第9話/天使のキスの後に遺るのは①

「え、ちょなにを!?」


「痛った!」


「あ、ごめんひー君。でもそれどころじゃ……」


 突然の接吻。当事者ではない心がとっさに両手で顔を隠し、その行動により柊也は床に落ちてしまう。けれどヒュプノスのそれは止まらない。まるで橘を食べるかのように何度も口を重ね直し続けている。


 橘もまさかこんなことをされるとは思っておらず、一瞬で茹で蛸のように顔が真っ赤に染まり、薄らと涙を流している。時々腕を動かしていることから抵抗しようとしているのを伺えるが、ヒュプノスのそれは抵抗する暇すら与えない優しくもしかし激しいもの。


 次第に橘の顔が蕩け始め、抵抗しようとしていた手も動かなくなっていた。

 

「ふう……だから嫌なんだよこれ……無駄に疲れるし、驚かれるし……なんで記憶を消すのに接吻しないといけないの……ボクの先祖変態すぎるでしょ」


 橘が完全に抵抗しなくなった刹那。ヒュプノスは彼女の口から唇を離す。お互いの口の間に細い糸が逆アーチ状に引いておりどれだけ長い時間接吻していたのかが物語っている。


「あぅ……は、初めて……だったのに」


「だいじょーぶ。ボク女の子だしのーかんのーかん?」


 漸くヒュプノスから解放されても、脳は思考を停止したまま。少しして脳が働き始めると袖で隠した右手で口元を抑えて漸く橘が言葉を発した。その声は震えており、動揺と困惑、羞恥といった様々な感情が渦巻いている証拠だった。

 

 けれどヒュプノスは表情を一切変えていない。それに儀式が終了した直後に呟いた台詞から過去に経験していると推察でき、ならば慣れていると考えられ表情を何一つ変えないのも理解ができる。

 

 そして慣れているからこそ、相手が含羞の色で頬を染めているのも理解しているのか、励ますように軽くブイサインを作り、ノーカウントだと言った。


 『ノーカウント』。キスに慣れている彼女にとってはそれでいいかもしれないが、その行為が初めての経験である以上橘の中ではノーカウントなどできない。加えて同性であるのに接吻のせいで変にヒュプノスのことを意識し始めており、近くにある彼女の顔を直視できず逃げるように目を反らした。

 

「そ、そういう問題じゃ……あぅぅ……」


「……どのみち明日には今日のことも、悪魔のことも忘れてるから、本当に大丈夫。あとは君次第だよ」


 動揺による気持ちの変化もヒュプノスは慣れている。橘が自身に対してことに気づくと、面倒だと言いたげに息を吐いて距離を取り踵を返す。続けざまに低く暗いトーンでそう吐き捨てて真っ先に音楽室を後にした。


 これにて問題は解決――ではあるが、倒れた人たちは起きる気配がない。まだ何か異変があるのではと放心状態気味の橘を置いて、廊下に出てヒュプノスを追いかける柊也と心。ヒュプノスが廊下に出てからまだ時間がたっていないことが幸いで、すぐにヒュプノスを捕まえる。


 急いで戻るようにと。倒れた人がまだ残っていると伝えたのだが、やれやれとヒュプノスは首を横に振った。


「この世の秩序は絶対。あの子の悪魔の記憶を消したことによって、悪魔の被害そのものが消えるんだよ。記憶だけ消してるのに不思議だよねぇ……あー、完全に記憶が消える明日には……悪魔の力は消えてるだろうから……今日の出来事がなかったことになって、倒れた人も元に戻るはずだよ……ふわぁあ……眠い……寝ていい? 良いよね、おやす……」


「一瞬で立ったまま寝た!?」

 

 日頃から寝ていたり仕事をしたくないと言うほどには体力がなく、だからこそひと仕事終えたあと眠気が襲ってきた。


 その睡眠欲に流されるまま、立ったまま寝始めるヒュプノス。記憶を消すことで元に戻るというにわかに信じ難い言葉に疑問しか残らないものの、残された柊也と心には倒れた人を助ける手段などない。あるとしてもヒュプノスの言葉を信じることだけだ。


 とは言えこのまま置いて行ってもいいのだろうか。そんな疑問が柊也の中によぎる。一部とはいえ生徒がたった一人の歌で倒れるという大事件なのだ。今は良くても後々騒ぎになるはずだ。


 しかしその心配は杞憂に終わる。


「あ、せ、先生これにはわけが――」


 見回りなのか丁度教員とすれ違った。だが、まるで柊也達のことなど見えていないかのように、挨拶すら交わさず、柊也の言葉にも見向きもしない。


 柊也の後ろは音楽室。扉は先程解放してしまった。となれば倒れた生徒が数名横目でも見て取れるはずだが、まるで何も気にしていない様子。


 その光景は教員だけが別の世界にいるような感覚だった。


 一体何が起きているのかは当然わからないが、難を逃れたことに一度安堵の息を吐く。


「なんで大丈夫だったんだ……?」


「いや、私に聞かれても……あ、私の力は今は発動してないからね言っておくけど」


「誰も疑ってないからな? でもそうなると考えられるのはこいつだろうな……とりあえずここにいても仕方ないし、こいつ連れて一度帰るか。なんか起きる気配もないし」


「あ、じゃあその前に……なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」


「いや、死んでないだろ」

 

 余程疲れているのか、何をしてもヒュプノスは起きそうになく、仕方なく背負い歩き出す。


 そして心も着いていこうとするのだが、これから帰ると聞くやいなや、心はくるりと踵を返し、音楽室へ向かって合掌してから後をつけた。


 暫くして柊也の家にたどり着く。未だにヒュプノスは深い眠りの中。そっとベッドに下して軽くなった肩をぐるぐると回す柊也。ヒュプノスはちゃんと食べ物を食べているのかと心配するくらいには軽い方ではあったが、それでも四十あるかないかの体重が全て肩に圧し掛かり、その状態で何分も歩いていたのだから肩が凝るのも仕方がないことだった。


「ていうか、心お前平然と俺の部屋にいるよな。さっさと家に帰れ」


「隣だし別にいいじゃーん。ひー君の家が私の第二の家みたいなものだし。あ、それとも~私がいて困ることをヒュプノスちゃんにするのかな~?」


「誰がこんな寝坊助天使に……はあ、正直帰ってほしいところだが……そこまで言うなら居てもいいけど、今日色々あっただろ? それに一度倒れてからどうにも気分が優れなくてな。こいつも起きなさそうだし、明日にならないと今日のことがどうなるかわからないし俺も寝ようかなって思ってただけだ」


 肩の凝りを軽く解したところで、平然と柊也の家へ上がり込んだ心に鬱陶しさを感じながら家に帰るように言った。今日一日悪魔だなんだという話や、危うく死にかけたこと、それを助けるという名目で心に抱き着かれたことなど、彼にとって刺激のあるものばかりで精神面が疲れ切っている。そんな中で受ける心の明るさとからかいは鬱陶しく感じてしまうのだ。


 それに抱き着かれた時のあの柔らかな感覚が未だに思い出せてしまい、心のために忘れるためにはとにかく寝るしかないと考えてもいる。


 だが当然心に、柊也の気持ちはわかるはずもなく。

 

「なーるほど。じゃあ私が添い寝をしてあげよう!」

 

「……頼むからやめてくれ。俺が持たない」


「あれ~? 私のこと全然興味ないみたいな感じだったのに意識してるんだ?」


「そんなもん、あんなことされたら誰だって……ともかく別にこいつに何をするとかはないし、心配なら俺はネカフェでも行って寝るから」


「いやそこまでとは言ってないからね? でもふうん? 私のことをねえ? じゃあ私は襲われないように家に戻ろうかな~」


「そうしてくれ」


 恥ずかしさを悟られないように、避けようとする柊也の反応が思ったよりも良く、にまにまとした彼女は柊也の要望通り家に帰ることにした。

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