――咲樹の誕生日――
家族五人で食事に出掛けた。今日で娘の咲樹が八歳になる。
平日だったため僕と妻は半休を取り、学校から帰宅する咲樹の帰りを心待にしていた。妻は娘の一張羅をクローゼットから出してきて襖の縁に引っ掛ける。桜色と雪色の可愛らしいベロアのワンピースだ。妻はハンガーに吊られた白が多めのワンピースに、シミなどがないか確認していた。
昨年は主役の咲樹がインフルエンザにかかってしまい、行きたがっていたレストランはキャンセル、水族館へ行く予定も諦めなければならなかった。仕方なかったにしろ、昨年の苦い誕生日を払拭し、今年は盛大に祝うと僕と妻は意気込んでいる。
高価ではないが、とにかく娘が気に入っているお洒落なレストランに予約確認の連絡を入れ、予定通りの時刻に向かうことを告げた。卓上のオルゴール時計が十六時を知らせる。
そろそろ準備しよう――と、妻と義母に着替えを促した。僕が着替えを終えリビングへ戻ると、既に長男は帰宅し着替えを始めていた。すぐに咲樹も帰宅し、乱雑に放ったランドセルを正しく仕舞わせ、妻にワンピースを持ってくるよう頼む。
一張羅に身を包みご機嫌な咲樹の手を取り、予約したレストランへ向かった。きらびやかなシャンデリアに咲樹の興奮は頂点に達し、豪華なディナーを楽しむ。
デザートは咲樹の好物の苺の乗ったケーキだ。息子が自分の苺を咲樹の皿に乗せているのを見て、ああ、やっぱりお兄ちゃんだな――と頬を緩ませた。幸福の優しい時間が過ぎ去っていく。
ここは、どこだ――僕は真っ暗な闇の中で目覚めた。
両手脚をきつく拘束され、埃っぽい床板に寝そべっている。声を出そうと試みるが布かなにかを噛まされているようで、くぐもった呻きしか上がらない。真っ暗な視界が白く霞むほどに寒く、手足が悴んで刺すような痛みを感じるほどだ。
僕一人なのか?――暗闇に目を凝らし、家族を探す。一寸先も闇とはこのことで、全くなにも見えなかった。
身悶えていると、どこからか不穏な靴音が響いてきた。一歩一歩、ゆっくりと近付き、僕の頭上を通り過ぎる。靴音を追うように、ゾッとする冷気がフワッと僕の頭部を通り過ぎていった。
ううん、うううっ――僕から少し離れた場所で、女性がくぐもった悲鳴を上げた。僕の妻だ。
妻も同様に拘束されているのに違いない。彼女は声にならない悲鳴を上げ、酷く暴れているようだ。
いったいなにが起きている――僕は恐怖に押し潰されてしまいそうだった。心臓は痛いほど早鐘を打ち、声を出そうにも言葉にならずくぐもるばかり。なんとかして妻の傍へ行こうと芋虫のように身体をくねらせ、少しずつ声の方へと移動した。
んがあああああああ――くぐもった断末魔の叫びに、僕の身体はビクンと跳ねる。温い液体が降り注ぎ、僕の髪や顔を濡らした。僕の心臓は、見えない恐怖に壊れる寸前だ。
妻は殺されたのか、これは血か、なにが起きているんだ――絶望的な想像力が恐怖の地獄絵図を、僕の脳内に鮮明に写し出していた。寒さではない震えが全身を襲う。
靴音が再び移動し始めた。義母の悲鳴が上がり、雨が降るように液体が僕へ降り注ぐ。鉄臭い。見えなくとも血なのだと理解した。
子供たちは無事なのか――恐怖に湧く涙が僕の頬を濡らす。どうかどうか子供だけは、と胸中で強く懇願した。
急に、ふうっと明かりが灯る。小さなキャンドルだ。わずかな灯火でも、暗闇にいた目には刺激が強すぎ、眩しくさえ感じる。その灯りは、目を閉ざしたいと願う惨劇を照らし出した。
妻の頚は引き裂かれ、皮一枚で繋がった頭部が彼女の背中にキスしている。義母に首はなく、腹にのたうつ大量のミミズを抱えているように内蔵が溢れでていた。
ひぎぎぎっ――息子の悲鳴に弾かれ目を見開く。やめろと叫ぶが言葉にならない。
真っ黒な影が、息子の顎を鷲掴み持ち上げていた。小さな足が床から離れ揺れている。いつまでも細い首で全体重を支えられるわけもなく、息子の頸椎は鈍い音を立てて離脱した。
その程度では飽き足らないのか、灯火を反射させる銀の刃が、息子の喉から下腹部までを一気に引き裂く。水道管が破裂したように鮮血が吹き出し、臓物がボドボドと床に落ちた。
僕は堪らず悲鳴を上げる。力の限り絶叫した。
喉が爛れたようにイガイガと熱を持ち、目から鼻から口から体液を垂れ流した。
息子はまだ十歳なんだぞ、優しくて明るい素晴らしい子供なんだぞ――僕は叫んだ。何度も何度もふざけるなと叫んだ。叫ぶ度に喉が血を吐くほどにひりつき、涙が止まらなかった。悔しくて、憎くて、哀しくて、自分の不甲斐なさが許せなくて、どうしようもない憤りが体内を這いずり廻り腹で蠢いた。
憎い、憎い、憎い。真っ黒な影を睨み付ける。
それが癪に障ったのか、息子を僕の目の前に放った。どしゃっと水音を含んだ鈍い音を立て、喉から腹までバックリと裂けた息子が降ってきた。口の端から舌が垂れ、眼球を充血させ白目を剥いている。輝いた息子の笑顔を見ることはもうないのだと思い知らされ、凄絶な苦痛に喉が締まった。
僕には嗚咽して泣いている暇はなかった。くぐもった少女の悲鳴が、コンクリートの厚い壁に当たり跳ね返る。脳天をカチ割るような鋭い悲鳴。娘の咲樹だ。お気に入りのワンピースを家族の血で赤く染め、胸ぐらを掴まれた彼女は全身を使い暴れている。
やめろ! やめろ! やめろ! 娘だけはやめてくれ――! 目に入れても痛くない娘だ。妻の腹に宿った時から変わらず溺愛する娘だ。咲樹だけはどうか、咲樹だけはやめてくれ――僕は叫んだ。叫んで叫んで叫んで叫び続けた。嗚咽を漏らし、喉を裂かんばかりに祈願した。
どうか、どうか咲樹だけは――喉が張り裂けるほど叫び倒した。
僕の願いが届いたのか、真っ黒な影は咲樹を下ろし僕の方へ向かってくる。
だが、咲樹を手放してはいなかった。娘は胸ぐらを掴まれたまま床をずるずる引きずられている。
真っ黒な影は息子を踏みつけ、僕の目の前に屈み目線を合わせた。
悪魔だと思った。その瞳は絶望を写し、濁りない冷血に染まっていた。その嗜虐にまみれた瞳を薄く細め、ナイフを僕の頬にそっと当てる。刃の冷たさに背筋が凍った。僕は固く目をつむる。が、切られたの肌ではなく、噛まされていた布だった。
「どうして、なんでこんな酷いことをするんだ。僕たちがなにをした。なんの恨みがあって」こんなこと――絞り出した言葉は惨めで情けない涙声で、抵抗の一つさえできない。
ひとしきり影の悪魔は首を傾げ「代償? かな――」そう、静かに口を開いた。
おぞましく冷血な声だった。
影の悪魔は不気味な瞳を細め、僕の目前で、咲樹の首を跳ねた――。
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