第5話:白い町ミハスへの小旅行

 翌朝、紗季は早起きして、エレナに案内されてホテルの裏庭に向かった。朝日がちょうど裏庭に差し込み始める時間だった。


 裏庭の隅には、古い木箱を改造した小さな猫ハウスがあった。その周りには柔らかい毛布が敷かれ、母猫が三匹の子猫を日光浴させていた。


「おはようございます」


 エレナは小声で挨拶し、紗季を母猫のところへ案内した。母猫はキジトラで、子猫たちも同じような模様を持っていた。


「この子はマンチャ。一ヶ月前に子猫を産んだの」


 エレナは説明した。マンチャは人間の気配に警戒したが、エレナの声を聞くと安心したように緊張を解いた。


「毎日世話をしているのね」


 紗季は感心した様子で言った。


「ええ、でもあまり干渉しないようにしているわ。彼女は良いお母さんだから」


 エレナはそう言って、少し離れた場所から母猫と子猫たちを見守った。


 紗季はゆっくりとしゃがみこみ、カメラを構えた。朝日の柔らかな光の中で、母猫が子猫をなめる姿、子猫たちが目を細めて日光浴をする様子を撮影した。子猫たちはまだよちよち歩きで、時折つまずいては起き上がる姿が愛らしかった。


 特に印象的だったのは、一匹の子猫がミルクを飲み終わった後、満足そうに伸びをする姿だった。小さな体を精一杯伸ばし、それからコロンと横になる様子に、紗季は思わず微笑んだ。


「ありがとう、素晴らしい瞬間を見せてくれて」


 撮影を終えた後、紗季はエレナにお礼を言った。


「いいえ、こちらこそ。あなたの写真で、この子たちの姿が残るなんて素敵なことだわ」


 エレナの言葉に、紗季は写真家としての喜びを感じた。


 ホテルに戻ると、麗子はすでに朝食の準備をしていた。小さなキッチンで、スペイン風のオムレツを作っていた。


「どうだった? 子猫たち」


「すごく可愛かった! 朝日の中で母猫と子猫の絆を感じられる写真が撮れたわ」


 紗季は興奮した様子で話した。


「それは良かったわね。今日は午前中にもう少しフエンヒロラを回って、午後からミハスに向かいましょう」


 麗子の提案に、紗季は頷いた。


 朝食後、二人はフエンヒロラの街中を歩いて回った。路地裏や小さな広場、カフェのテラスなど、様々な場所で猫たちの姿を見つけては撮影した。どの猫も人間との共存に慣れていて、カメラを向けても特に驚くことはなかった。


 昼過ぎ、二人はバスでミハスに向かった。バスは海岸沿いの道を離れ、山道を登っていった。窓から見える景色は次第に変わり、海が小さく見える高さまで上っていった。


「ミハスは『白い村』として有名なの。山の斜面に建つ白い家々が特徴的よ」


 麗子はガイド役として説明した。彼女は今日、淡いピンクのワンピースに、シンプルなシルバーのアクセサリーを合わせていた。首元のシルバーのネックレスには、小さな猫の形のペンダントがついていた。


「そのネックレス、可愛いわね」


 紗季は指差した。


「ありがとう。実はこれ、スペインに来て初めて買ったものなの。何か特別なお守りのような気がしてね」


 麗子は微笑みながら答えた。


 約25分の山道の後、バスはミハスの中心部に到着した。降り立った紗季は、目の前に広がる景色に息をのんだ。


 真っ白に塗られた家々が山の斜面に寄り添うように建ち並び、狭い石畳の路地が迷路のように続いていた。家々の窓辺や玄関先には色とりどりの鉢植えの花が飾られ、白い壁に鮮やかなアクセントを添えていた。


「すごい……まるでおとぎ話の世界みたい」


 紗季は感動した様子で周囲を見回した。カメラを手に取り、早速町並みの写真を撮り始めた。


「ミハスは昔からの伝統を守っていて、家はすべて白く塗ることが決まりになっているのよ」


 真っ白に塗られた家々が山の斜面に寄り添うように建ち並び、狭い石畳の路地が迷路のように続いていた。家々の窓辺や玄関先には色とりどりの鉢植えの花が飾られ、白い壁に鮮やかなアクセントを添えていた。


「すごい……まるでおとぎ話の世界みたい」


 紗季は感動した様子で周囲を見回した。カメラを手に取り、早速町並みの写真を撮り始めた。


「ミハスは昔からの伝統を守っていて、家はすべて白く塗ることが決まりになっているの。それが太陽の光を反射して、町全体が涼しく保たれるという知恵なのよ」


 麗子は説明しながら、紗季を町の中心部へと導いた。


「地元の人に聞いたんだけど、展望台へ行くといいって。そこからは地中海が一望できるんですって」


 麗子の提案に、紗季は頷いた。二人は狭い坂道を上り始めた。道の両側には小さなお土産屋やカフェが並び、観光客やのんびりと散歩する地元の人々の姿が見られた。


 坂を登る途中、紗季はある異様な光景に気づいた。木のくぼみにすっぽりと収まり、まるで木の一部になったかのように眠る猫がいた。


「あっ、見て!」


 紗季は足を止め、その猫を指差した。薄茶色の猫は、古い樫の木のくぼみに体を合わせるように丸くなっていた。その姿はまるで木に擬態しているかのようで、遠目には見分けがつかないほどだった。


「なんて上手な隠れ方」


 紗季はそっとカメラを構えた。猫は人間の気配に気づきながらも、目を閉じたままでいた。見つかっていないと思っているのか、あるいは単に気にしていないのか。


 シャッターを数回切った後、猫はゆっくりと目を開け、紗季たちを見つめた。その瞳には好奇心と少しの警戒心が混ざっていた。しかし、すぐにまた目を閉じ、眠りに戻った。


「この子、自分の居場所をしっかり見つけたのね」


 麗子は微笑みながら言った。


 二人は再び歩き始め、しばらくすると展望台に到着した。そこからの眺めは息をのむほど美しかった。眼下には真っ青な地中海が広がり、遠くにはアフリカ大陸の輪郭さえも見えた。


 展望台には何人かの観光客がいて、写真を撮ったり、ただ景色を眺めたりしていた。端にあるベンチには、一人の老人が座り、何かを考え込むように海を見つめていた。そして、彼の隣には一匹の三毛猫が寝そべっていた。


「あの猫、ベンチの上で寝てる」


 紗季は興味深そうに言った。


「行ってみましょう」


 麗子の提案に、二人はベンチに近づいた。三毛猫は人間の気配に気づくと、顔を上げて二人を見つめた。その表情には警戒心がなく、むしろ歓迎しているようにさえ見えた。


「こんにちは」


 紗季がベンチに近づくと、三毛猫は立ち上がり、伸びをした。おじいさんは二人に気づき、微笑みかけた。


「この猫に興味があるのかい?」


 おじいさんは訛りのある英語で話しかけてきた。


「はい、とても可愛いですね」


 紗季は答えた。


「彼女はミンカ。毎日ここに来るんだ。私と同じでね、この景色が好きなんだろう」


 おじいさんは三毛猫を優しく撫でた。猫は喉を鳴らし、気持ち良さそうにしていた。


「隣に座っていいですか?」


 紗季が尋ねると、おじいさんは快く頷いた。紗季がベンチに腰掛けると、すぐにミンカが彼女の方に歩み寄り、膝の上に飛び乗った。


「わぁ!」


 紗季は驚いたが、すぐに嬉しくなって猫を撫で始めた。ミンカは紗季の膝の上でくるりと丸くなり、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。


「彼女はあなたが気に入ったようだね」


 おじいさんは微笑んだ。


「この猫と知り合いなのですか?」


 麗子がおじいさんに尋ねた。


「あぁ、どこの猫なのか知らんが、だいたい毎日ここで顔を合わすよ。この場所が好きなんだろう。わたしといっしょだ」


 おじいさんはそう言って、三毛猫をポンポンと軽く撫でた。


「私たちは猫の写真集を作っているんです」


 紗季はミンカを撫でながら説明した。


「それは素晴らしい。ミンカはきっと良いモデルになるだろう」


 おじいさんは嬉しそうに頷いた。


 しばらくの間、三人はベンチに座り、景色を眺めながら猫の話をした。おじいさんの名前はハビエル。ミハスに生まれ育ち、一時期は大都市で働いていたが、退職後に故郷に戻ってきたという。毎日この展望台に来て、変わりゆく空と海を眺めるのが日課になっているそうだ。


「猫は不思議な生き物だ」


 ハビエルは遠くを見つめながら言った。


「彼らは自分の道を知っている。人間のように迷うことがない。だから彼らを見ていると、心が落ち着くんだ」


 紗季はその言葉に深く頷いた。ハビエルの言うことには、確かに真実があると感じた。


 しばらくすると、ミンカは突然立ち上がり、紗季の膝から降りた。そして、今度はハビエルの膝の上に飛び乗った。


「ほら見たまえ。彼女は平等だ」


 ハビエルは笑った。


 紗季はこのチャンスを生かして、ハビエルとミンカの写真を何枚か撮った。夕陽に照らされた二人の姿は、穏やかで心温まるものだった。


「写真ができたら、ぜひお見せしたいです」


 紗季はハビエルに言った。


「ありがとう。それは楽しみだ」


 ハビエルは笑顔で答えた。


 展望台を後にした二人は、ミハスの街中へと戻っていった。日が傾き始め、白い家々が黄金色に染まっていく様子は幻想的だった。


「この町、とても静かで美しいわね」


 紗季は感慨深げに言った。


「うん、だからヨーロッパ中から芸術家や作家が移住してきているの。インスピレーションを得やすい場所なんだって」


 麗子の言葉に、紗季は頷いた。確かにこの場所には、創作意欲をかき立てる何かがあった。光と影のコントラスト、古い町並みと現代の生活の融合、そして何より、自由に生きる猫たちの存在。


 二人は坂道を下りながら、まだ町を探索した。急な坂道もあり、時々立ち止まって一息つくこともあった。


 一度足を止めたとき、紗季はあるカフェの窓辺にブラインドの隙間から顔を覗かせる猫を見つけた。ブラインドを持ち上げるようにして、好奇心いっぱいの表情で外を眺めていた。


「見て、あの子」


 紗季はカメラを構えた。シャッターを切る音に猫は耳を動かしたが、そのまま窓辺にとどまり、二人を観察し続けた。


「なんだか応援してくれてる気がするわ」


 紗季は猫に手を振った。猫はしばらくじっと見つめた後、ゆっくりとまばたきをした。


 さらに町を探索していくと、色鮮やかな壁を持つ家を見つけた。建物はダスティピンクに塗られ、玄関先には青と白のタイルが敷き詰められていた。玄関の前には、ブルーグレーの猫が座り、通りを行き交う人々を見守っていた。


「あの建物、素敵ね。他の家と違って色がついてる」


 紗季は言った。


「あそこはクリーニング店よ。商店は色付きの壁が許されているの。目印になるからね」


 麗子が説明した。


 紗季がブルーグレーの猫の写真を撮っていると、クリーニング店のドアが開き、エプロン姿の女性が出てきた。


「あら、イリスの写真を撮っているの?」


 女性は流暢な英語で話しかけてきた。


「はい、とても美しい猫ですね」


 紗季は答えた。


「彼女は私の店の看板猫よ。お客さんを迎えるのが仕事なの」


 女性は笑いながら言った。


「素敵なお仕事ですね」


 紗季も微笑んだ。


 女性の名前はカルメン。彼女の家族は代々このクリーニング店を営んでいて、イリスは三代目の看板猫だという。カルメンの話によると、猫は店の守り神として大切にされ、お客さんからも愛されているそうだ。


「もし良かったら、お店の中も撮影していいわよ」


 カルメンの申し出に、紗季は喜んで頷いた。店内では、アイロンを当てられた清潔な洋服が並び、奥のカウンターでは別の猫が小さなクッションの上で眠っていた。


「あれはイリスの娘、アズールよ。まだ一歳なの」


 カルメンは説明した。


 店内の猫たちの写真も撮り、二人は再び町の探索を続けた。夕方になり、太陽が山の向こうに沈み始めると、町全体が柔らかなオレンジ色に包まれた。


 小さな公園に立ち寄ったとき、紗季は入り口近くで横になっている大きな茶トラ猫に気づいた。その猫は他の猫に比べて一回り大きく、毛並みの色も鮮やかだった。


「橙色の猫ね。すごく発色がきれい」


 紗季はカメラを構えた。猫は人間の気配に気づくと、ゆっくりと起き上がり、伸びをした。


「橙くんですか?」


 紗季は冗談めかして声をかけた。


 すると、猫は驚いたように耳を立て、まるで「どうして僕の名前を知っているのだ!?」と言っているかのような表情を見せた。


「あら、本当に橙っていう名前なのかしら?」


 麗子も驚いた様子で言った。


 猫は二人の前に立ち、しばらく観察した後、くるりと身を翻して歩き始めた。数歩行ったところで振り返り、まるで「ついてきて」と言っているかのように見つめてきた。


「行ってみましょうか?」


 紗季は麗子に尋ねた。


「ええ、どこに連れて行ってくれるのかしら」


 二人は橙色の猫についていった。猫は小さな路地を通り、いくつかの曲がり角を曲がり、最後に小さな家の前で立ち止まった。家の窓は開いており、猫は塀から窓に渡された板を伝って、窓から中に入っていった。


 入った後、猫は振り返って二人を見た。まるで「どうしたの? 入ってこないの?」と言っているようだった。


 その瞬間、家のドアが開き、中年の女性が顔を出した。


「あら、橙の友達?」


 女性は微笑みながら尋ねた。


「すみません、お邪魔します。実は猫の写真を撮っていて、この子についてきたんです」


 麗子が説明すると、女性は笑顔で二人を招き入れた。


「橙ったら、また誰かを連れてきたのね。彼はよく観光客を家に連れてくるの」


 女性の名前はイネス。彼女の話によると、橙は元々野良猫だったが、三年前にこの家に住み着いたという。それ以来、時々観光客を家に案内してくるという不思議な習性があるらしい。


「きっと、私の友人だと思って、家に連れてきたのね。橙ったら、可愛いったらありゃしない」


 イネスは屈託なく笑った。


「本当に名前は橙なんですか?」


 紗季は好奇心いっぱいに尋ねた。


「ええ、スペイン語で『ナランハ』。オレンジという意味よ。彼の毛の色にぴったりでしょう?」


 イネスの説明に、紗季と麗子は納得した。日本語の「橙」とスペイン語の「ナランハ」が偶然一致したことに、二人は驚きと面白さを感じた。


 イネスの家で紅茶をご馳走になりながら、三人は猫の話で盛り上がった。橙はテーブルの上に乗り、まるで会話を聞いているかのように耳を動かしていた。


「橙の写真を撮ってもいいですか?」


 紗季は尋ねた。


「もちろん! 彼はカメラが大好きよ」


 イネスの言葉通り、橙はカメラを向けると姿勢を正し、まるでポーズを取るかのように動いた。紗季はいくつか写真を撮った後、飼い主であるイネスと橙の二人の写真も撮った。


「写真ができたら、ぜひお送りします」


 紗季はイネスにメールアドレスを聞いた。


「ありがとう。橙の記念になるわ」


 イネスは嬉しそうに答えた。


 夜になり、二人はミハスのホテルに戻った。小さなホテルだったが、部屋からは星空と遠くの海が見える素敵な場所だった。


「今日もたくさんの素敵な出会いがあったわね」


 麗子はベッドに座りながら言った。


「うん、特にミンカとハビエルの二人が印象的だったわ。あと、もちろん橙も」


 紗季はラップトップを開き、その日の写真を整理し始めた。展望台での三毛猫とおじいさん、クリーニング店の猫、そして橙。どの写真も、猫だけでなく、その周りの人々や環境とのつながりが感じられるものだった。


「この写真集、単なる猫の写真集じゃなくなりそうね」


 麗子は紗季の肩越しに写真を覗き込んで言った。


「そうね。猫を通して見えてくる、この土地の暮らしや文化、そして人々の温かさを伝えられたらいいなと思う」


 紗季は真剣な表情で答えた。


「素敵なコンセプトね」


 麗子は紗季の肩に手を置いた。


「明日は最終日。トレモリーノスに戻って、最後の撮影をしましょう」


 紗季は頷き、作業を続けた。窓の外では、星空が広がり、遠くにはトレモリーノスの明かりが小さく瞬いていた。

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