猫獣人



 男は薬棚の前に立つと作りかけだったらしい薬草を煎じ始める。男から香った匂いは、このカウンターに並べられた瓶のものだった。今は人間の姿だから平気だけど、猫の姿になって近くで嗅いだら、酔ってふらふらになるだろう。

 けれど今は漂ってくる薬の香りに気分が高揚している。


「あの、あなたが常闇の魔法使い、アーベルトさんですか」

 念の為、ノアは男に確認した。

「どこでその名を聞いた」

「えっと、魔法学校の先生です」

「アーベルトは魔法使いの屋号。私の名前じゃない。常闇の魔法使いは、ここに住んでいた私の師匠の通り名だ。――私は、先代のその名も屋号も継いだ覚えはない」

「じゃあ、あなたのこと何て呼べばいいですか」

「好きにどうぞ」


 実にそっけない返事だった。友好的だと思ったら、急に突き放される。ノアは戸惑ってばかりだ。


「好きにって言われても。魔法使いさんの名前、ちゃんと教えてください」

 さっきからニヤニヤと人が焦ったり困っている様子を楽しんでいるみたい。なんだか気難しい人だなと思った。

「レイム」


 囁くような声だった。もっとお腹に力を入れて喋ったらいいのに。ノアは首を傾げる。


「エーム?」

「レ、イ、ム」


 今度は、はっきりと聞こえた。


「偽名、とか」

「お前に名前を教えたところで私の命が奪えるとは思えないな」

「じゃあ、本名なんだ」


 レイムは、それに返事はしなかった。


「魔法使いなのは、そう。仕事はここで薬屋を営んでいる」

「魔法使いなのに薬屋なんですか?」

「魔法使いは仕事じゃない」

「ふーん? そうなんだ。レイムさん、ね」


「それで、獣人が魔法使いの学校に通っているのか。王立の?」

「ちが、います。えっと、入学試験で追い出されて」

「だろうな。獣人が魔法使いになれるはずがない」

「そう、なんだ……」

「あぁ。少なくとも魔法学校には入れないな。あそこの奴らは頭が固いから」


 自分の頭に猫の耳と尻尾が出ていたら、分かりやすくしょげて見えただろう。あいにくと頭に猫の耳とお尻に尻尾が出るのは嬉しい時だけだ。

 さらにいえば、うんと悲しくなれば猫になってしまう。

 今は心に致命的なダメージを受けるほどじゃなかったので、人間のままだった。


「わざわざ出向いていただいたところ申し訳ないが、私に魔法学校の入学へ口添え出来るような権限はない」

 ノアは、しょぼしょぼと歩いてレイムの立っているカウンターの前まで来た。

 たくさんの薬草や羊皮紙、ガラス瓶に不思議な匂いのする液体。街の薬屋で見たこともないような道具が所狭しと置かれている。ノアは、それを挟んでカウンターでレイムと向かい合った。

 レイムは少し前屈みで歩くけれど、決して特別、背が低いわけじゃない。いつもこの低い台の前で仕事をしているから癖なのだろう。

 頭一個くらいの身長差があるので必然的にノアが見上げる形になっていた。


「えっと。学校の面接はダメだったんだけど、でも諦められなくて。俺には魔法が必要だし」

「――病気にでも罹ったのか」

「違う、けど」

「なら私は力になれないだろうな」


 細長いガラス瓶を揺らしていた手が止まり、じっと見下ろされる。


「俺、魔法使いになりたいんです! だから俺をあなたの弟子にしてください」

 ノアはカウンターに手をついて前に身を乗り出した。

「弟子、ね。そんなものなってどうする」


 レイムは鼻で笑った。


「どうするって、俺、猫の獣人だから」

「獣人、だからどうした」


 綺麗な眉がぴくりと跳ね上がった。周囲の空気が突然冷たくなる。ノアはレイムの眼力でたじろいた。


「お、俺、魔法で普通の人間のように生きたいんだ。魔法の力があれば簡単に変身出来るでしょう。さっきレイムさん、俺を人間に戻してくれたし!」


 目を輝かせて話すノアをレイムは冷めた目で見下ろしていた。レイムは、右手を前に出してノアを制する。


「普通の人間、ね。実にくだらないな。そんな理由で魔法使いに?」

「え」

「――私が貴様を世界一苦しめてやろうか。私の力を安易に欲したことを後悔するくらい」


 レイムは暗い瞳で不敵に笑った。


「く、苦しめるって」

「もちろん言葉通りの意味だな。私は魔法使いだ。気に入らない人間を苦しめる手段をたくさん持っている。いい機会だから貴様に使ってみようか」

「な、なんで」


 ノアはびくりと体を震わせた。


「言った通り、気に入らないからだな」

「そ、そんな」

「まぁ。その前に貴様の身の上話でもなんでも好きに話せばいい。今日は客も来ないしな」


 レイムはカウンターから出て、奥の暖炉の前にあるソファーに座った。


「どうぞ」


 レイムは顎で前の木椅子に座るように促してきた。まるで午前中までノアが受けていた試験みたいだ。魔法学校の教師より威圧感があるし、こっちの方が緊張感がある。ノアがその場で戸惑っていたら、白木のローテーブルの上に魔法でティーセットが二つ現れた。


(俺、もてなされてる、の?)


 なんだかよく分からない。嫌われているように感じるけれど、魔法学校の先生や両親たちがノアに向ける嫌悪とは異なっていた。


「どうした? 話さないのか。俺に言いたいことがあってここまで来たのだろう」

「これ、もしかして入門試験、ですか」

「いや。私は弟子を取らない。それでも話したいのなら好きにすればいい。暇つぶし程度にはなるだろう」


 王都で魔法学校の試験を受けても門前払いされた。けれどレイムはノアが獣人と知った上で話だけは聞いてくれている。

 それにレイムは、ノアの望みに対して一度も「獣人だから」と口にしなかった。

 ノアはレイムの正面に座った。

 本当に暇潰しのつもりなのか、レイムはティーカップ片手にソファーに背を預けくつろいでいる。ノアはおずおずと口を開いた。


「あの、レイムさんは俺が獣人だから弟子にしないんですか」

「いや。私にメリットがないからだな」

「じゃあ、レイムさんに何かメリットがあったら俺を弟子にしてくれますか」

「そんなものは、ない」

「うっ」


 にべもない。

 確かにノアを弟子にしたところでレイムに何の得もないだろう。


「べ、勉強はできる」

「できるから何だ」

「りょ、料理もできる!」

「料理くらい私もできるな」


 ちらりと奥の部屋を見ると台所は綺麗に片付いていた。普段から料理をする人の台所。物は多いが正しく整理整頓がされている。ノアがこの調子で掃除や洗濯が得意と言ったところで、同じ回答が返ってきそうだ。


「じゃあレイムさんが苦手なことって」

「魔法使いに、それを訊くのか?」


 器用だと言いたいらしい。確かに魔法を使えば大抵のことは出来る気がした。

 レイムはソファーに置いていた読みかけらしい本を手に取り読書を始めた。黒く艶やかな髪がサラサラと肩の上を滑る。

 何だか一つ一つの動作が手順書のようだ。所作が丁寧で隙がない。

 綺麗だけど、どこか嫌味ったらしい。魔法使いって、みんなこういうふうなのだろうか。


(なんだよ『きょうの料理」って)


 本当に休憩の片手間にノアの話を聞いているのだろう。

 いくら考えたところでノアを弟子にして、レイムが喜ぶことが見つからない。それでもせっかくのチャンスをふいにしたくなかった。獣人だから駄目と言われていないのだから。


「俺が獣人だと、周囲に迷惑だから、魔法でなんとかしたい、です」

 たどたどしく言葉を続けた。メリットがないなら、必要性を説こうと試みる。自分が魔法使いになることは世の中のためになる。獣人でいることは周りに迷惑だから治さなければいけない。自分のためじゃない。人のため。


「なぜ? 獣人は病気ではないだろう」


 レイムのあっさりとした言い方にノアは言葉に詰まった。ノアの常識では獣人は病気みたいなものだった。治らない不治の病。発情期の症状なんて、まさにそうだ。

 違うと分かっていてもそう思ってしまう。


「……病気だ。治せるなら治した方がいいに決まってるよ」


 ノアの声のトーンが落ちる。こんな自分じゃなかったら、もっと楽しい人生だったと思う。ノアが獣人じゃなければ親だって喧嘩しない。猫に変化するたびに森へ置いていかれたり、家の離れに閉じ込められたりしなかった。

 苦しむことなんてなかった。


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