第7話
お風呂から上がり、借りたタオルで濡れた髪をざっと拭く。
彼が用意してくれたスウェットは、だいぶ大きくて、裾も袖も余る。
下着もないせいで、体が落ち着かずそわそわする。
けれど、それ以上に、心の芯に少しだけ温もりが残っていた。
鏡に映った自分の顔は、まだどこか腫れぼったい。
でも、涙のあとが残る顔を、今は嫌いだとは思わなかった。
リビングに顔を出すと、彼が振り向いて優しく微笑んだ。
「温まったかい?」
その一言に、胸がじんとする。
「あの……色々とありがとうございます。ご迷惑、おかけして……すみません。私、佐藤優と言います」
深く頭を下げると、彼はふっと笑った。
「僕も佐藤なんだ。佐藤健志。さすが、多い名字No.1だね」
軽やかな冗談。
誰かに名前を名乗られたのが、こんなにも安心感をくれるなんて思わなかった。
「優さん、お腹すいてない? 大丈夫?」
出会ってから、何度この人に「大丈夫?」と聞かれただろう。
今までの人生で、こんなにも誰かに気をかけられたことがあっただろうか?
「……お風呂、お先にありがとうございました。佐藤さんも……あ、健志さんも、温まってください」
そう言うと、彼は嬉しそうにうなずいた。
「うん、ありがとう。じゃあ、ちょっと行ってくるね。休んでて。部屋はそこのドアの奥だよ。ベッドも使っていいから」
健志さんは、白猫に軽く挨拶をして、パタパタとバスルームに向かっていった。
しんと静かになったリビング。
床にちょこんと座ると、白猫が足元に擦り寄ってきた。
「ニャー」
声をかけると、猫はその小さな体を私の膝に乗せてきた。
そっと抱き上げてみると、ふわふわであたたかくて、心の奥がじわりとほどけていく。
「猫ちゃんのご主人様は、ずいぶんお人好しで、優しいのね」
誰に言うでもなく、ふわふわの毛に向かって呟いた。
「猫ちゃん、いい人に飼われて、幸せね」
猫はまるで言葉がわかるかのように「ニャー」と鳴き、私の胸元でゴロゴロと喉を鳴らした。
その振動が、まるで心臓に直接伝わるようで、なんともいえない気持ちになる。
生き物の温かさ、やわらかさに触れたのは、いつぶりだろう。
自然と口元がゆるみ、気づけば小さな笑みがこぼれていた。
「……猫ちゃんは、なんて名前なの?」
問いかけても、猫は答えずにただゴロゴロと喉を鳴らす。
「いいなぁ。幸せそうで。私も猫になりたいなぁ……。可愛がってもらって、大きな手で撫でてもらって、昼寝して……何も考えずに」
その言葉をつぶやいた瞬間、胸が少しだけちくりと痛んだ。
──なにも考えずに、甘えられたら。
誰かに「いてくれていい」って言われたら。
そんな当たり前のことが、自分にとってはどれだけ難しかったか。
猫のあたたかさに頬を寄せながら、私はふと思う。
もし、ここが“安心して息ができる場所”なら……
もし、もう一度生き直せる場所があるとしたら……
この家のソファから、その一歩を始めてもいいだろうか。
そんな淡い思いが、心の奥で芽生えはじめていた。
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