音の降る草原
宙灯花
1 潮風の挫折
私は半ば無意識に足を動かして駅へと向かっていた。途切れることのない残業からの帰り道だ。
昼間は騒音の絶えることがない往復八車線の道路だけれど、残り香のような熱気が漂うだけの深夜となった今は、水の涸れた川のごとく、ほとんど通行する者はいない。
コンビニの前で、食欲の秋、と書かれた気の早いのぼりが潮の香りを孕んだ風に揺れている。いつの間に季節はまた一回りしたのだろう。
自然のままのゴツゴツとした手触りを予感させる石造りの建物の前に出た。ただそこにあるだけで歴史の重みが迫ってくるようだ。厚く硬い木の扉は閉ざされていて、青銅の太い取っ手には使い込まれた光沢があった。百年以上前に西洋の建築家によって設計された市立美術館だ。
外壁に
――
一気に心拍数が上がり、疲れていた頭に激しく血が巡って覚醒した。しばし立ち止まる。
一つ息をついて、ゆっくりとポスターに歩み寄った。出展者の紹介が載っている。そこに書かれた略歴は、私が知っているものと一致していた。そして写真。高校卒業から十年ほどの年月を経て多少大人びてはいたけれど間違いない。あの子だ。
体が熱くなるのを感じた。頬が火照っている。しかし、噴き出した汗はすぐに冷たいものへと変わっていった。
栞奈が、プロの画家になっている。
取り残されたような気分が纏わりついて体を重くした。
高校時代の栞奈は、まったく目立つ所のない大人しい女の子だった。
校則を紹介したイラストは栞奈がモデルだ、と言われれば信じたかもしれない。特徴らしい特徴がないのが特徴の、どこにでもいそうなのにいない女の子。それが結城栞奈だ。
それは美術部の中でも同じだった。
生徒同士で合評をする時、私は正直に言って栞奈の作品を観るのが苦痛だった。
きちんと丁寧に描かれているし、気になるほどの技術的な問題はない。しかし。
一目で興味が失せるほどなんの刺激もない、というのは言い過ぎかもしれないが、とにかくそのぐらい、栞奈の絵は心にいかなる動きも生み出さなかった。
たとえば風景画の場合。草原が広がり風が流れ花が揺れていて、遠くの山の緑が霞んでいる。空は色を塗り忘れたように青一色で、渡る鳥の声が聞こえてきそうだ。でも。
見えたものを切り取ってキャンバスに貼りつけた。ただ、それだけだ。そこに主張はない。感情の発露も、芸術的メタファーもまったく見当たらなかった。
私の知っている栞奈の絵は、どれを見てもそんな具合だった。
そんな栞奈がプロの画家になったというのか。会わないでいる間に、いったい何が起こったのだろう。
応援したい気持ちと、あの頃のままであって欲しいという相反する感情を抱きつつ、ポスターに印刷された作品に視線を合わせた。
ふと我に返って顔を上げた。
気づけば私は、かなりの時間、道ばたでポスターを見つめていた。息つく暇もないほどの力強さで迫ってくる色彩に引き込まれ、心を捕らえられていた。こんなに絵に集中したのは、いつ以来だろう。
ポスターの隅にQRコードがあった。スマホで読み取って開く。美術館と栞奈がコラボした特設サイトだ。そこには簡易なメタバースが仕込んであった。訪問者は仮想空間内に設置された市立美術館で栞奈の絵を見ることができるようになっている。移動に困るぐらいに、会場内にはアバターがひしめき合っていた。
時計を見た。終電が近い時間だ。私はサイトを開いたまま駅へと急いだ。
息を切らせながら満席に近い電車に乗り込んでドアの前に立った。黒い窓ガラスの向こうを、いつもと変わらない景色が流れていく。
高校卒業後、私は音大で作曲を学んだ。しかし三年生の時に、父が母とは違う女のもとに行ってしまった。生活費は入れるという約束は一度も守られなかった。
経済的に厳しくなった。音大はとてもお金がかかる。退学して働くことも考えたが、母が支えてくれた。なんとか卒業することができたものの、大学に残って勉強を続けるのは諦めざるを得なかった。大きな借金ができていた。
ゲームソフトメーカーに音楽制作の仕事で就職した。けっして楽な職場ではないが、給料は悪くない。しがみつくように働いた。でも借金は少しずつしか減らなかった。そんなふうにして、私の二十代前半は過ぎていった。
それでも夢があった。クラシック音楽の作曲コンクールで受賞して、プロの作曲家になりたいと思っている。
作曲はもちろん続けている。けれども、日々の仕事に追われて遅々として進まない。つまりは夢があると言いながら、具体的な道筋は見えていない。
そんな時に私は見てしまったのだ、かつての仲間の輝く姿を。
夕城栞奈。その名は目を開けていられないほどに眩しく感じられた。いつの間にプロになったのだろう。絵を観る暇もゆとりもなくて、栞奈がデビューしたことに気づかなかった。
電車のドアにもたれて特設サイトに視線を落とした。かなり多くの作品が展示されている。
スマホの画面でも魅力の一端は十分に伝わってきたが、もっと大きな画面でじっくり見たくなった。電車が自宅の最寄り駅に到着すると、私は家路を急いだ。
着替える間も惜しんでVRゴーグルを装着した。特設サイトを訪問する。仮想世界の市立美術館の中をゆっくり歩きながら、栞奈の絵を鑑賞していった。
技術がどうの、テーマが、などと語るのが滑稽に思えるほど、栞奈の絵は圧倒的だった。躍動感に溢れ、生命の息吹が燃え上がっていた。しかも、正体の分からない妖艶さに満ちている。魂の深い所を直撃され揺さぶられた私の目には、いつの間にか涙が滲んでいた。
いったいどうやって、こんなにも鬼気迫る絵を描けるようになったのだろう。
一通り見終わってようやく息をついた私は、自分が空腹であることに気づいた。母を起こしてしまわないように忍び足で、スマホだけを掴んで家を出た。
コンビニで売れ残りの中から適当に弁当を手に取った。でも思い直してかごから出した。パンを二つ選んだ。飲みものは自宅の冷蔵庫にまだ残っていたはずだ。
VRゴーグルを着けたまま片手でパンをかじりパックから直接牛乳を飲みつつ、私は再び栞奈の作品を見返していった。二回目は、いくぶん落ち着いた気分でじっくりと鑑賞することができた。まるでセックスのようだ、と思った。最初は切羽詰まっているけれど、一つ山を越えれば気持ちにゆとりが生まれる。そして、悠々と味わえる。
最後の絵を胸に収めた私は熱いシャワーを浴びた。鮮烈な栞奈の絵の余韻に体が火照っていた。
タオルで頭を拭きながらリビングを通りがかった私は、テーブルの上に置きっぱなしになっていたVRゴーグルをなんとなく装着した。そこに映しだされている栞奈の作品を見た瞬間に、なぜか悲しみのようなものが胸に広がった。あの栞奈が、これほどまでに魅力的な絵を描いた。
高校生の頃、私は心のどこかで自分の方が優れていると思っていたのではないか。おもしろいものの描けない栞奈に安心し、自分の作品に満足していた。
それが、もののみごとに打ち砕かれたのだ。私は何をしているのだ。悲しみが焦りに点火した。
自分の部屋に入り、パソコンと音楽制作機材の電源を入れた。書きかけの自作曲のデータを呼び出す。ヘッドホンを被りボリュームを調節して、鍵盤に手を置いた。今日こそは、何かが変わりそうな気がした。
でも。指は鍵盤に触れたまま動こうとしなかった。唇を噛む。少しも新しい音が出てこない。気持ちはあるのに何も形にならないもどかしさに深く息を吐いた。どれだけ刺激を受けても焦っても、できないものはできないのだと思い知らされた。
機材の電源を落としてベッドで仰向けになった。耳に侵入する涙も乾かないうちに私の意識は狭まり、いつの間にか朝日がカーテンを明るくしていた。
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