第46話:さよならを告げる猫
午後三時過ぎ、夏の陽射しが少し和らぎ始めたころ、店の扉が開いた。
入ってきたのは、数ヶ月前から通っていた若い女性客だった。月に一度だけふらりと現れ、決まって窓際の席に座る人。
今日は少し、顔色が違った。
笑顔ではあるけれど、どこか心にしんとした影が落ちているような。
「こんにちは。……今日も、あの席、いいですか?」
「もちろん。どうぞ」
彼女は席に座り、少しだけ外を見たあと、ふとカウンターに目をやった。
「なぎ、いますね」
「はい。今日は珍しくずっとあそこにいます」
なぎはカウンターの端で、前足を揃えてじっと座っていた。
来客に反応して動くことはあっても、こんなふうに“見守る”ように座っている姿は珍しかった。
彼女は、アイスブレンドを注文した。
「今日が、たぶん最後なんです。……引っ越すことになって」
ゆっくりと氷が揺れた。
その言葉に、僕はただ静かに頷いた。
「そうでしたか。遠くへ?」
「ええ、仕事の都合で。海のない町に行くんです」
彼女は微笑んだが、目は少しだけ潤んでいた。
「ここの珈琲、最初はたまたま入っただけだったんです。
でも、何度か来ているうちに、来ること自体が目的になってて……
“この店で飲む珈琲”が、日常の一区切りになってました」
「……そう言っていただけるのは、本当にうれしいです」
「この席も、なぎも、ちょうどいいんですよ。
なんというか、“ちゃんと静かにしてくれる感じ”がして」
グラスの水滴が、テーブルに小さな輪を残していた。
彼女はそれを指でなぞりながら、続けた。
「どこに行っても、きっと珈琲を飲むと思います。
でも、“思い出す味”はきっと、ここです」
なぎがそのとき、するりとカウンターから降りた。
誰に呼ばれたわけでもないのに、まっすぐに彼女の足元へ歩いていく。
彼女は驚いたように目を見開いた。
「……来てくれた」
なぎは、彼女の足元で一度だけ小さく鳴き、椅子の脚に身体を預けるようにして横になった。
「……ちゃんと、見送ってくれるんですね」
彼女は、しゃがんでなぎの背をそっと撫でた。
その仕草に、別れの言葉が詰まっているように思えた。
「……本当に、ありがとうございました。
店主さんも、なぎも、この場所も。全部、私の大切な記憶です」
「また、いつか帰ってきてください。そのときも、きっと変わらずお待ちしています」
彼女は、ひとつだけ深く頭を下げてから、グラスの残りを飲み干した。
そして、立ち上がり、なぎに向かってもう一度だけ手を振った。
「じゃあね。またね」
なぎは何も言わなかったけれど、目を細めて、じっとその姿を見送った。
扉が閉まる音が、今日は少し長く響いた気がした。
夜、帳簿を開き、今日の欄に書く。
《ひとりの客が旅立った。
言葉を尽くす代わりに、なぎがそっと寄り添ってくれた。
別れの静けさも、この店の味の一部。
誰かが去っても、ここは続いていく》
なぎは、カウンターの上に戻ってきて、静かに丸くなった。
いつもの場所、いつもの姿。でも、今日はほんの少しだけ、背中があたたかく見えた。
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