サレる気持ちを味わって

海野雫

プロローグ 幸せな結婚生活

第一話

 春の穏やかな陽射しが窓から差し込む四月の午後。葵は自宅の一室で、銀のワイヤーに小さなターコイズ石を丁寧に固定していた。

「よし、完成」

 新作ネックレスを窓辺にかざすと、青い石が陽光を受けて神秘的に輝く。オンラインショップ「Aoi's Gems」で販売しているハンドメイドアクセサリーの一つだ。彼女は肩を回し、長時間の作業で凝った首筋をほぐす。時計は午後五時を指している。そろそろ夫・健一が帰宅する頃だ。

「今日は特別な日にしよう」

 そうつぶやきながらキッチンへ向かい、冷蔵庫から国産牛のフィレ肉と彩り豊かな野菜を取り出す。健一が大手広告代理店でクリエイティブディレクターに昇進して一か月。落ち着いた今、改めてお祝いをしようと特別ディナーを用意するのだ。

 窓の外を見下ろせば、七年前、二人でこのマンションを購入したときの喜びがよみがえる。子供はいないが、互いの仕事を認め合い、協力しながら暮らしてきた。葵は在宅でアクセサリーショップを経営し、最近はコラボの依頼も増えている。充実した毎日に、彼女は静かな満足感を覚えていた。

 玄関のドアが開き、健一の声が聞こえる。

「ただいま」

「おかえりなさい。今日は早かったのね」

「わりと順調だったからさ。いい匂いがするね」

「昇進祝い、ちゃんとしてなかったから」

 そう言う葵に、健一は嬉しそうに微笑み、軽くキスをする。スーツを脱ぎソファに腰掛けた彼に、葵は赤ワインを注いだ。

「新しい部署はどう?」

「忙しいけどやりがいがあるよ。若いデザイナーの感性は本当に刺激的だね」

「あなたの経験なら、きっといいチームに育てられるわ。私、信じてるから」

「ありがとう。葵がいてくれると心強い」

 ディナーにはフィレ肉のステーキとサラダ、スープを用意し、二人はゆったり食卓を囲む。健一は何度も料理を褒め、葵は「喜んでくれて嬉しい」と優しい笑みを返す。食後、バルコニーに出ると心地よい夜風が吹き、東京の街がきらめいていた。

「来週、会社で俺の昇進パーティーがあるんだ。一緒に来てくれる?」

「もちろん。ドレスはどうしようかしら」

「フォーマルで大丈夫だよ。何を着ても似合うから心配ない」

 そんな甘い言葉に思わず頬が熱くなる。健一は「これから忙しくなるかもしれないけど、二人で乗り越えていこう」と、そっと葵の肩を抱いた。

 ──翌週。高級ホテルの広いホールでは広告業界の要人や健一の同僚たちが一堂に会していた。深紅のドレスを纏った葵は夫の腕に寄り添い、祝福の言葉を受ける健一を見つめる。

「まだ実感がわかないよ」

 そう言いながらも、周囲の称賛を受けて嬉しそうに笑う健一。葵は誇らしく思い、「あなたなら大丈夫よ」と手を握った。

 やがて健一は仕事の話に没頭し、葵はドリンクカウンターへ。近くで若い女性社員たちが「水野さん、カッコいい」「才能あるし出世しそう」と囁いている声が聞こえた。視線を戻すと、健一は若いスタッフに囲まれ談笑している。中でも長い黒髪の美しい女性が、とりわけ熱心に健一を見上げていた。

「誰かしら……」

 そう呟いたところに、健一が気づいて手を振る。そばにいた女性が軽く会釈した。

「葵、こちら城ヶ崎麗子さん。新しくうちの部署に来たデザイナー。優秀なんだ」

「はじめまして。ご主人には本当にお世話になっています」

 礼儀正しく挨拶する麗子に、葵は微笑み返す。健一の才能を認め、慕う人が増えるのは喜ばしい。そう思いながらも、麗子の瞳に宿る強い熱が少しだけ気にかかった。

 パーティーを終え、タクシーで帰宅する道すがら、健一は興奮気味に「みんなが期待してくれてるから、応えたい」と話す。葵は彼の手を握り、「一番近くで支えるのが私の役目だもの」と微笑んだ。夜の街を走る車窓の向こう、桜がひっそりと揺れている。

 昇進、葵の仕事の成長、そして何より二人の穏やかな絆──すべてが順調だと思っていた。だが、これが夏を迎える前の最後の平和な春の日々だとは、まだ誰も気づいていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る