、憂慮すべき事態の報告を受け、伊織はその夜、昂生と同じく重くため息をついたのだった。

 馬車は目立つからと途中で降り、しばらく歩いてようやく、目的地である下町に到着した。

 目の前に広がる光景は、城下で見慣れた街並みとは明らかに異なるものだった。

 迷路のように入り組んだ路地には、朽ちかけた家屋が肩を寄せ合うように立ち並ぶ。通りで目にする人々の身なりも、装飾などは一切施されていない質素なものがほとんどだ。未舗装の土道には物乞いの老人たちが座り込み、至る所で口論の声が響く。

 この地区の、衛生状態と治安の悪さがよく分かる景色だった。

「伊織、危ないから離れんなよ」

 昂生が伊織を背に隠すように歩く。伊織は少しむっとして、歩調を早め昂生の隣に並んだ。

「大丈夫。自分を守るくらいには、色々備えてるから」

 現実世界ではホテル王の息子として、いくつかの護身術や格闘技を習得している。 

「色々って?」

「空手は六段、システマは十年以上習ってる」

「……システマって、ロシアの軍隊格闘術? うわ、伊織を怒らせたらヤバいじゃん」

「そうだよ。肝に銘じろ」

 昂生が、はーいとなぜか楽しそうに返事をする。軽口を交わしながら町中を進んで行くと、小規模な市が立っていた。

 それなりに賑わってはいるが、露店に並ぶ商品は、お世辞にも質がいいとは言えないものばかりだ。傷みかけた果物や野菜、錆びついた工具、縁の欠けた陶器。

 値札の数字は安いものの、それすらも住民たちには高額なのか、品物を手に取っては値切る声があちこちから聞こえてくる。

「……夕食会の無駄に贅沢な飯と、すげぇ差」

 昂生が苦々しく呟いたその時、激しい怒声が響き渡った。

「泥棒ー!誰か!そのガキ捕まえてくれ!」

 突然の騒ぎに顔を上げると、路地の向こうからピンボールのような勢いで子供が飛び出してきた。少し遅れて、「商品を盗られた!」と大声をあげながら、店主であろう男が続く。

 店主に気を取られ、少年は後ろを振り返りながら走る。彼が前を向いた瞬間、その前方に立っていた昂生に勢いよくぶつかった。

「っと。危ねぇな」

 かなりの勢いで衝突されたのに、昂生は少しもよろけることなく、子供の身体を支える。

「離せ!」

 暴れる子供の手には、林檎が一つ握られていた。昂生が伊織に視線を向け、「とりあえず払っといて」と小声で告げる。

 伊織はただうなずき、子供を追いかけてきた店主に頭を下げた。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。林檎の代金はいくらですか?」

「……なんだ、あんたが払ってくれるのか?」

 店主が訝し気に伊織を見て、林檎の代金を告げる。伊織はその倍の金を支払い、再び謝罪し頭を下げた。

 店主は受けとった金を懐に仕舞うと、「ったく、くそガキめ。二度と顔見せるなよ」と少年を睨み、通りに戻って行った。

 伊織が子供に向き直ると、小さな目に鋭く見上げられる。 

 少年のシャツもズボンも靴も、その全てが薄汚れ、破れ、とうに寿命が尽きているであろう代物だった。腕や足は細く、顔色も良くない。少年が盗みを働いた理由は明白だ。

 どう言葉をかけようかと逡巡していると、昂生が少年から素早く林檎を奪い取った。

「お、おい!なにすんだよ、返せよ!」

 少年は暴れ、必死に手を伸ばして林檎を取り返そうとするが、まるでそびえ立つ巨岩にぶつかる小石だ。昂生は石の存在にも気づいていないみたいに、微動だにしない。

「返せ?なに言ってんだよ。これは俺らが買ったもんでしょ。お前のじゃない」

 昂生は言って、林檎を自分のポケットへ入れてしまう。その仕草には少しの躊躇いもなかった。

「……昂生」

 さすがに少年が可哀想で、咎めるように昂生を呼ぶ。

 けれど彼は伊織の呼びかけに答えず、「伊織、あの店で靴磨き用の布と油とブラシ買ってきて」とすぐ側にある露店を指差した。

「靴磨き?」

 意図が分からず聞き返すも、昂生はうなずいただけで答える気はないようだ。

 伊織は一つ息を吐き、露店へ向かう。いつも唐突で、いつもよく分からないのが昂生という男だ。

 店は道具屋のようで、様々な作業用具や材料が並んでいた。

「すみません。靴を磨く油と布、ブラシが欲しいのですが」

 店主は伊織をちらりと見て、数種類の瓶の中から一つを選ぶ。

「これは上質な獣脂油だよ。革製品の手入れに最適だ。靴磨くなら、布は二枚以上は必要だよ」

 店主の説明を聞きながら、黄褐色の液体が入った小さな瓶を受け取った。

 その油と三枚の麻布、木柄のブラシを購入し、昂生たちの元へ戻る。少年は昂生に腕をつかまれ、不貞腐れたように唇を尖らせている。

「買ってきた」

「おー、ありがと」

 伊織から布や油を受け取ると、昂生は少年に向き直った。

「お前、名前は?」

「……トマス」

 かすかに聞こえるくらいの小さな声で、少年が名乗る。

「トマスな。俺は昂生。この国の王子と同じ名前」

 昂生の自己紹介に、伊織はドキリとした。余計なことを言う男を横目で睨む。

「……あんな王子と同じなんて、かわいそう」

 トマスが薄く笑いながら呟いた。昂生も「ほんとにな」と笑う。

「んで、あっちの綺麗なのが伊織。俺の大事な――」

「仕事仲間だ」

 さらに余計なことを言おうとする男をさえぎって、少年によろしくと挨拶した。

「トマス」

 昂生がトマスを呼び、目線を合わせるように膝を折った。

「林檎が食いたいなら、盗むんじゃなくて買わないとダメだ。なんで盗みがダメかわかる?」

 トマスは、そんな説教は聞き飽きたというように、「店の人が困るし……悪いことだから」と目を伏せ答える。

「そうだな。でもそれは、世の中的に悪いことっていうより、お前にとって悪いことって意味な」

「……俺にとって?」

 不思議そうにトマスが昂生を見上げる。

「うん。盗みだけじゃなくて、犯罪を犯すと、お前にとって悪いことが起こる。捕まったり、周りの人から信用されなくなったり。その悪いことは弱みになって、それが増える分だけ生きにくくなるし、人に利用されやすくもなる」

 伊織は昂生の言葉に耳を傾けながら、その横顔を見つめた。

 サイズの合っていない制服で、給食を持ち帰っていた彼を思い出す。真剣にトマスに語りかける昂生の自論は、彼の過去から生まれたものなのかもしれない。

 弱みをさらさないように、人に利用されないように。生きにくい世の中を、昂生はそんなふうに生きてきたのだろうか。

「林檎盗まれて、店が困るのも本当だけどさ。正直、腹減って死にそうなのに、人のことなんか考えてらんねぇよな」

 昂生の言葉に、トマスは唇をかんで頷く。

「でもな、その場しのぎで罪を犯すと、後々もっとお前の首を絞めることになる。だからこそ、ルールの中で生きないとダメなんだよ。林檎が食いたいなら、金稼いで買えってのがこの世の中のルールだ」

 トマスは少し考え込むように口をつぐむ。けれどすぐに首を振った。

「でも、金を稼ぐ方法がわからない」

 昂生は笑いながら「これで稼いでみろ」と布と油、ブラシをトマスに渡す。

「これで?」

「そう。靴磨きってやったことある?」

 昂生が尋ねると、トマスは首を振った。

「じゃあ、教えてやる。まずは客の靴の埃とか汚れを、ブラシで払って」

 昂生は転がっていた石の上に自分の足を乗せ、少年に靴磨きの仕方を教え始めた。

 トマスは昂生の指導を受けながら、丁寧に手順をこなしていった。コツをつかむのが早く、手際もどんどん良くなる。

 昂生の靴は、艶やかな光沢をまとう上出来な仕上がりになった。

「すげぇ綺麗になったな。ありがと」

 昂生はトマスの頭をくしゃりと撫で、ポケットから林檎を取り出した。

「稼いだから、林檎買えたじゃん」

 トマスの目が大きく見開かれる。じわじわと頬が緩み、その顔に笑みが浮かんだ。

 出会ってから初めて見た少年の笑顔は、年相応の可愛らしさと明るさがあった。

「靴がこんなに綺麗になったのに、林檎一個は適正価格とは言えないよ」

 伊織は言いながら、数枚の硬貨をトマスに渡した。

「こんなにたくさん?」

 トマスが驚いたように伊織を見る。

「このあたりの物価や、露店商品の値札から判断すると、これくらいが妥当だよ。君はいい仕事をしたから」

 微笑みかけると、トマスは褒められて嬉しかったのか、照れたように頬を染めた。

 やはり年相応の可愛さに、伊織は自然と笑みが深くなる。

「……おい、お前はそうやってさぁ。純情な少年の初恋を、また簡単に奪うなよな」

「初恋? 何の話だよ。……また?」

 以前にも、伊織がどこかの少年の初恋を奪ったことがあるような言い方だ。そんな事実はない、……はずだ。

 怪訝な顔で昂生を見ると、彼は視線をそらして頭をかいた。

「……あー、いや、……つーか、トマス。とりあえず、市場とか人が集まるようなとこで、靴磨き続けてみろよ」

 強引に話題を変え、昂生がトマスの肩を叩く。少年は油の染みた布をぎゅっと握り、うなずいた。

 伊織は持っていた硬貨袋の中身を全て移し替え、空になった巾着型の布袋をトマスに渡した。

「これに一式入れておこう。トマスの商売道具だよ」

「あ、ありがとう……イオリ」

 トマスは少し恥ずかしそうに言って、布と油、ブラシを巾着袋に仕舞う。その袋をしばらく見つめ、昂生に向き直った。

「コウセイ、ありがとう。……俺、自分のために、ルールの中で頑張る」

 真っすぐに昂生を見上げ、トマスが言う。昂生はうなずくと、トマスの肩を再びぽんと叩いた。

「頑張れよ。お前が上手くいくように、応援してる」

 トマスは嬉しそうにうなずき、巾着袋を大切そうに抱えると、元気よく手を振って去っていった。


「国の決まりっていうか、制度みたいなのもんって、王子でも作れる?」

 帰りの馬車に揺られながら、昂生が言った。珍しく静かにしていると思っていたら、そんなことを考えていたらしい。

「そうだな……この世界は、けっこう史実に沿った設定だから、政策を提案して、最終的に国王から承認を受けることができれば、可能だと思う。……どういう政策案?」

 伊織が問うと、昂生は窓の外を見ながら答える。

「トマスみたいな奴らに、一時いっときの金とか物じゃなくて、金を稼ぐ方法とか、手段とか、場所を与えてやれる制度」

「自立支援みたいなもの?」

「そう。例えば、経験者とか職人が未経験者に仕事を教えるとか」

「限定的な施しじゃなくて、人々が自立するための土台を作る制度ってことか」

 まさに、今日昂生がトマスに対して行った行動そのものだった。

 一つの林檎を与えるのではなく、布と油と、靴磨きの方法を教えた。

 現実世界にも、職業訓練プログラムやメンター制度といった支援制度が設けられている。

 フィオレ王国は自国の豊かな資源に頼りすぎて、教育や技術の発展に力を入れていない節がある。昂生の提案は、この国にとって画期的なものになるかもしれない。

「既存の制度との兼ね合いもあるけど、いくつかのハードルをクリアすればいけそうだな。市民に寄り添った、素晴らしいアイデアだと思う」

「……え、伊織に褒められた。雪でも降る?」

 伊織の称賛の言葉に昂生が驚き、茶化すように車窓から空を見上げた。

「評価されるべき人は、正当に評価するよ。今まで、昂生に褒める部分が見つけられなかっただけで」

「へえ。じゃあ、もっと褒められるように、色々頑張ろうかな」

 にやりと笑い、昂生が伊織の肩を引き寄せる。

 伊織はいつものように、その手を払おうとしたけれど、ふと思い留まる。

「……トマスに話してた、弱みは利用されるって話……昂生の経験論?」

 馬車の御者に聞こえないように、声を潜め尋ねた。昂生は一瞬押し黙り、垂れ下がる前髪を邪魔くさそうにかきあげる。

「……まあ、そんな感じ。俺もすげぇ貧乏だったから」

 昂生は伊織の肩を抱いたまま、シートに背を預けた。 

「頭が悪かったり、金がなかったり、心が弱かったりする奴には、悪い奴らがすぐ群がってくるんだよ。弱い人間は簡単に利用されて、搾取される」

 昂生は少し間を置いて、静かに呟く。

「俺はそのいい例を、ずっと近くで見てきたから」

 その“いい例”の正体は、きっと彼の母親だろうと伊織は思った。昂生が昔、「息子の食事より、ホストにシャンパンタワーを作るのが好き」と言っていた人。

 遠くを見るように視線を揺らす昂生に、躊躇いながらも尋ねた。

「……お母さんは、どうしてる?」

 昂生は伊織を見て、少し笑った。

「中学の時の話、覚えてたの?」

 伊織がうなずくと、昂生は笑い声のような、ため息のような吐息を吐いた。

「母親は、俺が十七の時に死んだよ。酒と整形と薬漬けで、風邪こじらせてあっけなく。最後までどうしようもない人だったけど、反面教師としては為になったかな」

 淡々と話す昂生に、伊織はなにも言葉を返せなかった。

 昂生は、弱い立場の人間がどう扱われるのか、自分の母親を通して痛いほど理解させられてきた。それが、彼の人生の一部だった。

 伊織は、その辛さとか悲しみを、正しく想像することもできない。

 けれど、想像できないことが悪いとは思わない。生き方が違うだけで、そのどちらが良いか悪いかなんて、正解はない。

 ただ少し、寂しかった。

 昂生の悲しみと別のところにいて、彼にかける言葉が見つからない自分を、歯痒くて寂しいと感じていた。

 無言の車内に、馬の蹄と車輪がガタガタと鳴る音が響く。昂生がさらに伊織の肩を引き寄せた。伊織にもたれるように頭を寄せて、「眠い」と目をつぶる。

 伊織は昂生の身体を押し返そうとは思わなかった。距離が近付いた分、よく分からない寂しさが薄れたような気がしたから。

 伊織は城に着くまで、そのままの格好で馬車に揺られていた。

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