地に落ちて死なずば

本条謙太郞

労基かな?

 総務部長の吉永さんが社長室にやってきたのは昼休み。ぼくはコンビニの竜田揚げ弁当にかじりつこうとするところだった。

 この人は悪い知らせを最悪のタイミングで持ってくることで定評がある。

 今回の知らせは部下の退職。

 食事の喜びを台無しにするのにこれ以上の手段は思いつかない。


「そうですか。……残念ですが、分かりました」


 社員の退職って思ったより堪えるんだ。

 何が嫌だったのかな。見限られたのかな。力を発揮してもらえなくて申し訳ないな。そんな悔悟の思いがエンドレスに脳裏を占める。そして若干の反発心もね。綺麗事じゃない。

 特に今回はかなりのダメージだ。

 通常の退職がカッターで切りつけられる程度の痛みだとすれば、今回のそれはナタで滅多斬り。即死。

 だって、辞めるのは社長ぼく付の秘書だった人なんだ。


 三沢青佳はるかさん。

 新卒でうちに入社して三年目。秘書課の中では比較的ぼくに優しい人だった。しっかりもので世話好きの性格から、だらしないぼくの面倒をみてくれていた。

 だから勘違いしそうになるのも仕方ないね。男のさがなので。

 でも、自他共に認めるうだつの上がらないおじさんであるぼくは身の程を弁えてる。ゆえにきっちり線引きしてきたつもりだ。そもそも同僚としか思ってないよ。


 そうしているつもりだった。

 だけど、ひょっとしたらぼくの行動が彼女に不快感——職を捨てるほどの——を与えたのではないかという不安を拭い去ることはできない。


 というのもね、1ヶ月位前から、三沢さん、んだ。書類を持ってきてくれるのは前からだけど、最近は用が済んだ後も社長室に居残って、どうでもいい世間話を投げてくるようになった。


「社長、そのお時計素敵ですね。とても上品」


 こんな台詞言われたらさ。その、ね。

 いかにもっぽい雰囲気を装いつつ、うわずった早口でぼくは答える。


「ああ、ああ。うん。そうだね。私もいい歳だから一つくらい良い時計を、と思って」


 間を置かず帰ってきた台詞がこれ。


「そうなんですか? でも、いつも違う時計なさってますよね。実は私、こっそり観察していたんですよ?」


 さて、どうだろう。

 真面目で優しい、そしてとびっきり美人な部下にこの言葉を投げかけられたぼくはどうすべきだろうか。


 ぼくを褒めてほしい。

「時計に興味があるのかな? それなら一度いいお店を……」みたいな返答をしなかった理性を。ぼくは耐えた。いや、嘘。理性じゃないね。恐怖かな。


「労働基準監督署(総合労働相談コーナー)」

「女性の人権ホットライン」


 分かるよね。

 で、ぼくは超無難に「ありがとう。そう言ってもらえてとてもうれしいよ」と答えた。こういうことが何度もあったんだ。


 そういえば、なぜかコーヒーを持ってきてくれるようになったね。

 ありがたく頂く。業務命令ではなく善意で持ってきてくれたんだから多分大丈夫だろう。

 問題はこの後だ。ぼくは数口飲んで机に置く。すると三沢さん、カップを取って……口を付ける。ぼくの飲みかけのコーヒーに。

 ふわっとした、しかしどこか艶やかな笑顔で。


「ちゃんと入れられたか、味見していませんでしたから」


 いやいやいや。これはね。

 ぼくの脳裏にポップした可能性はまずハニートラップ。

 どこか外国の企業が我が社の最先端技術を狙って……。でも、冷静に考えてみればそんな最先端技術なんてうちにはない。我が社が誇るのは祖父の代から続く偉大なる職人技。機械とかない。しかも三沢さんのお父さんは県庁のかなり偉い人だから、ハニートラップ要員とかまずない。

 となると、これはひょっとするとひょっとするんだろうか。そんな大それた夢を見た。


 ここだけの話、最近夢で見るんだ。三沢さんを。

 正確には三沢さんじゃないな。三沢さんによく似た人。

 夢の中で、ぼくはヨーロッパっぽい架空世界の王様でね、三沢さんに似た女の人がぼくの奥さんという。ご丁寧にブラウネという名前。ブラウネは当地の言葉で「青」って意味らしい。あー。


 ご想像の通り、寝起きは最悪だったよ。

 中学生の妄想かな。ぼくは30過ぎだぞ。

 もう恥ずかしいなんてもんじゃない。こんなの誰かに知られた暁には、ぼくにできることはただ一つだ。跳ぶ。


 さて、ぼくの神経をおろし金よろしくすり下ろすこの1ヶ月。

 心の中は大混乱だったけど、表層は努めて平静を装った。ぼくは上手くやった。彼女を不快にさせないように、上司と部下の関係性をしっかりと守ったはず。

 そう思っていた。


 なのに彼女は退職するという。


「理由は何か、吉永さんお聞きになってますか?」

「はい。一身上の都合、と」


 一身上の都合。なるほど。

 どう捉えればいいのか分からない。

 一週間後くらいに内容証明が届くんだろうか。訴状かな。



 ◆



 一週間後、内容証明は届かなかった。

 代わりにやっかいな連絡が来た。

 母から。

 見合いをセッティングした、と。


 普通ならまず断るところだけど、今回ばっかりはね。

 この中学生じみたマインドは独り身が長すぎるせいかもしれない。ぼくもいい歳だ。波長が合う人がいれば結婚も悪くない。


 冗談めかして色々語ってきたけど、こんなハイなテンションになってしまうくらい最近の生活はしんどい。

 会社にはもう居場所もない。かといって他にやることもない。

 だからだろうか、いきなりように不可思議な行動に出た三沢さんに、ぼくは希望すら抱いていた。手段はどうあれ、彼女はぼくをかき乱してくれた。

 ありがたいことだよ。


 で、一ヶ月後、会うことになった。東京の格式あるホテル。日比谷駅近くの。

 お見合い頑張ろうと決意しながら、実は心の中では会の後に繰り出す銀座時計ブティック巡りのことばかり考えていた。

 まず並木で「○○○&○○○ブティック」。その後「○○○○○センター」に流れて、と妄想が止まらない。


 そんなワクワク感は一瞬で吹き飛んだよ。釣書見て。

 あー、この顔、見たことあるわ。この大ぶりに編んだ髪型。この少し垂れた大きな、優しげな瞳。このほんわかした笑顔。

 なるほど。25歳の方。

 ふむ。現在家事手伝いをなさっている。

 あ、秘書検定1級をお持ちなんですね。

 なるほど。



 ◆



 我が家は母とぼく。先方はご両親とお嬢さん。

 帝国ホテルのラウンジで待ち合わせ。


 渋い感じのナイスミドルなお父さん。やり手官僚の中でもかなりカッコいい部類だね。そしてお母さん。職業婦人感ある。JTCの管理職っぽい。


 ぼくたちは型どおりの挨拶を交わす。ご両親も当然ながら娘さんとぼくの関係(上司と部下の!)を知っているわけで、「娘がご迷惑をおかけして〜」やら「とんでもない。こちらこそ、娘さんには大変お世話になって」やら定型句を繰り返した。小さな会釈をエンドレスに続けながら。


 そしていよいよ「この後は若いお二人でじっくりと」のお時間がやって参ります。

 母と先方のご両親が談笑しながら席を立ち、ぼくたち二人が取り残された。


「社長。お元気でいらっしゃいました?」


 悪戯っぽい笑みをたたえた彼女が囁く。

 落ち着いた濃紺のワンピースを身に纏い、アクセサリーは一切付けていない。大人の女性の装いとしてはかなり奇異な部類なのに、それがあまりにもしっくりハマっている。素材のよさで勝負できるって、女優さんかな。

 会社で見たスーツ姿とはまた違う、まさに女性の柔らかさと気品を強く印象づける佇まいは、数年間にわたって一緒に働いた同僚である彼女をに見せた。


「ああ、うん。三沢さんも。——お元気そうでよかった」


 ぼくはぎこちなく、なんとか答えを返した。

 彼女は両手を軽く合わせ、弾むように言う。


「まぁ、緊張なさっていらっしゃいますの? この会は少々肩肘張っておりますかしら。——


 陛下? え?


 こうして”物語”が始まった。

 ちょっと気弱なぼくとちょっと電波な彼女の不思議な物語が。

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