第2話:トレモリーノスの海辺の猫
翌朝、マラガからトレモリーノスへの移動は予想以上にスムーズだった。麗子の運転する小さなレンタカーは、海岸線に沿って走り、窓の外には青い地中海が広がっていた。紗季は助手席で景色を眺めながら、時折カメラを構えては撮影した。
「トレモリーノスは昔からのリゾート地なの。60年代にはヨーロッパ中から観光客が訪れるようになったわ」
麗子は運転しながら説明した。彼女は今日、亜麻色のショートパンツに白いシャツを合わせ、足元はエスパドリーユのサンダルというリゾートにぴったりの装いだった。
「わぁ、海の色が濃くなってきた!」
紗季は窓から身を乗り出すようにして海を見つめた。コバルトブルーの海面が陽光を受けて輝き、白い波頭が砕ける様子は絵画のようだった。
トレモリーノスに到着すると、彼女たちは海岸沿いのホテルにチェックインした。部屋は海が見える角部屋で、バルコニーからは波の音が聞こえてきた。
「まずは荷物を置いて、すぐに撮影に行きましょう」
麗子の提案に、紗季は頷いた。カメラバッグと日よけ帽子、そして水筒だけを持って、二人はホテルを出た。
海岸沿いのプロムナードは、ヤシの木が並び、爽やかな海風が吹き抜けていた。人々はのんびりと散歩したり、ビーチで日光浴を楽しんだりしている。そんな中、紗季の目に留まったのは、石のベンチで日向ぼっこをしている一匹の茶トラ猫だった。
「あっ!」
思わず声を上げ、カメラを向ける。猫は人間の気配に気づきながらも、まったく動く気配を見せず、ただじっと目を細めて日光浴を続けていた。
紗季はゆっくりと近づき、しゃがみこんで猫の目線の高さからカメラを構えた。シャッターを切る音に、猫はわずかに耳を動かしたが、それでも立ち上がる気配はない。
「この子、すごくリラックスしてるわね」
麗子も猫に近づき、小さな声で言った。
「ホワホワした毛並みがたまらなく可愛い……」
紗季は夢中でシャッターを切った。茶トラ猫の毛は日に当たって金色に輝き、まるで光そのものを纏っているかのようだった。様々なアングルから何十枚も撮影し、ようやく満足した頃には、太陽はかなり高い位置に上っていた。
「そろそろランチにしない? この先に良いシーフードレストランがあるわよ」
麗子の言葉に、紗季は猫に別れを告げるように手を振り、立ち上がった。
「ありがとう、また会いに来るね」
紗季の言葉に、猫はゆっくりと瞬きをして応えたように見えた。
シーフードレストランはプロムナードに面した開放的な造りで、テラス席からは海が見渡せた。二人は冷たいガスパチョとシーフードパエリアを注文した。
「初日からいい写真が撮れたわね」
麗子はワイングラスを手に微笑んだ。地元の白ワインは爽やかな酸味と果実の香りが特徴的だった。
「うん、あの猫の表情がすごく良かった。幸せそうで、まるで太陽の恵みをすべて受け取っているみたいだった」
紗季はカメラの画面で撮った写真を確認しながら言った。
「スペインの猫たちは、日本の猫と違うところがあるの?」
麗子は興味深そうに尋ねた。
「うーん、まだ一匹しか会ってないけど……でも確かに雰囲気が違うわ。日本の猫は警戒心が強いものが多いけど、さっきの子は人間の存在を完全に受け入れているみたいだった」
紗季はしばらく考えてから答えた。
「それはこの土地柄かもしれないわね。コスタ・デル・ソルは『太陽の海岸』。一年中温暖で、人々もリラックスしている。猫たちもそんな環境の影響を受けているのかも」
麗子のその言葉に、紗季は頷いた。
食事を終え、二人は再びプロムナードを歩き始めた。午後の陽光はさらに強くなり、紗季は帽子の庇を深く下げた。彼女は今日、サーモンピンクのワンピースに白いカーディガンを羽織り、首元にはシェル形のピアスをつけていた。普段はあまりアクセサリーをつけない彼女だが、旅行中はいつもと違う自分になれる気がして、少し凝った装いを楽しんでいた。
プロムナードをさらに歩いていくと、朝出会った茶トラ猫の姿はもうなかった。代わりに、ヤシの木の根元で休んでいる白黒の猫を見つけた。
「こんにちは」
紗季は再びしゃがみこみ、猫に話しかけた。白黒猫は警戒した様子で耳を立て、しばらく紗季を観察してから、ゆっくりと目を閉じた。それは信頼のサインだった。
午後の撮影は海岸沿いを中心に進み、紗季は様々な猫たちと出会った。砂浜の近くで遊ぶ子猫たち、レストランのテラスで給仕の足元にすり寄る猫、観光客に撫でられて喜ぶ猫……。それぞれに個性があり、表情も豊かだった。
夕方近くになり、紗季はカメラのバッテリーを交換しながら、麗子に言った。
「今日は十匹ぐらいの猫に会えたわ。みんな個性的で面白いわね」
「まだ始まったばかりよ。これからもっといろんな猫に会えるわ」
麗子は紗季の肩に手を回した。日が暮れ始め、空は徐々に赤みを帯びてきた。最後の黄金色の光が海面を照らし、まるで道のように輝いていた。
「ホテルに戻りましょうか。明日は早起きして、朝日の中の猫たちを撮影しましょう」
麗子の提案に紗季は頷き、二人はホテルへの道を歩き始めた。途中、紗季は振り返り、夕焼けに染まる海を眺めた。この景色の中で暮らす猫たちは幸せなのだろうか。そんなことを考えながら、彼女はもう一枚、海の写真を撮った。
ホテルに戻った二人は、シャワーを浴びてから部屋でその日の写真を確認した。紗季のラップトップには、この日撮影した数百枚の写真が並んでいた。
「これとこれ、すごくいいわね」
麗子はスクリーンを指差した。それは最初に出会った茶トラ猫が、目を細めて日向ぼっこをしている写真だった。猫の毛並みはまるで金色に輝き、背景の青い海とのコントラストが美しかった。
「うん、この子の表情が特に好き」
紗季は写真を拡大した。猫の目は細く閉じられ、口元はわずかに開いていた。まるで微笑んでいるかのようだった。
「明日も良い出会いがあるといいね」
麗子はベッドに横になり、伸びをした。紗季も作業を終えてベッドに入った。窓の外からは海の音が聞こえ、遠くでは誰かがギターを弾く音が風に乗って流れてきた。スペインの夜は、まだ始まったばかりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます