――流転―― 2 あなたは誰
栄子は萩野敏宅の一室で呆然と立ち尽くしていた。
割れた液晶の掛かる白い壁には、隼が飛び去った風に放射状に赤く染められ、床一面に血の池が広がり肉片が飛び散っていた。
血溜まりの中央辺り、人間だったものがだらりと筋肉を緩め、両足と胴体が椅子に縛り付けられて固定されている。顔面の肉は削ぎ落とされ、歯や骨や眼球は剥き出しだ。両手首から先がなく、肉の断面に手首の関節部分の骨がが飛び出していた。
血と死んだ肉の生臭さを、打ち消す程の強烈なアンモニア臭にむせ返る。
「なんて残酷な――。こんなの、心を持った人間ができることじゃない」
視覚と嗅覚からの強烈な刺激に、胸がむかつき涙が溢れてくる。
汐見くんならここにいるわよ――栄子は覇気のない榎本に、極力冷静に落ち着いた声音で告げた。
窓側に置かれた椅子に、きつく縛り付けられた別の遺体に目を向ける。
千切れる寸前まで引き裂かれた喉がぱっくりと開き、後頭部が背中についている。どこを見ても地獄絵図だ。胸と腹を大きく深く裂いて《#ME》と刻まれている。Eの傷が深すぎて、内蔵がこぼれていた。
栄子は榎本との通話の後、すぐに警察へ通報した。駆けつけた警察関係者により、現場検証が行われ、萩野敏と汐見健介の遺体で間違いないことが確認された。
大切な友人の死を見て少しほっとしている自身に気付き、胸をくじるように嫌悪した。
もう俺にしておけよ――つい先日、一度目の失踪前に汐見に言われた言葉だ。
なにを血迷ったんだと思うほど、唐突に投げ掛けられた言葉だった。
栄子は榎本と出会って以来、榎本だけを一途に追いかけている。だから汐見に恋愛的な気を持たれていたことに、一切気がつかなかった。
いつからかと問えば、お前らが別れたとき――そう返された。かれこれ十五年は経っている。そんなに長く思われていたとも気付かず、汐見の前では榎本以外には考えられない気持ちを全面に出していた。
正直彼の気持ちは迷惑だった。
栄子は汐見に対して罪悪感を抱き、結果気まずい関係に陥った。
汐見の失踪に気付いたのは、それから丸二日が経過したときだ。彼がいないことに、二日も気が付けなかったのだ。その事にも罪悪感を覚えたが、答えを出さなくてよくなったことに安心もした。
そして、その事にも罪悪感が芽生える。
想われて嬉しい、榎本一筋の気持ちを揺るがす迷惑な想い、優しさに靡きそうな自身の心、榎本を奪われてしまう危機を感じて芽生えた敵対心、募る寂しさからすがりたくなった弱さ、汐見に向ける矛盾した気持ちが、どうにも収集が付かず苛立ちばかりが募った。
それが全てなくなりほっとしたのだ。
私って最低だわ――少しだけ自身の浅ましさに嫌気が差した。
業務を終えた栄子は自宅へ戻り、すぐに休んだ。精神的に酷い疲労感があった。
深夜二時を回った頃、榎本からの着信で眠りから呼び起こされた。付箋紙を探して欲しいと頼まれて、重い体を立たせる。
ツラくとも榎本からの頼みは断れない。想い人から頼られるなんて嬉しいばかりだ。
急いで署へ行き、汐見の机やロッカーを漁り付箋紙を探す。
須藤――と暗闇の背後から声をかけられ、心臓が破裂するほど酷く驚いた。相手が皆良田だとわかり胸を撫で下ろす。
「皆良田警部。難しい顔をなさって、それもこんな夜中に――。なにか問題がございましたか」
内密に頼む――と、皆良田は栄子に一つの事件ファイルを寄越し「汐見から託された。俺はこれ以上立ち入りできん。後は自分で判断を下せ」とだけ、低くわずかな声音で告げた。
皆良田に渡されたファイルに目を落とす。
約二十五年前に起きた幼児連続誘拐事件の捜査資料だった。きっと江神消子に繋がる情報に違いない。
「警部はどこまで知っているんですか」
「なにも――。俺には家族がある、守らなきゃならねえんだ。文字通り首の飛ぶことにゃ関われねえよ」
「そうですね。賢明に思います」
「そう言や、西の方で孔雀が出たんだとよ。猟友会のヤツらが大騒ぎして蜘蛛の巣みてえに罠張ってるってな。警察がタモ片手に追いかけ回したって捕まりゃしねえ。ま、化学課にゃ関係ない話だよ」
そんなことをぼやきながら、皆良田は部屋を出て後ろ手に扉を閉ざした。
「ええ、鳥を追い回すなんて御免ですわ。警部――ご協力、感謝します」
栄子は冷たく閉じた扉へ言って、皆良田の去った方へ頭を下げた。
栄子は研究所の自室に隠り資料に目を通す。
生後間もない赤ん坊から三才頃までの幼児が行方不明になった事件だ。
断続的に繰り返された誘拐は、約二年半におよび、捜索願が十八件、不明者は二十二人。一つの家庭から兄弟揃って誘拐されたところもあった。
内、発見されたのは三名のみで、それも男女共に生殖器を切除された凄惨な遺体だった。死因はおそらく無理な手術によるショック死ではないか、と推測されている。
三体とも
犯人逮捕には至っておらず、未解決事件となっている。
資料を読み進めると、見知った名前が目についた。牛久保医院院長、
「牛久保医院って――確か鏡町の病院ね。小規模の山中にある唯一の病院やじゃなかったかしら」
資料には警察が牛久保医院に聞き込みを行ったと記載されていた。
事件発生から六年後の記事だ。
二〇✕✕年六月二十日、牛久保院長から迷い子を発見したと警察に通報があり、一人の男児を保護した。
健康状態は良好であったが、生殖器を切除された痕があった。傷の状態から五年ほどは経過していると推測され、誘拐された直後に切除されたとみられている。
男児は六年前の一九✕✕年六月十三日に行方不明となった当時一歳三ヶ月の神﨑洋介ちゃんだと確認された。
「神﨑――、洋介ですって! なぜあの記者の名が」
栄子は唇を戦慄かせる。
洋介ちゃんの両親は既に他界しており、施設で保護されることとなった。身内不在のためDNA鑑定などは出来ていないが、自ら神﨑洋介と名乗り、古ぼけた母子手帳を持参していた。
だが、翌年の十一月二十日に施設から突如として失踪。それから三年後の二月六日、鏡町
以前までの記憶を失っており、失踪の真意は不明。目立った外傷などは確認はされていない。
この事実はなにを意味しているのだろう――栄子は真相究明には榎本の探している付箋紙が必要なのだと思い、汐見が資料を置きそうな場所をくまなく探した。
付箋紙はなかったが、代わりに事件に関する走り書きのメモをいくつか見つけた。
児童連続失踪事件の被害者の名前が羅列され、ほとんどが二重線で消されている。神﨑洋介の名前には赤のボールペンで丸く囲みチェックが付けられ、数枚に渡るメモを読み進めると、もう一人名前を囲われた人物がいた。
小林家の四人兄弟の次男で、小林
両親は鏡町大字鏡でペンション(
長男は実家を出て懐石料理屋で板前の修行中。次女は結婚し嫁いでいる。
暁洋の父である小林
資料をめくると、セピア色の写真が一枚貼られていた。捜査願を出した際に提供された物だろう。
それを見てピンと来た栄子は、関連しうる資料を読み漁り、自身の勘を確信へと導くために考察を繰り返す。
栄子は汐見も着目していた幼児連続誘拐事件で、まだ捜査中だった小林暁洋についてを調べ上げた。
小林一家は三十数年前から鏡乃山荘を経営。
山荘の洋館は大女将である小林イエが、元夫から離婚の財産分与として譲り受けた。
K氏には二児の連子がいた。K氏は三児の子供がおり、その内の長男と長女を伴う。
K氏の旧姓は宮内で、次女は元妻の元に残してきている。連れ子の娘、美恵が山荘の女将を務める。
大女将とK氏の間に子供はなく、十五年前にK氏は病死、その翌年に長男が事故死した。
美恵は後夫である、幸洋との間に三人の子供をなしている。
幸洋は昨年の二月に事故死。
「若女将の千代子さんとは異父兄弟になるのね。全くもって複雑な家庭だこと」
栄子はセピア色の写真を食い入るように見る。
かなり古い写真だ。四、五十年は昔のものだろう。写真の人物は暁洋の父、小林幸洋が幼少の物だ。年は三歳前後に思える。
「そっか――、汐見君は彼の顔を知らなかったのか。だからこんなに回りくどいことを」
翌日、栄子は二つの目的を秘め、小林美恵に会いに行った。
栄子は小林家の長女、千代子の仏壇に線香を焚き、手を合わせる。千代子の位牌の隣に、暁洋の位牌もあった。行方不明となり二十数年。とうに失踪宣告がなされている。
栄子は正座のまま後方へ向き直った。
ちょうど美恵が、盆から湯呑みを和モダンな座卓に置いたところだった。湯呑みの差し出された位置の座布団を勧められる。
栄子はお構いなくと断りを入れ、早速とばかりに本題に入る。
「先にもお話いたしました行方不明となっていた暁洋さんですが、ご存命の可能性が浮上しました。世間を騒がす殺人事件の捜査中、確かではありませんが暁洋さんであろう男性の存在が確認されています」
母である彼女に、こんな不確かな希望を与えることがどんなに残酷か、考えただけで栄子の胸は痛みに悶えそうだった。
それでも事件の究明には必要な痛みだ。
「行方不明者届を受理した際、ご提供頂いた幸洋さんの幼少期の写真ですが、事件の被疑者の一人に色濃く面影を感じる者がありました」
「まさか――暁洋が殺人を? 千代子を殺めたと?」
美恵は口元を右手で覆い、声を震わせた。年齢の割に高く可愛らしい声音をしている。
「いえ、違います。事件に関係している、または事件の重要な情報を握っている可能性がある、と疑いがかかっているだけです。決して殺人犯として捜査しているわけではありません」
栄子はすぐさま弁明し、捜査協力の依頼を持ちかける。
一つは幸洋の写真の提供。
二つ目にDNAの提供。
美恵は震える手を胸の前できつく組み、一つ頷いてから数冊のアルバムを持ってきた。パラパラとページをめくり、十数枚の写真を抜き取り栄子へ差し出す。
全て幸洋の顔がはっきり確認でき、二十歳頃から亡くなる以前までの年輪が窺えた。
「とても大きい人でした。身長は一八〇センチを越えておりまして、日ごろから鍛えていましたから、とても筋肉質で肩幅や胸板も広く厚くありました。若い頃から登山が趣味でございました。亡くなるまで現役で、年に十数回、登山仲間とあちらこちらに出向いておりました」
「どうりで、自然の中でのお写真が多いわけですね。おっしゃる通り、ご主人がかなり鍛えていらしたのが写真でもわかります」
栄子は写真の人物を注意深く観察し、記憶の人物と照らし合わせていく。
肌は小麦色に焼けて髪も短く刈り揃えられているが、癖毛だ。はっきりとした眉に、きれいな二重瞼のタレ目、鼻筋は高く通り、全体的に溌剌とした爽やかな男性だった。実年齢よりかなり若く見える。
栄子は目的の一つを確信へと導いた。
小林幸洋と神﨑洋介は似ている――と。
正確に言えば幼少期の幸洋と、現在の神﨑洋介が似ている。幸洋は年を取り、体格も顔つきも変わっているが、表情の作りにわずかな面影を残していた。
神﨑洋介は幼少期の彼をつり目にし、眉を細め、未発達のまま身長だけを伸ばしたような感じだ。
全体的な容姿や雰囲気は母譲りに思える。端正な顔立ちや、線の細さが母親似だった。
両親と違い、彼はかなり陰湿な気配を持っているが、親子だと言って違和感はない。それほど神﨑洋介は二人に似ていた。
写真と美恵の唾液をもらい、簡単に挨拶を済ませた栄子は研究室へと急いだ。
途中、この事実を伝えようと何度も榎本へ連絡するが、一向に通じない。最終的には電波が届かないか電源が入っていないという始末だ。
意味をなさないスマートフォンを放り、二つ目の推測を確信へと導くために行動する。
私の予想は間違ってないわ――栄子は薄く口角を上げた。
しばらく作業に熱中していると、どこかに放ったスマートフォンが着信を知らせた。
デスクに置き去りのバッグの中で着信音が鳴り響き、七色に点滅している。ディスプレイには汐見健介の姪の名が表示されていた。
今この子と会話するには気が重い――栄子幾ばくかディスプレイを凝視し、意を決して通話を繋いだ。
「
しばしの沈黙を経て『叔父さんの葬儀、終わりました』と、電話越しの若く可憐なはずの声音は、痛ましく沈鬱で切ないものだった。
「そう、終わったのね――。あの、」
『どうして来てくれなかったんですか。栄子さんも榎本さんも――。皆良田さんは来てくれたのに』
入れようとした詫びは遮られ、非難の言葉が栄子の胸をくじる。
「本当にごめんなさい。行きたい気持ちがあったのは本当よ? 申し訳なかったと思ってる」
本当にごめんなさい――と再び謝罪した。そして、ただ――と言葉を続ける。
「彼にすべき本当の供養は、この事件の真相を究明し解決することだと思っているの。きっと汐見くんもそれを望んでいる。私たち、調査結果でたくさんのものを彼から託されたの」
真摯な栄子の言葉に、そう――とだけ美春は返した。納得はできていないと言いう風な、複雑で憤りを飲み込んだような声だった。
「私は捜査に戻るわ。美春ちゃん――汐見くんのこと、残念だったわ」
それじゃあ、と早々に通話を切ろうとした栄子の指を、悲痛な美春の叫びが押し留めた。
『叔父さんの亡くなった経緯を知りたいの。栄子さんは知ってるんでしょ?』
「知って、どうするの」
『知りたいの――私の大切な人を奪った犯人のこと』
「――今、捜査中よ。ごめんなさい。あなたはこんなことに首を突っ込んじゃダメ。それじゃあ」
栄子は再び会話を終わらせるが『待って! 教えてくれないなら自分で調べる。なんと言われても、幾らダメと言われても!』と、まくし立てられ、仕方なしに会話を再開する。
「お願い。辞めて、本当に危険なのよ」
『そのお願い聞けるほどの気持ちじゃないよ、あたし。危険なのもわかってる』
それでも――と続ける美春に「あなたの気持ちはわかってるわ。でも、ダメなものはダメよ。あなたが関わったところでこの事件は暴けないし、犬死にするだけだわ。危ない真似はしないと約束して」と、栄子は説得を試みる。
『約束できない。教えてくれないならそれでいいよ。絶対あたしが犯人見つけ出すから。さよなら』
「ちょ、ちょっと待って! 美春ちゃん――!」
栄子の言葉も虚しく、ブツりと通話が切れた。
強情な子――力なくスマートフォンをバッグへ投げ入れ、キャスター付きの椅子にどっぷりと腰を沈めた。深い深いため息が漏れる。
「こうなることはわかってたんだけどね――」
虚空に吐き出し、幼い子のように足を投げ出して椅子を回す。
高校生となった今も彼女の愛情は真っ直ぐ彼に向いていた。幼心の淡い恋だと思っていたが、彼女は十年以上も叔父である汐見健介を想ったままだった。
この情熱的な一途さは家系なのかしら――そんなことを胸中でボヤいてから、自信を嘲る笑いが込み上げた。
「私もいっしょか――」
そう言えば、皆良田の言っていた孔雀はどうなったのだろうか、と栄子は再びスマートフォンを拾い上げニュース記事を探す。
該当する記事は一向に見当たらなかった。SNSも同様になんの騒ぎも呟きもない。
「西の方で孔雀が出た。猟友会が蜘蛛の巣みたいに罠を仕掛けている」
隠喩だとは薄々気付いていた。たが、なにを指しているのか、今の栄子には見当も付かなかった。
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