第42話:なぎのいない昼
朝、店の戸を開けても、なぎの姿がなかった。
いつもなら、どこからともなく現れて、店の中へ当たり前のように入ってくるのに――今日は、その姿が見えなかった。
玄関の前、店の裏、小さな木陰。
それらしい場所をすべて確認したが、見つからなかった。
「……散歩が長引いてるだけだろ」
自分に言い聞かせるように、焙煎機に火を入れた。
いつも通りの手順で豆を煎る。でも、なぎがいないだけで、店の中の空気はどこか間延びしていた。
香りはしっかり立っている。湯の落ちる音も耳に届く。
それでも、背中に感じていた視線も、カウンターの端にいた小さな重さも、そこにはなかった。
最初にやってきたのは、画家の常連だった。
彼はドアを開けるなり、首をかしげる。
「……あれ? 今日は不在ですか?」
「朝から、まだ帰ってこなくて」
「ふうん。なぎのことだから、どこかで風とおしゃべりでもしてるんでしょう」
彼はそう言って笑ったが、店の椅子に座ったとき、なぎのいつもの席をちらりと見ていた。
アイスブレンドを出すと、彼はひと口飲み、ふうと息をついた。
「……味は変わらないのに、不思議ですね。空気が、ちょっと違う」
「僕も、同じことを思ってました」
「猫って、ただ“いる”だけで場を整えてくれるんですね。
あれは音でも香りでもなく、“気配”の話かもしれない」
午後、さゆりが現れた。
ランドセルを背負ったまま、戸口で立ち止まる。
「あれ? なぎは?」
「今朝から、まだ帰ってきてない」
「……え、今日、会いたかったのに」
彼女はランドセルを置き、窓際の席に腰を下ろした。
そして、何も言わずにメニューを見つめていた。
僕はミルク珈琲を淹れ、彼女の前に置いた。
「なぎが戻ってきたら、まずここに顔出すと思うよ」
「……うん。だって、ここが“なぎの場所”だもん」
風が少しだけ強くなり、風鈴が揺れた。
窓の外を何度見ても、やはり、白い毛の影は見えなかった。
その日の営業は、静かだった。
客の数は少なくはなかった。けれど、誰もが少しだけ言葉少なだった。
常連たちはそれぞれに「今日は姿が見えないんだね」と言って、そっと目を細めた。
夜、閉店後。帳簿をめくりながら、僕はふと思った。
なぎが来なかっただけで、こんなにも空気が違うなんて。
彼は、何も言わない。何も持ってこない。ただ、そこにいるだけ。
だけど、その“いる”という事実が、どれだけこの店にとって大切だったかを、今日は嫌というほど実感した。
帳簿の片隅に、こう記した。
《今日は、なぎのいない一日だった。
珈琲の味も、風の音も、すべては変わらないのに、何かが欠けていた。
“気配”は、見えなくても、確かに空気をつくっている》
帰る間際、ふと玄関を開けると、遠くから白い影が歩いてきた。
なぎだった。
どこにいたのか、まるで何事もなかったようにこちらを見て、小さく「にゃ」と鳴いた。
「……遅かったな」
返事のように、もう一度「にゃ」と鳴く。
そのまま、店の中に入り、カウンターに飛び乗って、いつもの定位置に丸くなった。
その背中を見て、僕は思った。
この店は、やっぱり“ふたりで”やってるんだ。
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