無能王子と優秀な従者のエンドマーク
野良風
第1話
悪魔は、細部に宿る。
ドイツの建築家が言った「神は細部に宿る」を
綺麗に包装された縦長のそれは、一目で目的の品ではないことが明らかだった。
「何を用意したんですか?」
伊織の問いかけに、同僚の向井が緊張したように顔を強張らせる。
「あの……あちらの部長が好きだと言っていた、日本のウイスキーを……」
「前回の商談で、部長は響がお好きだとおっしゃってましたよね。これは、響ではないと思うのですが」
日本の有名ウイスキー『響』は、ずんぐりとした横長のボトルが特徴だ。この細長い箱に収まるはずがない。
「す、すみません……日本のウイスキーとしか、覚えてなくて……『山崎』を、買いました」
顔を青くして、部長の好みとは異なるウイスキー名を答える向井に、伊織は内心で舌打ちをした。
取引先の部長の誕生日プレゼントとして、前回の商談で話題に上がったウイスキーを贈ることになっていた。向井もその場にいたから、手配を任されたはずなのに。
「ま、まぁ、『山崎』も、同じジャパニーズウイスキーで、希少だし高価なものですから」
フォローのつもりなのか、課長の平田がぎこちなく笑う。伊織は微かに目を細め、溜め息を飲み込んだ。
同じ日本のウイスキーでも、山崎はシングルモルトと呼ばれる種類で、響はブレンデットウイスキーという種だ。
種類が違えば、香りや味わいはもちろん、飲み方だって変わってくる。高級であればいいということではない。
伊織はパテック・フィリップの腕時計に視線を落とす。まだリカーショップの営業時間内であることを確認して、鞄を手に取った。
「買い直して、期日までに用意しておきます。お疲れ様でした」
淡々と告げ席を立つ。平田が引き攣った笑み浮かべ、言葉を選ぶように口を開いた。
「高橙君、その……これからは、情報共有してくれると助かります。彼はまだ二年目ですし」
彼、と向井の肩を叩く。
――俺も二年目だし、課の長であるあなたは何年目だ?
そもそも、向井に指示を出し、贈答品を買いに行かせたのは平田だ。伊織が銘柄を念押ししようとしたらすでに購入済みだというので、確認してみればこの有り様だった。
「……わかりました。今後は徹底します」
苛々した気持ちを押し殺す。平田がほっとしたようにうなずいた。
「よろしくお願いします。まあ、見目麗しい高橙君からのプレゼントなら、どんな物でも部長は喜んでくださいますよ」
まるで、伊織がその容姿で取引先に取り入っているとでも言いたげな物言いに、心中で苦い笑いが漏れた。
伊織は冷ややかな表情を浮かべたまま、「失礼します」とオフィスを後にした。
エレベーターに乗り込み、階数ボタンの「一」を押した。数字がゆっくりと減っていく中、伊織は鏡に映る自分の姿に目を留める。
すらりとした長身に、整った目鼻立ちと切れ長の瞳、彫刻的な輪郭――その容姿は、モデルや芸能人のようだとよく言われる。
人前に立つことが多い立場上、端正な見た目は確かに武器になるけれど、その一方で、理不尽な妬みや偏見を招くことも少なくない。
先ほどの平田とのやり取りを思い出し、鏡の中の自分が眉を寄せた。
伊織が勤務する『セレスティアホテルズ&リゾーツ』は、日本国内の一等地を始め、アジア、ヨーロッパ、北米にまで展開する巨大ホテル企業だ。
創業者は伊織の父、
伊織は海外の名門大学を卒業後、次期社長候補として経営企画部に所属している。グローバル展開戦略やM&A案件、新規プロジェクトの企画などに携わり、着実に経験を積んできた。
ホスピタリティが通貨に替わるこの業界では、細部への気配りが命運を分ける。ブレンデットウイスキーを好む相手に、シングルモルトウイスキーを贈るなんてことは許されない。
将来的には、伊織がこの巨大な帝国のトップを継ぐことになる。完璧以上の完璧を追求しなければ、築き上げた城は一夜にして崩れ去ると、幼い頃から嫌というほど教え込まれてきた。
――ただでさえ、俺には『足枷』があるんだから。
伊織が短く息を吐いたところで、エレベーターが一階に到着した。
オフィスビルを出て、百貨店の外商担当に電話をかける。響の十七年か二十一年を探していると伝えると、幸いにも取り寄せ可能だという。部長の誕生日には間に合いそうだと、伊織は表情を緩めた。
やっと今日の仕事を終えたという気持ちになり、タクシーを捕まえるため大通りまで出る。空車を探していると、後ろから大きな怒鳴り声が聞こえた。
人を掻き分け――というより、強引にはね飛ばしながら、すごい勢いで走ってくる男が見える。
男との距離がみるみる縮まる。伊織が歩道の端に身を寄せようとした瞬間、男と目が合った。
「どけ!邪魔だ!」
怒鳴られ、頭の中が真っ白になった。
――やばい、グレア……!
咄嗟に目をそらしても、もう遅い。喉に綿を詰め込まれたみたいに、呼吸がうまく出来なくなる。身体が恐怖で竦み、全身が震えた。
弾き飛ばされる衝撃を覚悟し、目を固く閉じる。
「街中でグレア使ってんなよ」
けれど、衝撃の代わりに、すぐ側で低い声がした。
「うっ、ぐ……!」
喉が潰れたような声も続く。浅く息を吐きながら目を開けると、伊織の目の前には長身の男が立っていた。その男は伊織に背を向け、弾丸のように突進してきた男を羽交い締めにしている。
「お兄さん、大丈夫?……っと、てめぇは暴れんな」
長身の男が伊織に声をかけながら、拘束を解こうと暴れる弾丸男をさらに強く押さえつけた。
「コウ、悪いな。大丈夫か?」
人込みから新たな男が姿を現す。見るからに堅気ではない風貌で、両腕と首にはタトゥーがびっしりと刻まれている。
「大丈夫。マサキさん、こいつ連れてってよ」
コウと呼ばれた男が答える。
「おう。ほら、お前は事務所来い」
タトゥー男が弾丸男を引きずり、繁華街へと消えて行った。
騒ぎの原因があっけなく回収され、野次馬たちも散っていく。けれど伊織は、その場を動けずにいた。
息を整えることもままならない。弾丸男の『グレア』にあてられ、体調も気分もどんどん落ちる。恐怖と悲しみと苛立ちと、どうしようもない絶望感が、徐々に音量を上げる音楽のように、伊織の心身を圧迫していく。
「……あー、お兄さんもちょっと、こっち来て」
男が伊織の腕を取った。抵抗したいのに、身体に力が入らない。
狭まる視界で男を見る。黒髪にピアス、長身でしっかり筋肉のついた体躯。
伊織と同じくらいの年だろうか。垂れ目がちな二重も、すっと通る鼻梁も形がいい。甘く華のある顔立ちだけれど、その瞳の奥は暗く、どこか危うい雰囲気があった。
さっきのタトゥーの男は、弾丸男を「事務所」に連れて行くと言っていた。彼らはヤクザか何か、
腕を引く男に抗うことも出来ず、身体はただ震えるだけだ。伊織は奥歯を噛み締め、くそ、と声にならない声でつぶやいた。
伊織の身体を支配する不快感は、単なる恐怖や体調不良ではない。それは、伊織の持つ『第二次性』によるものだった。
現代社会には、男女の区別に加えて、ダイナミクスと呼ばれる第二の性が存在する。この遺伝子レベルで決定されるダイナミクスは、主に四つのカテゴリーに分類される。
支配欲が強く、他者をコントロールしたいという欲求を持つ「
人口比では、Normalが半数を占め、DomとSubがそれぞれ約二割。残りの一割がSwitchとされている。
伊織はSubだった。Domに支配され、従わされ、それを嬉々として受け入れる側。――伊織の『足枷』。
「てかさ、高橙だよね?」
男の声に、はっとなる。気づけば路地裏に連れられていた。
「俺、中学ん時一緒だった
「みち、なが」
「そう。道長
その名前を聞いた瞬間、伊織の胸はさらに重く苦しくなった。
伊織は中学三年生の二ヶ月間だけ、家庭の事情で地方の公立中学に通っていた。昂生はその時、同じクラスだった男だ。
伊織は昂生の存在を、不快な感情とともに鮮明に思い出していた。
「……覚えて、ない」
「えー、ショック」
咄嗟に嘘をついた伊織に、昂生はなにもショックじゃないように笑う。
「高橙さぁ、そんなフラフラでどうしたの?」
「……酒、飲み過ぎて……」
飲み過ぎ?と昂生が目を細め、伊織の首あたりに顔を寄せる。
「んー……全然酒の匂いしないけど。すげぇいい匂い。香水なに使ってんの?」
「……も、もう、大丈夫だから……」
「……大丈夫じゃないよね。高橙、グレアまともにくらったでしょ?」
昂生の言葉に、伊織は息を呑んだ。
『グレア』は、DomがSubに放つ威嚇のようなオーラのことだ。信頼関係のないDomからグレアを浴びたSubは、目眩や吐き気といった体調不良を起こし、精神的にもひどい嫌悪感に苛まれる。
昴生は、伊織がSubであることに気づいている。
――最悪だ。さらに気分が悪くなった。
「助けてあげようか?」
「……は……?」
「俺Domだから。ケアしてやってもいーよ。高燈も、サブドロしたくないだろ」
偉そうに、楽しそうに笑う昴生を、伊織は精一杯の力を込めて睨みつけた。けれど、きつく結んだ唇は、すぐに苦しげな吐息を漏らしてしまう。
伊織の頭の中で、頭痛と警告のサイレンが鳴り響いている。このまま放置すれば、サブドロップ――精神的に傷ついたSubが陥るバッドトリップのようなもので、疲労感と虚無感が押し寄せ、最悪の場合、命に関わる状態に陥る。
本来なら、DOMのケアが必要な場面だった。信頼できるDomによる褒め言葉や優しい接触が、傷ついたSubの心を癒す。それは単なる慰めではなく、Subのメンタルを守る重要な治療のようなものだ。
こんな男に頼りたくない。でも、サブドロップなんかになったら、仕事にも支障が出るかもしれない。
――本当に、Subなんて足枷以外の何ものでもないな。
悔しさに目の奥が熱くなる。せめて声が震えないよう、腹に力を入れて昴生を見上げた。
「……ケア、してほしい」
伊織の呟きに、昂生が満足そうに笑う。
「おいで」
昂生の一言で、ぐるりと伊織の世界が傾いた。
まるで重力が突然方向を変えたみたいに、勝手に身体が昂生へ引き寄せられる。
ああ、今のはコマンドかと、ようやく頭の片隅で理解した。
「ハグできる?」
低く囁かれ、背筋が粟立つ。従いたいという衝動が理性を追い越し、気づけば昂生の胸に身を預けていた。
コマンドは、DomがSubに対して放つ強力な命令だ。従わせる・従うことで、双方の欲求が満たされる。それがダイナミクスの本能だと分かってはいるけれど、身体も意思も他者の思うままにされることに、どうしても理不尽さが募る。
心から自身のSub性を解放するのは、伊織にとって簡単でない。それなのに昂生のコマンドは、不思議なほど穏やかに、伊織の中に染み込んでいった。
「いい子だね」
昂生の言葉が耳元で響き、柔らかな安堵感が広がる。
「目、とじて。俺の心臓の音聞こえる?」
小さくうなずいて目を閉じた。昂生の胸に、さらに顔を寄せる。
「それ聞いてて。しんどいの、なくなってくから」
トクトクと一定のリズムで打つ音を聞くうちに、昴生の言う通り、伊織の乱れた鼓動も呼吸も落ち着いていく。不快感や緊張が溶けていき、心身が温かな湯に浸かるような心地よさに包まれた。
「伊織」
昂生が名前を呼ぶ。それだけで、今まで感じたことのない高揚感が湧き上がる。
「……お前、相変わらず綺麗だね」
頬を撫でられる感触に、うっすらと瞼を開けた。
昂生はわずかに目を細め、まるで慈しむような眼差しで伊織を見つめている。伊織は言葉を探したが、頭の中は綿菓子のようにふわふわしていて、まともな思考が紡げない。
そんな静かな混沌の中に突然、金属の軋むような音が鳴り響いた。冷水を浴びせられたみたいに、身体がビクリと震える。
伊織は昂生の腕の中から顔を上げ、音のする方へ視線を向けた。街灯の明かりに照らされて、古いビルの壁面に取り付けられた看板が不自然に揺れ動いているのが見える。ギイギイと、金属が軋む不穏な音が、夜の静けさを引き裂いていく。
「危ない!」
昂生の警告が耳に届いた瞬間、看板が大きく傾き、そのまま落下してきた。鋭い風切り音と共に巨大な鉄板が二人を襲う。
昂生が素早く反応し、伊織を抱きかかえ身を翻す。看板が二人の数メートル先の地面に落下し、轟音と共に粉々に砕け散った。
弾け飛んだ看板の破片と、ビルの壁面から剥がれたコンクリート片が降り注ぐ。
避ける間もなく、瓦礫の一部が伊織の背中を激しく打った。その勢いで前のめりに倒れ込み、頭を地面に打ちつける。脳みそがグラリと揺れた。
粉塵で曇る視界の中、隣に倒れた昂生の姿が見えた。その額からは血が流れ、街灯に照らされて赤黒く光っている。
伊織は背中の鈍痛と頭を打った衝撃で、意識が薄れていくのを感じる。「死ぬかもしれない」と、他人事のように思った。
昂生の掠れた呼吸が聞こえる。小さく「伊織」と呼ぶ声を最後に、伊織の全ては闇の中へと沈んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます