第5話
こぼっ、ごぼごぼっ……。
泡の音だけが、耳の奥で反響している。
──あれ……?
私は、夢を見ているの?
ふわふわと、体が浮かんでいるような気がする。
でも、肺が焼けるように苦しい。
口を開けても、空気が入ってこない。
これは、夢じゃない。
現実だ。
私は、夜の海の中にいる。
光が届かない海の底。
上下も左右も分からない。
視界はぼやけていて、音も遠い。
ただ、静かだった。
やけに、静かだった。
このまま、沈んでしまえばいい──
そんなふうに思っていた。
だって、私は誰にも愛されない。
誰にも必要とされない。
生きていても、誰かの迷惑になるだけ。
せめて、この“心の重さ”だけでも、水に溶けてくれたら。
もう、すべてを手放してしまいたかった。
苦しさも、孤独も、涙の出ない哀しさも。
重い心を抱えたまま、私は海に沈んでいく。
──このまま、泡になって消えてしまいたい。
ふと、遠くの方で、誰かの声が聞こえた気がした。
「……いじょうぶか……」
でも、それは夢の中の音のようで、意味も掴めないまま、意識が遠のいていく。
そのときだった。
左腕を、誰かの強い手が掴んだ。
ぐっと引っ張られる感覚。
ぐらぐらと体が回転し、水面の方へ向かっていく。
体が浮き始め、次第に重力を感じる。
海面が割れた瞬間、冷たい夜風が顔を叩いた。
息をしようとして、思い切りむせる。
口いっぱいに水が入ってきて、ゴホッ、ゴホッと咳き込む。
胃の奥から、水が逆流してきて、何度もえずいた。
「……大丈夫か?」
背中をさすられる感触。
あたたかい掌が、濡れた背中に触れている。
誰かが、私を助けてくれた?
「落ち着け……大丈夫、吐き出してしまえ」
しゃがみ込んだ私の隣に、その人はずっと寄り添っていた。
水を吐きながら、私は何度も咳き込む。
喉も胸も焼けるように痛い。
「死のうとするなんて……バカなことを……」
男の声は、静かで、それでいて震えていた。
怒っているというより、悲しんでいるような声だった。
──死のうとした?
私が?
ああ、そうか。私、死ぬところだったんだ。
けれど、よく思い出せない。
どうして自分がここにいるのかさえも。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
濡れた服が肌に貼りついて、夜風が容赦なく吹きつける。
それでも、隣にいるその人は、ずっと私の背中をさすってくれていた。
「……ご迷惑……おかけして……」
ようやく、それだけを絞り出すと、男が小さく笑った。
「こんな時間に海にいた俺のほうが不自然かもしれないけどな」
私はゆっくりと顔を上げた。
月明かりに照らされて、彼の顔がぼんやりと浮かぶ。
年齢は……三十代半ばくらいだろうか。
濡れた前髪が額に張りついている。
でも、その目はとても優しかった。
私を責めるでも、避けるでもなく、まっすぐに見ていた。
視線を交わした瞬間、胸の奥で何かが“割れた”。
「大丈夫か?」
その言葉が、また降ってくる。
……“大丈夫か”。
きっと、今までの人生で、何百回も聞いた言葉だ。
でも、こんなふうに、心の底まで届いたのは、初めてだった。
その瞬間、堰を切ったように、涙があふれ出た。
ポロポロと、音もなく落ちていく。
嗚咽もできないまま、ただ、ただ泣いた。
「……っ、うう……」
止まらない。
目の奥が熱い。
視界がにじんで、月が揺れて見える。
「泣いていい。泣けるうちは、生きていい」
その言葉に、私はさらに声を上げて泣いた。
いつもなら「私は平気だから」って、言うはずだった。
でも、今はもう、その言葉が喉から出てこない。
だって、私は平気じゃない。
もう、とっくに限界だったんだ。
それに、今この人の前では、“平気なフリ”なんてしたくなかった。
濡れた砂に膝をついて泣く私を、彼は黙って見守ってくれていた。
月の光が、ふたりを包むように照らしていた。
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