第23話:美咲と鍵と、もうひとつの記憶
空き家となった葉子の家を訪れた翌日。
午後の珈琲の香りが店いっぱいに広がるころ、ドアの鈴が鳴いた。
現れたのは、美咲だった。
前回よりも肩の力が抜けていて、少し日焼けした顔には、ほんのりと柔らかさがあった。
「こんにちは。……来ちゃいました」
「いらっしゃいませ。いつでもどうぞ」
言葉を交わすと、不思議と緊張はなかった。
彼女はカウンターの端に腰を下ろし、「いつもの」と言うように視線をグラスへ向けた。
僕は、焙煎したばかりのブレンドでアイス珈琲を淹れた。氷がグラスに当たり、静かな音を立てる。
「今日は、こっちに用があったんですか?」
「うん。伯母の家、少しずつ片づけてて。でも、進まないんですよね。開けるのが怖くて」
その言葉に、昨日の木箱と手紙の記憶が重なった。
僕は黙ってアイス珈琲を差し出し、彼女がひと口飲むのを待った。
「……今日の味、やさしいですね。ちょっと酸味があって、でも苦くない」
「少し浅煎りにしてみました。……葉子さんの味じゃないけど、昨日、家を見て、少し考えたんです」
美咲はグラスを持つ手を止めた。
その仕草は、何かを読み取ろうとするように静かだった。
「……行ったんですか。あの家に」
「さゆりに誘われて。外からだけ、と思ってたんですけど……木箱の中に、手紙がありました」
「……見ましたか、あれ」
彼女は目を伏せて、小さくうなずいた。
「何通かは、わたしにも見せてくれたことがありました。手紙っていうより、自分への言葉みたいだった。
たぶん、伯母はずっと“店と自分の距離”を考えていたんだと思います」
「どこまでが自分で、どこまでが“店主”なのか……そんな感じですか?」
「……うん。すごく静かな人だったけど、迷いがなかったわけじゃなかった。
でも、それでも毎日、店を開けて、猫に話しかけて、同じように珈琲を淹れてた」
彼女の声には、かつて知っていた誰かへの敬意と寂しさが混ざっていた。
それは、きっと僕にはまだ持ち得ない重みだった。
「わたし、店に入るの、ちょっと怖かったんです。
ここに来たら、“自分が何も知らなかった”って思い知らされる気がして」
「でも、来てくれてよかったです。……ここに残ってるもの、ぜんぶ美咲さんの知らないままで終わってほしくなかった」
言葉にすると少し照れくさかった。
でもそれは、手紙の文字を読んだとき、自然と湧いてきた気持ちだった。
美咲は静かに笑い、鞄からひとつの鍵を取り出して、カウンターに置いた。
「これ、あの家の鍵です。……預かってもらえませんか?」
「え?」
「片づけが進まないのは、私だけの場所にしておくには広すぎるからだと思う。
伯母のこと、もう少し誰かと一緒に思い出していく方が、きっといいんだと思います」
鍵は、冷たく光っていた。
けれどその重さは、不思議と重荷ではなかった。
僕は黙ってそれを手に取り、そっと頷いた。
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