補遺:être-en-soi 中
ぼくは一人っ子だ。
これまで特に気にしてこなかったけど、自省すればその事実はぼくの性格に多大な影響を与えているように思われる。ぼくは両親の独り子であるという条件の下にこの世界を生きている。
ああ、辛い思いをしたことなんて全くないよ。話に聞くような兄弟喧嘩も食べ物の取り合いも、ぼくは経験したことがない。ぼくに与えられるものは常にぼくだけのものだった。おもちゃも、ケーキも、愛も。
与えられなかったものはただ一つ。”他者”だけだ。
だからだろうか、ぼくは他者を作った。物言わぬ存在、視線を持たぬ存在に、ぼくは他者を仮託した。これがつまり、ぼくを苛む諸々の始まりなのかもしれない。
コアラのぬいぐるみはお気に入りだった。
本当に幼い頃はいつも一緒にいた。小学校に上がったあたりからは”一緒”にいないことも増えた。でもね、たとえ共にはあらずとも、とにかく彼は部屋の中に”いた”。
彼だろうか彼女だろうか、雌雄すら正確なところは分からない。便宜上——というよりもごく自然に——ぼくは彼を”彼”と見做した。ぼくの性別が男だから。あえて理由をひねり出すならばそれに尽きる。つまり、彼はぼくの延長であるともいえる。その存在は明らかにぼくの対手として在った。でも、ぼくの一部でもあった。
ああ、そういえば帽子を被せていたな。
小さい頃に父に買ってもらった野球帽。ぼくの”頭が無駄に大きくなって”しまったから、もう被れない。そこで彼に目を付けた。ぼくは譲ってやったんだ。寛大にも。
お下がりというやつだね。
父が死んで実家を処分するとき、ぼくは何も気にしなかった。清掃業者に全てお任せして、綺麗さっぱり”処理”した。
その存在すら忘れていたよ。
当時のぼくは明らかに”成功”していた。人間として”ちゃんとして”いた。だから何も考えなかった。ぼく自身のことなんて。ぼくの存在についてなんて。考えることは他に山ほどあったからだ。
はっきり言おう。
ぼくは彼を捨てた。一顧だにせず。
そして後悔した。
この感情は、とても前向きなものだと思う。何かを悔やむことによって、ぼくは現在と、そしていつまで続くか分からない未来を望んでいる。ほんの少しだけであっても、確実に。
だってこの世から去ろうとする者にとって後悔なんてなんの意味もない。”全て”を手放すことを決めた者が、”一部”を失ったことを嘆くだろうか。嘆きはしない。
だからぼくの心にこの感傷が湧き出したことは、我ながら本当に意外だったんだ。
◆
「茉莉?」
トートバッグから取り出したぬいぐるみの両脇を持ち、掲げるようにぼくに差し出した彼女。ぼくはソファから立ち上がり彼女の元に歩み寄り、それを受け取ろうと両手を開く。ライトグレーの豊かな毛並みが手のひらに接した。
そして。
彼女がね、いきなりぼくを抱きしめた。
コアラのぬいぐるみを抱きしめたぼくを、彼女が。
茉莉さんはいつもこれだ。
完璧な常識人を擬態しながら、突如驚くべき行動に出る。
「茉莉? ……茉莉?」
「……」
ぼくの困惑混じりの問いかけに、彼女は何も答えない。
うっすらと立ち上がる優しい香水の香りが鼻孔を満たす。哀れなコアラは一対の男女に挟まれて窮屈だろうに、何も言わない。”彼”は何も。
この状況は本当に不思議だ。
日曜の午後、ぼくは茉莉さんに抱き込まれている。由理くんの目の前で。
彼女がどんな意図を持ってこの行動を為したのかは分からない。でもまぁ、明らかに適切なタイミングではないことだけは確かだ。
「ああ、その、ああ……。コアラをありがとう」
「今度は”大切にして”ください。絶対に。——兄さん」
「うん。もちろん。それでね、茉莉、ちょっと離れよう。ほら、由理くんも驚いて……」
あまりにも重い彼女の言葉をいなそうと、ぼくは無駄な抗弁を試みる。
でもね、本来であれば冗談で場を軽くしてくれるはずの由理くんは何も言わない。
自由になる首を軽く回して反応を確認してみる。
目の前でいきなり友人——彼曰く”兄同然”とのことだよ。誇らしいね——と知り合いの女の人が抱き合ってるんだ。普通は驚くよね。
それがね。
由理くんはやたら殊勝な——正確には厳粛な——面持ちでぼくを見ている。いや、ぼくを、じゃない。ぼくと茉莉さんを。あるいはぼくと茉莉さんとコアラを。
なんだこれ。
「どうしたの?」
シチュエーションを考えるに、ぼくの問いかけは明らかに間抜けだった。普通由理くんの台詞だよね、「どうしたの?」って。でも、彼の眼窩を占める青い瞳があまりにも真摯だったから、この問いかけは晴れてぼくの言葉になった。
「何でもありませんよ。先輩。——先輩は彼女を大切にするべきだ」
彼女? 茉莉さんを? それはまぁ邪険にしているつもりはないけど、由理くんと茉莉さん、それほど仲がいいわけでもないだろうに。不思議な感じがした。
「ええ。——兄さん、この娘を、大切にしてあげてください」
こちらもまた、やたら重量感のある言葉を発してくる。ぼくの耳元で。茉莉さんが。
ああ、そういうことか。
ここまでの流れを受けて、ぼくはようやく状況を理解した。
ご存じの通り、ぼくの友人達は摩訶不思議なことに、”集団幻覚のようなもの”に罹患しているんだ。皆さんは前世——それが正確な表現であるかはいまいち分からないけど、とにかくこの現実世界とは異なるもう一つの世界の記憶を持っている。生まれも育ちもばらばらの女性4人と男性1人が。
ぼくはこの謎現象を「サンテネリ症候群」と名付けた。
本人達には伝えていないよ。別に嘲るつもりはない。彼、彼女らにとって”その世界”は現実なんだから、病気扱いされたら心外だろう。
で、今この瞬間のような場面がごく稀に起こる。なんということはない日常の一コマに強烈な重力のようなものが発生する瞬間がね。皆さんがこの”現実”の出来事をサンテネリとかいう謎ワールドの経験と重ねたときに起こる現象。
「”彼女”って、ひょっとしてコアラのことかな?」
優美な眉を軽くすくめて由理くんが頷く。
ぼくの胸と茉莉さんの胸の間で半ば窒息しているこのぬいぐるみ。こいつは雌なのか。
「茉莉、このコアラは雌なの?」
「もちろんです」
ああ、なるほど。
茉莉さんは女性だ。だから雄よりも雌を想起するのが自然。ぼくが昔買ってもらったコアラを勝手に雄と決めつけたように。
彼女にぬいぐるみ製作を依頼するとき、ぼくは雌雄について注文を付けなかった。正直なところ、その発想すらなかった。でも考えてみればコアラは動物で、動物には雌雄がある。
「なるほど。……面白いな。”これ”が雄か雌かなんて考えたこともなかった。この子は雌か。それにしても、きみはよく分かったな。見分けるのに特徴でもあるの? コアラの性別」
茉莉さんは分かるとして由理くんの即断は謎。だからストレートに聞いてみた。
「なんとなく。そう感じただけです」
彼は今度ははっきりと笑みを見せ、ソファに深く身体を沈める。そして足を組む。偉そうに、我が物顔で。それがよく似合う。
「分かった。じゃあ、”この娘”を大事にしよう。ああ、娘のようにね。……ちょっと言い過ぎか」
ぼくはね、どうも会話の最後に余計な一言を付け加えてしまう悪癖があるらしい。言わなくてもよいことを、つい。
その報いは受けなければならない。どんな?
茉莉さんがさ、ぼくの首筋に顔をぐりぐり押しつけてくる。
これはどうなんだろうね。滅茶苦茶可愛い仕草なんだけど、シャツがね……。化粧が付くんだよね。
◆
かくして我が家の一員となったコアラ(雌)。
ぼくはぬいぐるみに名前を付けたりはしないから、いまだに名無しだよ。でも大切にしてる。かつてぼくとともに在ったコアラ(雄)はもういない。でも、新しい”他者”がやってきた。それはとても素晴らしいことだと思う。
リビングのローテーブルが”彼女”の指定席。時々眺めては色々追憶をもてあそんでいるよ。
あ、そういえば、後日バイトにきた青佳さんが”彼女”を見つけてね、これは何かと聞くから、ぼくは一通りあらましを話した。
そしたら彼女、ニッコリ笑ってこう言った。
「まぁ! それは。……誠に祝着に存じます」
青佳さんは時々時代がかった言い回しをする。これが「サンテネリ症候群」によるものなのか、直近に見た映画とかドラマに影響を受けたものなのかは判別しがたい。
ただ一つ分かるのはね、青佳さん、笑顔なのに目が笑ってないんだよね。
なんだこれ。
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