敵 3
「他人の執筆姿を見るのは初めてですよ」
背後に突然声を受けて、ぼくは咄嗟にリアクションを起こせない。
ただその発生源を見ることしか出来ない。椅子を回し、首を捻って。
もちろん誰の言葉かは分かっている。由理くんだ。
いつもは一度寝入ったら朝まで起きないくせに。
毎度のことながら、彼もぼくの意表を突く動きをすることにかけては人後に落ちない。人後の「人」はまぁ、最近ぼくが関わっている女性陣達なんだけどね。
彼も含めて、最近ぼくの周りにいる人たちは皆、びっくり箱みたいな挙動をする。
こう見えてぼくは繊細なんだよ。いつも怯えてぷるぷるしてる。でも、彼らはどうも、ぼくが何というか「ぼんやりした」やつだと考えている節がある。
いや、どうかな。
案外分かっていてやっているのかもしれないね。だとしたら、ぼくの反応が愉快なものなんだろう。人が他者を驚かそうとする直接の動機は、相手の対応の仕方——大抵はまぬけなものになる——を見たいからだ。ああ、苛めてやりたいという場合もあるだろうけど、恐らく彼や彼女らはそんな意地悪な意図は持っていない。
皆いい人達だから。
「……ああ、起きたのか。珍しい」
書斎は暗い。光源はPCのモニターだけ。だから由理くんがその視覚から手に入れられる情報はそう多くはないはずだ。
ぼくの落ちくぼんだ目元も、赤く染まった顔も、血走った瞳も、彼には見えない。分かるのは酒焼けして掠れた声くらいだろう。
「いつも飲みながら書いてるんですか?」
「うん。大体は。つまりあれは私とワインの合作だ。完結したら後書きに謝辞を入れよう」
彼は立ち去る気配を全く見せない。
部屋の隅に置いたフットレストに腰掛けて長期戦の構え。
「怒っていますか? 先輩」
「いや? なにを?」
「今日俺がしたこと。堀田を連れてきた」
由理くんはね、天上天下唯我独尊を地で行くように見えて、意外と人を見てる。じっと観察する目がある。多分彼がその瞳を持っていなければ、ぼくたちの付き合いはこんなに長くは続かなかっただろう。
「そんなことはない。堀田くん、気持ちのいい青年だった。……私はむしろ安心してるよ。きみにもまともな友達がいたことに」
笑ったはずなのに、ガサガサの喉が発したそれはある種の呻きのように響いた。
「確かにそうです。先輩のいうとおり、あいつは確かにまともだ。唯一のまともな友人かもしれない」
長い金髪を両手で掻き揚げて彼は笑う。彼の喉は綺麗な音を出す。
PCの画面という、部屋の広さに比して極小の光源が彼の形姿に見事な陰影を作っていた。細く、しかし芯の通った首筋から滑らかな曲線を描く頬まで、黒と白で塗り分ける。
「その口ぶりだと、まともじゃない友人なら他にもいるようだ。——私かな?」
否定はできない。そう続けようとしたところを彼の応答に遮られた。
切り分けられた会話の断面はあまりにも美しいものだった。たとえば人体の輪切りを見るような。
「いや、違いますよ。——先輩は友達じゃない」
ぼくは静かに机の上の瓶を掴み、飲み口を銜え、液体を流し込む。
喉を焼き焦がすために。
「ああ、そうか。それは……申し訳なかった」
こういうことは時々起こるね。
気恥ずかしさを際限なく呼び起こす勘違いというやつだ。これまで何度となく経験してきたけど、どうにも慣れない。
由理くんはぼくの友達じゃない。
なるほど。
「前に、俺の子どもの頃の話、しましたっけ?」
「聞いてないな」
「俺、父親いないんです。もう記憶も曖昧ですけど、多分小学校に入る前くらいに蒸発して、そのままです」
彼は何やら語りたい気分らしい。聞くよ。人は時々誰かに何かを語りたくなるときがある。痛切に。
「今思えば六本木とかで遊んでいるような奴らの一人だったんでしょう。母と遊んで、子どもを作って、適当に日本で楽しんで、自分の国に帰っていった。オペラに『蝶々夫人』ってあるじゃないですか。まさにあれです」
古今東西その手の話は腐るほど転がっている。そして現代においても。ぼくは彼に特に同情を抱かない。でも軽んじもしない。そこにあるのは事実だ。
ただね、極限まで控えめに言っても、ぼくはその手の話が好きではない。それは悲劇ではないと感じるからだ。ただ醜悪さの表れとしか感じられないからだ。
「それで、母は一人でおれを育てました。母は毎日忙しくて、おれと関わる時間もなかった。たくさんバイトを掛け持ちして、息子と話すほんの少しの時間さえ金に変えてた。ああ、でも愚鈍だったおれにも分かりましたよ。母は自分と俺を生かすために必死なんだって。言葉には出来なかったけど、何となくそう感じていた記憶があります」
由理くんは微動だにせず話し続ける。
ぼくもまた静かに耳を傾けた。そうすべきだと思ったから。
「ちょっと湿っぽいですね。でも、ここからは明るい話ばかりですよ。自分の親のことをこういうのはあれですが、母は美人だった。つまり容姿を金に変えられることに気づいたんです。そして、いつのまにかホステスだかクラブだかのママになった。俺たちの生活は一気に快適になって、母と顔を合わせる時間も増えました。——思い返せば彼女は凄い。自分を正しく認識することができた。自分の価値を」
自分の母親のことなのに、彼の言葉にはどこか完全な他者を評するかのような雰囲気がある。それは一面の真理だ。親子とはいえ他者は他者なんだから。
「先輩。——それは偉大なことではないですか? 素晴らしいことでは」
偉大なこと。素晴らしいこと。
ああ、もちろん。「汝自身を知れ」というやつだ。ソクラテス以来人類に与えられた最大の目標の1つ。
「そうだね。同意する。お母様は偉大な方だ。そして素晴らしい方だと思うよ」
「俺が高校生の頃かな、母に聞いたんです。なんでホステスをやろうと思ったのかって。そしたら言うんですよ。『あんたを見ていたら、ひょっとして私もいけるんじゃないかと思った』って」
容姿をお金にするという点では由理くんはその頂点に立つ存在の一人だ。高校生の頃からそれは凄かっただろうことは想像が付く。
「なるほど。きみが言うとすごい説得力があるな。つまりきみの存在はお母様に偉大な気づきを与えたわけだ」
「そうです。おれが居たから母は気づいたし、水商売の道に入ろうと決意できた。母は元々固い家の娘だったみたいですからね。道を外れた子どもを子どもと認めないタイプの、いわゆるそういう家の」
ぼくに対しては比較的ストレートな、乾いた情感を見せることが多い彼にしては、その言葉は粘性を多分に含んでいた。
◆
一気に喋って疲れたのか、彼は暫し無言だった。
ぼくは待った。
言葉はときどき、胸の中で大きく育つのに時間がかかる。
彼はゆっくりと立ち上がった。そしてふらりと窓際に向かい、暫し夜景を眺めていた。
地方都市に広がる控えめな人の灯を。
地を覆う芝生のように、小さな光点が延々と続く様を。
やがて彼は満足した。つまり言葉が育ちきった。
ぼくの方を振り向き、語った。
「先輩、俺は今から気恥ずかしいことを言います」
既にこの状況自体がそうだともいえるけど。でもまぁ聞くよ。
彼はぼくを友達だとは思っていない。さっきそう言った。
だけど、ぼくが彼をどう思うかは別の話だ。ぼくは彼を特別な存在だと思っているから。ぼくの世界内において。
「おれは先輩を友達だと思ってない。——おれは…あなたを、その、多分兄貴みたいに思ってる」
虚を突かれた。またしても彼はぼくを驚かせる。
ただね、嬉しい驚きだ。
一緒に過ごしたそこそこに長い時間こそが、彼の脳内にそういう言葉を生み出したんだから。
ぼくと彼は個人対個人としてそういう関係性を作りだした。「兄」に値することを彼にした記憶は全くないんだけど、ある行為にどのような意味を付与するかは他者の自由だ。
「それは嬉しい言葉だな。ぼくもきみと知り合えたことは本当に僥倖だった。——もう何年になるかな」
「もうじき9年になります」
9年。改めて言葉にすると結構長いね。
最初に会ったのは彼がまだ大学生の頃。ぼくも会社を継いで1年経つかどうかの時期だった。その後色々あったよ。モデルを本職として続けていくか相談されたこともあったし、彼が社会人になってからもね。色々。
「ぼくが何かそれに値するようなことをしたかと言われれば思い出せないけど、ただ、長く一緒にいたことだけは確かだ」
「それですよ。おれだって先輩に何かをしてもらった覚えはありません。……あ、いや、ありますね。色々。覚えていますか? おれがクライアントを怒らせて……」
「うん。あの時は大変だった。菓子折持たせてね。一般的な謝罪の仕方を説明して。きみは表面を繕うのは上手い割に、わざと本音をチラつかせるからなぁ」
由理くんは馬鹿じゃない。俳優をやれるのも当然の演技力もある。でも、大学出たてで芸能関係の世界に入って、いわゆる一般的な社会人経験がない。
事務所も大手だから一応その辺を教えていたようだけど、その規範は「役者やモデルの世界」のものなんだ。だから一般社会的には時々ズレる。
ぼくが彼に示したのは一般社会の(ごく初歩の)常識。つまり、ぼくが生きる凡庸な人々の世界の在り様だった。
「先輩はその、大人の世界を見せてくれました。おれが知らなかった世界を」
「逆に、我々の大多数はきみが知ってる世界の方を知らないんだよ」
ぼくも立ち上がり、彼の隣に歩み寄る。
窓の外を眺めに。
こうして二人並んで外を見るのなんて、たぶん初めてのことだ。
「俺が先輩を気に入ってるのはそこです。あなたは教えない。あなたは見せてくれる」
「ぼくもきみから知らない世界を色々見せてもらったから、おあいこだ」
ちょっとしんみりしてきたな。
ただね、こういう場面も必要なんだろう。
関係が長くなればなるほど、互いについて真正面から論評することはなくなる。立場とか地位とか、あるいは家族とか、よけいな贅肉がたくさん付いてくる。それを全てそぎ落として、きみはああだ、ぼくはこうだ、と言い合うことには意味がある。
「最近よく考えます。アントワン3世とユニウスのことを」
「ああ……うん。きみはユニウス推しだから」
「もし先輩と俺がここから、今、飛び降りて、リュテスに転生したらどうなるかって。先輩はアントワン3世に、俺はユニウスになる」
「……」
面白いね。
作品の人気は比べるべくもないけど、同じ転生ものの物語を書いている作者が二人揃って、自分たちが転生したらどうなるかと話をしているんだから。
ちなみにこの部屋は高層マンションの31階だよ。
その望みを隔てるものは薄い窓とちょっと広めのベランダしかない。
「俺は多分、
「怖いな。
由理くん。町屋由理くん。由理・レスパンくん。ユリスさん。
彼は微かに笑った。
彼の方を向かなくても分かるよ。ぼくたちは揃って外を見ている。だから窓に映った二人の似姿もまた、見えるんだ。
「アントワン3世は……
「分からない。それは分からないな。だってユニウスの進もうとする方向を彼は認めているんだから。でも2人は生き方が違う。生きる世界が。だから言えることは1つだけだよ。——王はユニウスを”対手”と思うだろう。そしていつか、自分とユニウスの垣根が取り払われ、共に楽しく生きることができる世界を夢想しながら死んでいくだろう。断頭台の上でね」
彼が望んだ答えであったかは分からない。でもそれがぼくの本心だ。
ぼくの隣に立つ長身の青年はじっと目を瞑っていた。口を真一文字に結んで。強く。何かに耐えるように。
ぼくたちはしばらくそうしていた。
彼が結語を口にするまでは。
「では、アントワン3世を生かしてください。
「——始めた”物語”は、終わらせないといけない」
「先輩。あれを本にしましょう。——もちろん先輩が何を考えているかは分かってます。おれが騒いだから注目を浴びただけだって」
「分かっているならそれでいいよ。まさにその通り」
「何が悪いんです?」
「悪くはないね。ただ、うれしくないだけだ」
半ば吐き捨てるようにぼくは言い返した。
彼が心からぼくの作品に価値を置いてくれているのはよく分かる。SNSの投稿は全て批判だけど、それだけの価値があると感じているのはね、よく分かる。
でも、その友誼に乗ることがよいことなのか、ぼくには分からない。
ぼくの”敵”はぼくだから。
「『リチャードと羊』読みましたよ」
これはまた意外なところから抉ってくるな。
「きみに話したことあったかな?」
「ないですね。おれが『地に落ちて死なば』の話を堀田にしたときに、あいつが色々照会掛けたんですよ。ほら、出版って権利関係とか色々あるじゃないですか。それで知りました」
「……なるほど」
「即、古本屋の通販で買いましたよ」
ぼくは『リチャードと羊』を恥じているわけでもないし、隠そうとも思わない。ぼくはあの話が好きだ。大切だ。ただ、敢えて周囲に触れ回ろうとも思わなかった。だから堀田くんがそれを発見したところで、由理くんに読まれたところで特に気にはならない。
むしろ古本が残っていることの意外性のほうが勝るね。
「どうだった?」
「俺は面白いとは感じませんでした。なんというか空疎ですよ。肝心のリチャードが作り物めいてる。観念的過ぎる。——唯一良かったのは羊の可愛さくらいだ」
「酷い言われようだ。でも受け入れるよ。きみがそう思うのは自由だ。羊を褒めて貰えれば十分だよ。思えばぼくのもう1人の読者も羊だけは褒めてくれた」
「誰です? 俺が知っている人ですか?」
「一度ほら、有楽町で食事をしたときに会ってるよ。背の高い、いかにも優秀そうな女の人。茉莉さんっていうんだ。彼女が中学時代からの付き合いでね」
由理くんは暫し記憶を掘り返す。そしてようやくお目当ての図像を探り当てたようだ。
「ああ、金髪の……」
「いや、金髪ではないな。黒髪だよ。ボブカットくらいの」
「すみません。ちょっと知人と混同しました。分かりますよ。うん」
「彼女もきみと同じことを言った。『羊が可愛い』って。高校生の時にね」
「そうなんですか。なかなか見る目があるな。その人」
「ちなみに彼女はきみの作品のファンでもある。メアリ姫推しだそうだよ」
彼ははっきりと分かる苦笑を浮かべて言った。
「ありがたいことです。じゃあきっとその人は『地に落ちて死なば』だとジャスミナ推しですね」
「その通り。——きみが発狂じみた投稿をしてくれたお陰で、ぼくはいつもビクビクしているよ。ぼくが作者だってバレたらと思うとね。なにせジャスミナは茉莉さんがモデルなんだから」
高まる声はもう苦笑の域にはない。単純に楽しげなものに変わっている。何がおかしいのかよく分からないけど。
「いやいや、先輩。多分自分がモデルと知ったらその人は喜ぶと思いますよ。むしろアントワン3世と結ばれなかったら不味いことになる」
「そうかな?」
「もちろん。だって自分をモデルにしたキャラがヒロインじゃないなんて、気分が悪いじゃないですか」
「でも、どう見てもアントワン3世はぼくだ。それこそ中年の妄想詰め合わせセットみたいなものだよ」
情けないけど事実だからしょうがない。あれが”ぼく”に都合のいい妄想物語であることは否定できないからね。
ただ何気なく自嘲しただけなのに、その一言を合図に由理くんは突然真顔に戻った。先ほどまでの陽気な哄笑は一瞬で姿を消した。
彼はぼくの方を向いた。明確に。
そこには総毛立つほどに真摯な瞳があった。
「アントワン3世は先輩なんですね?」
「……ああ、うん。まぁ」
「
「そうだよ。だから言っただろう。ぼくの妄想物語だ」
「では遺しましょう。
「なぜ?」
「少数の幸運な人々のために」
To the happy few.
かつて、ぼくは彼と議論を交わす中で何度もこの言葉を口にした。歪んだ自己顕示欲の無意識の発露として。遠い未来、誰かが「ぼく」を発見してくれることを望む心境を。
「先輩。その人々は何も未来にいるばかりじゃない。今居てもいい。俺は『地に落ちて死なば』から先輩の存在を感じるんです。それほどに凄いことがありますか? あなたはこの複雑な有機物である人間を文章に落とし込んだ! 俺には出来なかった。俺は人を描けなかった。出来事を描けても。——一方で、先輩は人を描いた。それは偉大なことではないですか?」
「買いかぶりだよ」
「自分を正しく認識するのは難しい。自分の価値を。母は俺の姿を見てそれを認識しました。先輩もまたそうあるべきです。俺や、そのもう一人の女性——つまり、少数の幸運な人々を知ることによって」
「他者の意見に自分の存在の価値を左右されるのは嫌だな。ぼくが何を言いたいか分かるだろう」
もう何年も似たような議論をしてきた間柄だ。ぼくがこの問題についてどう考えているかは十分承知のはず。
しかし、彼は
そしておもむろにぼくの手からワインの瓶を奪い取り、飲んだ。
喉を鳴らして。
「先輩! それは違う。他者の存在が価値を定めるんじゃありません。評価する他者の存在を知った先輩が、自分自身で定めるんです。何を難しいことがありますか。他者は気づきを与えるにすぎません。最後は自分で決めるんです。決定権は常に先輩の意思の中にあるはずだ。——俺がアントワン3世を気に入らないのはそこなんですよ。彼は理解してない。自己評価を下すくせに参考意見は常に無視する。軽視する。わざとそうしてるんです。そうでしょう?」
なるほど。由理くんにはぼくがそう見えている。でも違うんだ。ぼくは無視してない。ちゃんと認識してる。その上で信じていないだけだよ。
ただね、一方で、信じたいと感じる自分も確かにいる。
ぼくのワインを私物化して豪快に直飲みする彼の姿を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
◆
この脈略のない感じが夜中の雑談っぽくていいよね。一見筋が通っているようでいて、思い返してみるとそれっぽいことを言っているだけ。夜と酒は理性を狂わせる。
ただ、会話は論文じゃないからね。小説の場面ですらない。好き放題互いに言いたいことを言い合って、気持ちが盛り上がって、脱線して、思いついて、それを繰り返す。論理はない。
でも、そこにはポツポツと宝物のような言葉が落ちてる。
だからぼくたちは会話をする。ぼくたちはそれを拾い集めて生きてる。
由理くんは要するに”おまえの話には価値があるから出版しろ”と最初の主張を繰り返し述べているに過ぎない。その是非は取りあえず置いておこう。
この会話を通してぼくは彼から宝物を1つもらうことが出来た。そっちの方が重要だから。
彼はぼくが”「人」を文章に落とし込んだ”と評した。
人を。
これほどにうれしい言葉があるだろうか。
ぼくのお話には価値がある。
いや、価値があるかどうかは分からないけど、少なくとも一部の人々——幸運かどうかも分からないけど——には意味がある。
これほどに素晴らしいことがあるだろうか。ずっとそうありたいと望んだことだ。
ぼくはそれによって永遠に生き続ける。人々の頭の中に。
この肉体が消えてなお。
信じていいんだろうか。信じたいな。
現金なぼくはちょっと気分が良くなってワインをもう一本空けた。由理くんのためにね。さすがに直飲みは悪いから、本当に久しぶりにワイングラスを出してきた。
「これ、先輩よく飲んでますけど……美味しいですか? 正直俺は……」
「美味しくはないよ。別に。ただ、手頃な値段でどこでも買える。ぼくと同じだ」
「これが?」
「うん。一本何十万のワインはきみが飲めばいい。ぼくはこの凡庸さを愛する。必要十分だよ」
「何にです?」
「生きることに耐えるのに」
カッコよく締めてやった。
嘘ではないよ。
耐え方は2通りある。1つは真正面から苦痛と向き合うこと。2つ目は痛覚を麻痺させること。前者の方がカッコいいことは認めるけど、究極的にはどっちでもいい。結果として耐えられてるんだから。
◆
で、リビングに場所を移したはいいものの、ローテーブルの上では帰宅するなり放置したある物体が不吉な動きを繰り返してる。
なんか震えてる。
こういうとき、見なかったことにして布団を被ってしまうのも1つの手だね。ぼくも会社員時代その誘惑と何度も戦ったよ。
「広告出てないぞ!!」みたいなクライアントのクレームメッセージが何十件も入ってるやつ。いまだに夢に見るからね。
今回も放置すると後が非常に面倒くさいことになるやつだ。
意を決したぼくは恐る恐るスマホの画面を確認する。
ロック画面にさ、通知がスタックされるやつあるでしょ。あれ。
取りあえず直近のやつを開いてみた。メッセージアプリの。
『今から行きますね。 11:58』
2分前だね。
これは不味い。
『ごめん! ちょっと寝落ちしてて返事が遅れた!』
ぼくは慌ててメッセージを返す。
即座に既読が付いた。
『本当ですか? 今どこですか?』
『家だけど。由理くんと飲んでたんだ』
『おかしいですね。兄さんはさっき寝落ちしたと言いました。でも由理さんと飲んでたんですか? ずっと?』
『うん』
『やっぱり行きますね』
『いや、いや、大丈夫だから。由理くんまだいるし』
正直茉莉さんと彼を会わせたくない。
というか例の有楽町会食メンバーの誰とも会わせたくない。だって嫌でしょ。我が家で「解釈違い罵倒大会」が開催されるの。もうあんな思いは二度としたくない。
『信じられません』
『分かった。ちょっと待って』
これ、要するにぼくが一人で落ち込んで、何らかの特別な行動に出ようとしていることを疑われてるんだよね。
人力の孤独死見守りサービス。
だから安心させないといけない。
なんというか申し訳なさで一杯だ。ぼくはごく普通の日常を過ごしているように見せているはずなのに、皆さん妙に疑い深い。
仕方ないから撮りました。
由理くんと二人の自撮りを。
いい歳した大人の男が二人で。
アルパカの瓶を掲げた彼と肩を組んだぼく。
うさんくさい絵柄だ。
これ、もはや恋人疑惑が持ち上がったアイドルが真実を偽装するために上げるアリバイ写真だろ。
さらにもう一枚撮ったよ。時計のリストショット。時刻を証明するためにね。
ぼくは家で時計を着けるのをやめて久しい。だから適当なのをわざわざケースから持ってきて、着けて撮った。今日のやつは自動巻きの三針時計。8角形のケースで有名なやつ。
で、彼はいつものようにウレタンベルトが切れかけた薄いデジタル時計。
見る度に思うんだけど由理くんの時計は本当にカッコいい。
一本をずっと使い続けてる。
これ、時計好きが夢想する窮極の姿なんだよね。ワン・ウォッチ・ガイっていう。
ある種時計好き達のヒエラルキーの頂点に君臨する姿。そうありたいと願いつつ決してたどり着けない理想像。
ぼくもね、彼の容姿には特に憧れないけど、このデジタル時計にだけは憧れる。
さて、撮って送りました。
茉莉さんに。
なのに1分後にはお友達の女性陣全員から続々コメントが寄せられてくるわけです。
これはあれですかね。
皆さん、まさかグループチャットのようなもので情報共有を……。
『お友達と久しぶりのお食事、楽しんでください。冷蔵庫にチーズがありますから、ちゃんと出して差し上げてくださいね』
何か用事があって実家に帰ってる妻からのメッセージかな。
『せんぱい、今度私もお家飲みしたいなぁ! 二人で』
これはもう完全にアウトなやつだ。女子大生、サークルの後輩、飲み会を途中抜け。色々フラッシュバックするやつだ。
『また仕事の相談があるのですが、打ち合わせの場所はここでいいですね?』
添付されたURLを開くと六本木辺りのタワマン出てくるんですけど。クライアントの決裁権持ち役員から個人宅を打ち合わせ場所に指定されたぼく(34歳・戦コンアソシエイト)。あっ。
怖いね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます