――囮――
熱い――。
古い屋敷へ火の手が周り、飲み込むまで一瞬だった。
真っ赤な灼熱の炎に包まれ、火先が肌を撫で付けてくる。呼吸をする度に喉が焼け爛れ、凄まじい激痛が走った。天井は焼けて崩れ落ち、床が抜け、柱は倒れ、埃が火の粉をまとって赤い綿毛が舞う。
周囲には死体が散乱し、飛び散った肉片が血の海に浮いていた。死体の中には幾らか顔見知りがいる。
汐見、翠、秀島、不動峰、吉浦謙太郎、萩野優利枝、深雪ちゃん、柿添庄司くん――。皆一様に断末魔の叫びを上げ、顔面を酷く歪ませ、喉をぱっくりと裂き、四肢を失った姿で這いずり回っている。酷くやかましくて目障りだった。
これは幻覚――。
酩酊するような意識の中、冷静に自身の姿を俯瞰する意志があった。わずかな平常心が必死に、深淵へ堕ちる意識を救おうともがいている。
「俺が幻覚剤に酩酊しているとき、なにを吹き込んだ?」
彼岸の悪魔と名乗った天使は、なにも答えてない。ただ無機質な目をこちらに向けるばかりだ。
時間がない。
炎に焼かれて死ぬ前に、こいつの――この悪魔の化けの皮を剥いで見せる、と榎本は腹に決めた。
この類の幻覚を見るとき、なにが起きていた。なにをしていた。側にはなにがあった。共通項を探せ。
初めて彼岸の悪魔を幻覚に見たときは、山荘の庭だった。珍しく松明が――いや、
それから、
あとは、なんだろう――悠長に思考を巡らせる時間はない。次は、次は、と記憶をさかのぼる。
洋介を追い返した日。
それから、洋介との会話の途中で呼吸を止めて時。
他は、洋介の会社へ出向いた時。
栄子の暴走で吐いたのは、洋介に「受け入れろ」と言われた日。
次は、翠が拐われた時。
そして、この部屋に入る直前。
こうやって考えると簡単に目星がついた。
共通しているのは――洋介と一緒に居たか、燻る物が側にあったか。洋介か火だ。
薬物を炙った煙の吸引により薬物酩酊したか、洋介によって直接薬を飲まされた、または接触による皮膚浸透。正治が種明かしに見せたタバコは、炙りを意味していたのだ。
「俺はお前の罠に掛かったりしない! 夢幻なんてのは嘘っぱちだ」
榎本がなんの言葉を発しようと、微動だにしない天使は人形と相違ない。
スクリーン越しのつまらない映像を眺めでもしているように、彼の目はなんら興味を示さず、なんの感情も浮かんでいなかった。
「運命の蜘蛛の糸は断ち切った。自らの意志でだ。俺は囚われたりしないし、お前らの化けの皮を剥いでやるよ。
お前らは羽根を着飾っただけの、孔雀の振りした醜い蜘蛛の怪物だ! 滑稽に踊っているのはお前たちだ!」
精一杯の啖呵を切った。
無機質だった銀の目が輝く。ただただ嬉しそうに、宝物を愛でるように優しく。赤い炎に煌々とあぶり出された悪魔のなんと美しいことか。
「あなたがそうやって尚も抗うから――。残念です。受け入れてもらえたと思ったのに。あなたは事の真相より、無意義な抵抗を選ぶのですね」
「失望はさせねえよ」
榎本は低く言って呼吸を整えた。受け入れる覚悟を決めなければならない。妖艶に佇む悪魔の本質を引きずり出すためには、罪を認め、過去を受け入れ、逃げることなく向き合わなければならない。
覚悟を決め、口火を切った。
「雁字搦めになっているのはお前たちだ。過去に囚われたまま、今を歩くことさえできないで、思い通りにならない現実に駄々をこねている子供じゃないか。そんな小者が殺人鬼だって? 羽化だ同化だ流転だ? いっちょ前に洒落た言葉を並べて? 笑わせるなよ」
嘲笑の言葉を浴びせても、おぞましいほど無機質な悪魔の瞳は、少しも揺れ動かなかった。
怯まず畳み掛ける。
「確かに俺はこの場所へ三度訪れた。二度じゃない、確実に三度だ」
「――今更、なにをおっしゃるんです」
「いいから黙って聞け。今まで憶えていたのは三度目で、刑事時代現場の捜査で訪れた時のものだ。
そして――一度目はヨウスケに連れられて江神慶子の悪癖を見ていた。二度目は醜態を晒したんだ。生贄に選ばれた俺は――江神慶子と情事に耽った。江神慶子を彼岸の悪魔に置き換えて、な」
今まで見てきた幻覚は、自身の妄想であり現実。妖艶で醜悪な彼女の声を記憶している。
醜い喘ぎ声。消子に掛ける冷酷な声。ヨウスケを罵倒する金切り声。全て脳裏の奥底で記憶していた。
現実と妄想の乖離が、真実を見誤る枷となっていたのだ。
『あんたの最高。今回限りなんてもったいなくなっちゃう。まだイケるでしょ? さあ、もっとして』
『あんた、なに見てんの? ああ、あれが気に入ったの。好み?』
『いいこと思い付いた。あんたもあたしみたいにやりたいんでしょ? めちゃくちゃのぐちゃぐちゃに』
『いいよ、使っても。貸してあげる』
『なに? 嫌なの? しらけるなあ。やらないならあたしが続きするよ? もちろん最後までね。欲望は正直にしてんだからさ』
思い出すだけで吐き気がする。江神慶子にとっては全て遊びでおもちゃのようなものだった。男に限らず我が子も、彼女自身さえも。
「江神慶子はお前を呼んだ。同じように弄んでいいと、貸してやるから、と――」
正直に罪を認め、告白しなければならない。濁してはいけない。全てを曝け出す。
罪を認めることが羽化ならば、きっと彼らのわだかまりを解けるはずだ、と一縷の望みを掛けて。
「綴喜さんは――その後、どうしたんですか?」
「その後?」
「ヨウスケが彼岸の悪魔を庇った後、あなたはなにをしたんです。誰に、なにを、その手で――」
静かに、清澄に聞こえる悪魔の声音には、館を飲み込む炎よりも燃え盛る怒りが込められていた。
頭の中がかき乱され、かろうじて保っていた自我が揺らいでしまう。胃のあたりが重くなり、指先から冷えて固まって動かせなくなった。心臓の鼓動だけが熱く荒ぶっている。
「なにを――した? 断ったさ。子供に手を掛けるなんて、考えられない」
江神慶子に消子を差し出された後、どうしただろう――探したけれど正確な記憶はなかった。
断ったはずだった。そして、逃げ出したはずだ。宮内翠も言っていた。男は逃げ出した、と。
「享楽さえも微睡む楽園へ――」
喉を潰すような恐怖を生む声が、重くねっとりと榎本の背中を舐めた。
視界が歪み、脳が破裂しそうな頭痛に襲われる。必死に引き留めていた自我は、あっさりと手元を離れて理性を食い殺した。
妖艶に開かれた口、無機質で鈍い光を反射する瞳、死を待ち望み受け入れた恍惚の表情。
一度でも理性を手放してしまえば、嗜虐的な破壊衝動を止める術はもうない――と、あたかも正当な理由であるかのように弁解するが、別に今更止める気もなかった。
だから欲望の赴くままに突き進む。
コレが欲しかった。一目惚れだ。ずっと欲しいと思っていた。俺はコレが欲しかった。
悪魔を組み敷き、馬乗りに首を絞めていた。
こうしたかった。ずっとずっと心の奥底では、こうしたいと願っていた。江神慶子がしていたように、この悪魔を嗜虐的に弄びたかった。
華奢な首を締めていた手を退けると、悪魔が息と血を吐き出した。紅を指した赤い唇が、艶かしく弧を描き、うっとりと熱に浮かされた瞳が笑う。
こちらも笑顔を返すが、悪魔の瞳はやはり自身を見ていなかった。
「またか――! また俺じゃないのか! どうして俺を見ない。なぜなんだ――」
火の熱さを忘却するほどの怒りに、神経がチリチリと焼き切れ視界が真っ赤に染まる。愛しい悪魔の視線はこちらが注ぐ視線を逸れ、ずっと、後方へと注がれたままだった。
「俺を見ろ! 俺が悪魔を屈服させているんだ。お前を喜ばせているのは俺だろ! 俺が交わる。悪魔の首を取り流転へ行くのは俺だ! 享楽さえも微睡む楽園へ――」
鼻先が付くほど間近で叫べば、すべらかで長い指が首に掛けられた。瞬間的に強い力が指にこもる。腕の細さからは想像できない強い力に、ギリギリと喉が締まった。
的確に定められた急所への圧迫。ごりっと筋やら骨やらが音を鳴り響かせ、激しく脳を揺さぶる。顔に血液が滞りパンパンに浮腫んだ。自然と口が開き、唾液と舌が垂れ出る。
悪魔は妖艶に笑っていた。赤黒く痣を作った首、赤く染まった唇、恍惚の笑み。作り物のように美しい、嗜虐か怒りかに染まる満月色の瞳が、堪らなく艶っぽかった。
首の痛みも苦しさも、炎に焼け爛れる熱ささえ快楽となり、全身を轟然と駆け巡る。下半身が破裂しそうな獣欲に、むせ返りそうだった。
全ての欲望が絡み合い、溶け合い、同化することを望んだ。激痛にも似たこの興奮を慰めるために、深く重く激しい交わりを望む。
現実との区別がつかなくなるほどの欲望。待ち望んだ、恋い焦がれた行為。
右手で悪魔が身にまとう深緑のジャケットを剥ぎ、シャツを引き裂いた。
露になった左肩に口付ける。
まだ腹を裂くには早い。最高の快楽を得るためには、欲望の門が限界を迎えるまで焦らさなければ。
肩口を切り抜くように古傷があった。生々しく盛り上がった楕円の、歯で肉を噛み切った痕。
表皮が成長し引き伸ばされた傷痕に酷く興奮した。
牙を立て、大口に顎を開く。古傷を目掛け肩口に食らいついた。
ミチミチと筋繊維を引き裂き食い込む歯。鮮血が散る。赤く染まる視界、鉄臭さと生臭さが口腔に広がり、肺の奥へ吸い込んだ。口内に血液が流れ込み口端から溢れた。
真っ赤な筋が悪魔を彩っていく。
顎の圧力を上げれば、首の圧迫が強まった。脳への血流を塞き止められ、呼吸を憚られ、視界が歪みチカチカと光が舞い散る。
肉を噛み切り口腔へ納めれば、その妖艶な甘さに見悶える。膨れ上がった快楽に恍惚と酔いしれ、肉の塊を容赦なく嚥下した。
支配欲が満たされる。絶頂に最も近い快感が、濁流の如く溢れだし脳を締め上げた。
腹を裂こう――。
罪も罰も欲望も享楽さえも、溶け爛れて
「コレは俺の物だ――!」
鈍く重い音が脳を揺すり、瞬間的に視界が暗くなった。強烈な衝撃が左脇腹を襲う。追って、快楽には成り得ない、胴が引き千切れたと錯覚するほどの激痛が走った。
衝撃に撥ね飛ばされた肉体は軽く宙を舞い、猛る炎の中へと落下した。業に染まった炎に皮膚を焼かれ、喉を裂かんばかりの砲口を上げる。
身をよじりなんとか火の中から抜け出すが、肌からは異臭が漂い、じくじくに爛れていた。ずる剥けた皮下から体液が滲み出ている。糜爛した肌以上に、脇腹の灼けるような激痛が波となって全身に押し寄せ、熱さに焼け爛れた喉で喘いだ。
焼けた目蓋を苦しく持ち上げれば、視界いっぱいに脚が見えた。右の顎に鉄のハンマーで殴られるような強烈な痛みが走り、衝撃で首の筋を捻り鋭い痛みが脳を刺した。
憎悪のこもった強烈な蹴りだった。
焼けた頬が削げ、歯は折れ、口内に血が沸きだし、唾液と共に口の端からだらだらと流れ出した。
今度は左肩を蹴られた。腕が撥ね上がる。
「んがあああああ――――!」
腕の痛覚が狂気し脳に激痛が走る。意志とは関係なく狂ったように転げ回った。
顔面をビタンとなにかが叩き、そのまま張り付いた。右手で退けたそれが、複雑に折れた自身の左腕だと理解するのに、
感覚が一切ないことに驚愕する間もなく、腹に思い切り踵を振り下ろされ、鈍い痛みが口からヘドロのように噴出する。
何度も蹴られ、踏みつけられ、意識が朦朧とした頃、自身を
「ヨ、スケ――」
彼の混然し過ぎた感情は、澄んで清らかなほどの無表情だ。
「天使は返してもらう」
どす黒く感情のない眼で見下ろす洋介の腕には、大切そうに悪魔が抱かれていた。
止めどなく優美な鮮血が肩から滴っている。その血に触れたくて、動かない腕を無意識に伸ばした。
「僕はもう、無力な幼子じゃない。忌まわしい悪夢と決別を果たした。彼が心から安らぐために同じ存在になります」
と、眼光を怒りに紅くギラつかせた。
その憎悪のこもった瞳に威圧され、ひいひいと怯え身を縮める。どうして――悲痛な叫びは、血と共に口から小さく漏れた。
「どうして? いったいなんのことです。僕があなたを蹴りあげたことですか。僕の怒りが、あなたにはわからないんですか――?」
洋介は凄んだ目でひとしきり嘲笑し、再び憎悪に満ちた表情で口を開いた。
「あんたは僕になにをした? 彼になにをした? 天使は端からお前なんか見ていない」
自惚れるな――とおぞましい形相で、今まで培った鬱憤を吐き出すように言い放った。声音には怨みが込められ、刺すような殺意が伝わる。
「お前ごときが同化できるわけないだろ。彼を弄ぶなんて許さない。この天使は僕のモノだ!」
真の悪魔は、その背に皮膜の翼を開いた。ねばねばと翼から体液を滴らせ、多くの返り血を浴びたその姿は、罪人問わず罰を与える地獄の番人のように恐ろしい存在に思えた。
僕だけが天使との同化を許された――そう吐いた悪魔の言葉に、天使は嬉しそうに含み笑う。悪魔の腕の中でぐったりしていた彼は、薄く目蓋を上げ、そうだと言う風にぎらついた瞳で悪魔を見上げた。血液の凝固した美しい唇で妖艶な弧を描き、その毒々しい面相を恍惚に染めて。
「
ありがとう。もう用はないよ、榎本さん――。
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