日々の泡 3

 ぼくはテレビを付けることがほとんどない。

 昔は結構見ていたと思うんだけど、前職のときにその習慣は見事に途絶した。家に帰ったら食べて寝るだけの生活だったから、そこにテレビが入り込む隙は無かった。

 今の仕事についてからも状況は変わらなかった。

 つい数年前までは、ぼくも意外とイケイケの経営者だったので。

 思えばあの頃謎の焦燥感に駆られていた。恐怖かな。ぼくが一瞬でも停まれば会社が無くなってしまうんじゃないかって。部下の信頼を失うんじゃないかって。今にして思えば、その恐れを忙しさでかき消すことに全力を傾けていた感があったね。

 そしてここ1年くらいは暇を持て余すようになった。

 単純明快な真実に気づいたからだよ。ぼくが居ようが居まいが何も変わらないという。


 そうするとやることがない。

 だから本を読んだり、あるいは、あまり人に言えないけどベッドの上でぼーっとしてた。気がついたら2時間、3時間経ってる。それに気づいたときぼくが何を感じたか? ラッキーだと思ったね。2時間潰せたわけだから。


 さて、そしてここ1ヶ月。

 本もほとんど処分してしまった。読むものもない。残った哲学書の類いも実は過去の思い出から手放せないだけだ。今のぼくにはもう、複雑な論理を追うことが難しくなってしまったから。

 だから最近は専らエピクテトスやプラトンの著作を眺めてる。特にエピクテトスは勇気が湧くね。

 後は聖書。これもいい。ああ、信仰があるわけではないので、何というか、人類の知恵の結晶として読んでる。

 そんなところだ。


 で、最近テレビを見るようになった。

 見始めてびっくりした。テレビの世界も様変わりしたね。昔よりも通販番組が増えたし広告もマイナーな会社のものが多くなった。元広告畑の人間として、そして今は広告を出す側の人間として色々分析はできるだろうけど、それもまた、もう意味が無い。

 だからぼうっと眺めてる。

 ワインを飲みながら。


 そんな夜の一時ひととき、ちょっと気を惹く瞬間があったんだ。

 例の『この人を見よ』、9月からアニメ放送が始まるらしい。そのCMを見た。

 カッコよかったよ。

 軍服姿のグロワス13世が馬に乗って軍に号令をかけるシーンとか、大観衆に演説するシーンとか。時々ヒロインとの逢瀬が差し挟まれてね。バシバシ画面が切り替わって、最後にタイトルが浮かび上がってくる。お城を背景に。


 で、皆さんがボランティアでやってくださってる「孤独死防止サービス」——彼女達はいわゆるデジタル民生委員みたいなものなんだろうか——のメッセージに話題として投げてみた。

 今夜のご担当、茉莉さんに。


『『この人を見よ』のCM見たよ。グロワス13世はカッコいいし、茉莉イチオシのメアリ姫も凄く可愛く描かれてたね』


 って。当たり障りなく。

 ここからちょっと話が盛り上がるかと予想してたんだ。

 彼女はメアリ姫をお気に入りだったようだから。

 というかデジタル民生委員の皆さん、「解釈違い」で原作者とバトルするレベルの熱狂的なファンなので、事によったら長文の返事が返ってくるかもしれない。そう思ってた。


 で、予想を裏切られた。

 なんと表現すればいいだろう。道を歩いていたら知り合いを見つけて軽く声を掛けた。近況を軽く立ち話、と思った矢先、いきなりナイフで脇腹を抉られる。そんな感じ。


『へぇ、そうなんですね。あ、ところで兄さん、『地に落ちて死なば』って知ってますか?』

『聞いたこともないな。それより、メアリ姫がグロワス13世にお姫様抱っこされるシーンもCMに出てたよ』

『そうですか。それで、話を戻しますが『地に落ちて死なば』はネット小説です。本当にいいお話なので兄さんもお暇なときに是非読んでみてください! ちなみに私のイチオシは断然ジャスミナですね。ネタバレになるのではっきりは書きませんけど、彼女がある失敗をして自責の念に苛まれているとき、王が彼女を助けるんですよ。つきっきりで。二人きりになって。本当に綺麗な場面で!」

『茉莉がそこまで言うなら暇なときにでも読んでみようかな。ところで茉莉はもちろん『この人を見よ』のアニメ見るよね』

『気が向いたら見ます。それで、アントワン3世ってちょっととぼけた感じの主人公なんです。でも実は外から見るとキリッとしてる。そこがカッコよくて可愛くて!』


 こう、ね。

 心臓が跳ねる。振動を体感する。

 多分ぼくは今、心拍数160くらいあるね。無酸素運動ゾーンに突入してる。ソファーにどっかり座り込んで完全リラックスモードのくせに。

 嫌な汗が出てきたな。

 スマホのフリック入力が危うくなっている。


 茉莉さん、あんなに『この人を見よ』のことを好きだったはずなのに、ぼくが何度軌道修正を試みても完全にスルー。


『早く出版されてほしいですね! そうしたら挿絵も付いて、アントワン3世とジャスミナのビジュアルを見られますから。あ、ジャスミナなんですけど、実は私の今の髪型と同じなんです。偶然! ああ、早く見たい!』

『それは難しいんじゃないかな。その、よく知らないけど、ああいうネット小説で本になるのなんて一握りなんでしょ。凄い有名な作品だけだから』

『? なりますよ?』

『?』

『だって今一番話題の小説ですから。大学の同期に出版社勤めの子いますけど、この間話したらバッチリチェックしてました。”どこの出版社が取るかな”って』

『へぇ。凄いね。まぁでも、タイトルからして暗いお話だろうし、あまり売れなそうだw』

『は?』


 ああ、こういうの良くないね。自分が好きな作品をけなされたら誰だって怒る。

 でもね、許してほしい。

 非常に込み入った事情があって言えないんだけど、申し訳ないんだけど、ぼくが著者なので。つい本音が出てしまった。


『ごめん! そうだね。本が出るといいね。私も気が向いたら読んでみよう!』


 ぼくは即座にフォローを入れた。

 なんだこれ。

 よく見ると茉莉さん、メッセージアプリのHN「茉莉@ジャスミナ推し」になってるし。

 なんだこれ。

 これはあれですかね。お友達とかに布教されてる感じなんですかね。HNを釣り餌に。「茉莉、そのジャスミナってなに?」みたいなお友達の質問を引き出すために。

 こわいね。


 ぼくが著者であることを茉莉さんが分かってるのかどうか、正直本当に半々だな。

 分かっている場合でもこういう婉曲な会話になることもあるだろう。特に彼女は「物語を書くこと」がぼくにとってどれほどに深刻な意味を持つかを理解しているから。

 一方で分かってない可能性も十分にある。そう信じたい。

 うん。分かってないと思う! 考察終了!


 でも念のために準備だけはしておかなければいけないね。

 ぼくはウェブブラウザを立ち上げ、検索窓にキーワードをたたき込む。


「脇差し 切れ味 いい 店 東京」





 ◆





 さて、肝心の『地に落ちて死なば』の話をしよう。

 実は結構しんどい局面にある。

 ちょっと前まではあれほどに心が躍った感想も、ブックマークも、ポイントも、ここ数日はあまり見ていない。


 感想欄は相変わらず大乱闘会場。

 パクリ論争は旬を過ぎたようであまり見なくなったんだけど、代わりに『この人を見よ』とどっちが凄いか論争が始まってる。比べる話じゃないってぼくもユリスさん由理くんも書いたのに……。こうしてみると、闘争は人間のさがなんだと実感するね。


 ちなみにユリスさん由理くんもよくない。

 ひっそりフェイドアウトしてくれればいいのに、ぼくが更新する度に感想を5連投とかするから。毎回。

 感想というか、時々解説みたいになってる。「ここの情景描写に○○の心情の暗示がある。冒頭の表現と対になっていて……」みたいな。

 なんだこれ。


 出版社の人とか関係各所に注意されたりしないんだろうかと不安になって彼にメッセージしたらいい感じの彼らしい答えが返ってきたよ。


『おれの自由を制限する権利は誰にもありません。決して、誰にも』


 まぁ、別に社会的によろしくない政治的発言を繰り返しているわけではないからそれはそうなんだけど。

 ビジネス的に大丈夫なのかと重ねて尋ねたところ、また熱い答えが戻ってきた。


『ビジネスはおれの人権の上位に来るものですか?』


 で、ポイントとブックマークはね。

 諸々あってランキングに載った。「異世界ファンタジー」の。凄いね。載ると1時間のPVが1000を超える。怖いね。


 あ、感想と言えばなぜか外国の方からも来るようになったよ。翻訳をかけて読んでくれたんだろう。あるいは日本語学習中の方なのかな。いずれにしても凄く光栄なことだ。

 ただ、海外の人って母国語でダイレクトアタックしてくる方が多い。特にスペイン語とアラビア語。もう英語にすらせず母語で来る。

 両言語ともに若干のトラウマがあるので翻訳を掛けるのが怖かった。

「うちのカルテルは既に動き出している。震えて眠れ」とか書いてあったら嫌でしょ。

 もちろんそんなことはなかった。普通に感想だった。面白いって。

 あ、フランス語もダイレクトに来るね。中でも凄かったのは長文の、18世紀フランスの社会統計とかを延々と解説してくれてるやつ。論文資料(フランス語)紹介も含む。

 とてもありがたいし勉強になるんだけど、このお話はリュテス王国という謎ワールドが舞台であって18世紀フランスではないんだ。とてもありがたいんだけど。


 さて、この状況はぼくが夢にまで見たものだ。

 文字通り世界中の人がぼくのお話を読んでくれる。そして、大乱闘するまでに心を動かしてくれてる。これほどにうれしいことはない。まぁ茉莉さんが言ってた書籍化オファーとかはリップサービスとしても、そう言われてもおかしくないくらい、たくさんの人の目にとまった。


 つまり、ぼくは深海から釣り上げられた。

 結果何が起こるか。分かるかな。

 深海魚って深海の高圧状態に身体が最適化されてるので、急に引き上げられると気圧差で死ぬ。

 そういうことだね。


 端的に言おう。

 怖い。

 多くの読者の人に楽しんでもらいたいという欲求は書き始めたときからあった。でもそれは結果であって目的ではない。ぼくはぼくが書きたいものを書く。その際にできる限り「独りよがり」にならないよう注意することで、結果他人も楽しめるものになる。それが理想だった。

 今はどうかと言えば、この主従——目的と結果——の絶対性が揺らいでいる。

 このことに関しては、ぼくが情けないからだとは思わない。誰だってそうなる。数千人の人がぼくの作品を読んでる。彼ら彼女らは数字に還元されているけれど、皆肉体と精神を持った一個の人格だ。つまり数千人の「人」だ。

 彼らに楽しんでほしい、彼らに見限られたくないと思う気持ちが生まれないなんて、それこそありえない。


 そこで、ようやくぼくは気づいた。

 またしても同じ袋小路に迷い込んでいるんだと。


 会社でもそうだった。

 従業員の皆さんに「ここで働いてよかった」「充実している」と思ってほしかった。彼らに見限られたくないと思った。ぼくが価値のある存在だと思われたかった。

 ぼくはその気持ちをうまく操縦することができなかった。


 これはもう宿痾しゅくあなんだろうね。

 ぼくという存在はこのように在る。

 ぼくはいつも「ぼく」「ぼく」「ぼく」だ。

 ぼくの世界には他者がいない。正確には他者に向ける意識の束がない。本当の意味での理解不可能な他者の「存在」を恐れている。





 ◆





 恥ずかしい話だと思うよ。


 時々思うんだ。

 誰か好きな人ができて、その人との間に子どもが出来ることを想像することはある。

 徹頭徹尾、自分という個人しか見ることが出来なかった人間が。



 ぼくは子どもを愛することが出来るだろうか。

 この歪で、そのくせ量だけは多い自己愛を、子どもに分けてやることができるだろうか。

 それとも大好きなチョコレートケーキを独り占めするように、一片も他者に分けてやらないだろうか。

 愛を。


 それは嫌だ。ぼくはケーキを皆に切り分けてあげたい。そうなりたい。



 でも、そうなれないことは分かっているからね。


 青佳さん、茉莉さん、アナリースさん、知子さん。

 皆ぼくに好意を持ってくれている。それが分からないほど愚かではないし、分からないとほど恥知らずでもない。

 理由? ぼくを好きになる理由? それは本当に分からない。だから怖い。だけど恐怖は乗り越えようと思えば可能だ。極言すればなんだっていい。世の中には「一目惚れ」なる驚異の単語もあるくらいだから。


 ぼくは彼女達に心から好意を持つ。だけど、をぼくは恐れる。

 自分のことは自分が一番良く知っている。表層は騙せても深層は騙せない。

 ぼくは彼女達にも、恐らく生まれるであろう子どもにも、ケーキを分けてあげられないタイプの人間なんだ。


 ぼくはフリーライダーだ。

 皆の好意を掠め取って、それに乗っかって生きてる。

 世の中そんなものだ。むしろ賢い生き方だと思えれば幸せなんだろうけど、生憎ぼくはそうなれなかった。ならば無賃乗車は止めなければならない。


 この心性は唯一、ぼくが誇るべきものだよ。

 ぼくにだって誇りはある。


 こうして見ると、凡庸な者が為しうる善いことを描きたいと始めた物語の意味は少し変わってくる。凡庸な者は善を為しうる。では、卑劣な者はどのような善を為しうるだろうか。

 答えは決まっているね。

 居なくなることによって。


 だけど、その結末はどうやら「皆の望むもの」ではなさそうだ。皆はアントワン3世ぼくが幸せになることを望んでいる。何かを成し遂げ、讃えられ、ヒロイン達と結ばれて幸せに暮らすラストを望んでいる。


 なるほど。それが皆の望むことだ。

 でも、ぼくが書きたいことじゃない。


 最近ぼくが雇った家事サービスのスタッフさん——青佳さんは、ぼくが南米原産のもふもふした生き物と戯れることをあまりよく思っていない。口には出さないまでも。

 でもね、彼とは長い友誼がある。

 女の人にちょっと嫌な顔をされただけでと疎遠になる男なんて、とても格好が悪いじゃないか。

 ぼくは彼とずっと友達だ。


 キャップを開けて口を付ける。

 昔、お酒をほとんど飲まなかった頃は、度数の強いワインなんてその匂いだけでくらっときたな。容易に飲み込めず、口内に溜めてちびちび飲み下した。

 今はね、喉に直接流し込めるようになった。

 人間には不可能はない。訓練は何事も可能にする。ぼくはワインを水のように、喉を鳴らして飲めるようになった。これは凄いことだよ。


 さて、こういう下らない、結論の見えない思考は皆殺しにして、続きを書こう。





 ◆





 アントワン3世の宮廷にやってきたサジェシア姫、覚えてるかな? 

 彼女のお話を書かなきゃいけない。


 王はサジェシア姫の生国アンジー公領を「回収」することを試みる。そうしないと西の国境が安定しないから。

 どうやって? 方法は二つしかない。一つは戦争。もう一つは婚姻。

 リュテス王国を含む大陸諸国では一夫多妻制が——都合の良いことに!——普通。

 よって彼は穏当に婚姻による両国の結合を図る。王道だ。


 彼はその交渉のため、アンジー公領に姫を伴って行幸することにした。

 この話、もう大分長く続いているくせに、舞台はずっと首都ルテシアの王宮だったからね。読者もそろそろ飽きてきた頃だろう。

 ということで、旅にかこつけてリュテス王国の雰囲気をなんとなく紹介しつつサジェシア姫との交流を書くよ。


 ご想像の通り、この流れを思いついたのは、またしても実体験からなんだ。


 行ったからね、知子さんとドライブに。


 結局新国立美術館は止めにして——彼女曰く、、とのことだけど——、ぼくの住む県の田舎の方にある某美術館まで。

 この美術館、諸々あって近々閉館が決まっている。

 だかららしい。


 楽しいね。ドライブ。

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