第48話:猫の道と、風のにおい

 朝の空気は、ひんやりとした静けさをまとっていた。

 昨日まで降り続いた雨が止み、道にはまだいくつか水たまりが残っていた。


 なぎはいつもより早く目を覚まし、カウンターから降りると、玄関の前に座って外をじっと見ていた。


「今日は、出かける気分か」


 なぎは小さく鳴いてから、するりとドアの隙間をすり抜けるように出ていった。

 思わず僕も靴を履き、あとを追いかけるように外へ出た。


 なぎの足取りは一定だった。

 迷うことなく、まるで“決まった道”を歩くように、細い路地をすいすいと進んでいく。


 以前、葉子さんの家を訪ねたときも思った。

 この猫は、町の中に“自分の地図”を持っている。


 風が吹いて、どこか遠くから朝食の香りが漂ってきた。

 パンの焼けるにおい、潮のにおい、洗濯物の柔軟剤のにおい――それらが交じり合って、静かな町の息吹になっている。


 なぎは、港の裏手まで歩き、少し広くなった砂利道の片隅で立ち止まった。

 そこには、苔むした石のベンチと、すこし傾いた木の看板があった。

 観光用ではない、古い手描きの地図。葉子さんが昔描いたものだと、以前町の人から聞いた。


 なぎはそのベンチにぴょんと飛び乗り、ゆっくりと丸くなる。

 僕は隣に腰を下ろした。


 風がひと吹きして、木の葉がざわめいた。

 遠くに船のエンジン音が聞こえる。


「……ここも、君の“店”の一部かもしれないね」


 なぎは目を閉じたまま、耳だけを動かしている。

 風の音や人の足音、鳥の羽音……そのすべてを、彼は記憶しているのだろう。


 僕は、あらためて町の風景を見渡した。

 この港、曲がり角、坂道、灯台のかすかな輪郭――すべてが、静かに“続いてきた”場所だ。


 そして、今その中に、自分の暮らしも溶け込んでいる。


 なぎが立ち上がった。

 もう少しこの場所にいたい気もしたが、どうやら彼の散歩はここまでらしい。


 帰り道、すれ違った魚屋の主人が声をかけてきた。


「お、今日は一緒に散歩か?」


「なぎの道に、ついていってるだけです」


「はは、あいつの道はね、この町の裏側をよく知ってるよ。

 猫の目線ってのは、地面に近いぶん、いろんなことを覚えてるんだ」


 猫の目線――たしかに、それは“店の中”では見えないものだった。


 店に戻ると、なぎはそのままキッチンマットの上に寝そべり、前足を舐めはじめた。


 いつもどおりの姿。

 でも、今日だけは少し誇らしげに見えた。


 僕は焙煎機に火を入れながら、風の中に残っていたにおいを思い出していた。

 珈琲の香りに重ねてみると、不思議としっくりくる。


 この町の空気が、自分の焙煎に混ざっている。


 帳簿に、今日のことを記す。


 《なぎの道を歩いた。

  この町の風、におい、音が、自分のものになってきている。

  町と暮らしと、猫の記憶のあいだに、僕は今、確かにいる》


 その隣で、なぎがうとうとと目を閉じる。

 今日の散歩は、きっと“確認”のようなものだったのかもしれない。


 ――この店と、この町と、この暮らしが、ちゃんと根を張ってきたかどうか。


 そしてたぶん、なぎの答えは「はい」だった。

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