黒の結界
沖島 芙未子
第1話「セイレン」
荒々たる不毛の野に、調査員らが鎌で地を掘り進める乾いた音だけが響く。ひと堀り、ふた堀り。やがてその鎌は金属とプラスチックの感触に行き当たって動きを止めた。一人の調査員はその物質の周りの土を手で慎重に避け、鎖繋ぎの小さな懐中時計を取り上げた。
「おい。こっちに来い」
もう一人の調査員を呼び、軍手の上の鈍色の時計を見せる。もはや再び時を刻むことのないそれは、長い年月を経て変形し、ところどころ腐食が進み、罅割れてはいるが、かろうじて時計の体裁を保っていた。いや、むしろ、年月が経ちすぎていることのほうが問題だった。発掘時の深さと劣化の程度を照らし合わせれば、この時計は約三千年もこの地でそのまま眠っていた計算になる。しかし、調査員が見るに、それは明らかに近代以降の技術が反映された小さな機械であった。
二人の調査員は互いに目を見合わせ、この不可思議な出土品を真夏の太陽へ捧げるように翳したのだった。
『――それでは、本日七月二十七日木曜日の世界のニュースです。××国、×××海岸付近の平野で、小型の機械らしき金属片が発掘されました。同国での年代鑑定によると、約三千年前のものと推定――』
*
七月最後の水曜日の昼下がり、ディオネ・K・オルソープは、ほかに待つ者の無いバス・ストップのベンチに腰掛けていた。首都からこの港町まで一時間、更に郊外へ向かうバスは二十分近く遅れている。
『えっ、バイト先、潰れちゃったの? こんなタイミングで』
彼女の耳元に添えられた携帯端末から、ルーシーの甲高い声が吐き出された。
「そう。明日からまた探し直しよ。夏休みの間に出来るだけ稼いでおかなきゃいけないっていうのに」
ディオネは落胆の溜息をつき、胡乱な眼で出来るだけ遠くのほうを眺めた。緩やかに続く丘陵の裾野には、浅緑色の広大な放牧場がどこまでも続いている。そのなかに白い綿を点々と置いたような羊たちが、人の気も知らずに呑気に草を食んでいた。
『じゃあさ、今週末くらいはどこかに遊びに行かない? ほら、十一年生の選択授業で私たちと一緒だった、ロブとミッキーって居たじゃない。このあいだ連絡先を交換したのよ。彼ら、ディオネとまた話したがってたから、誘ったら多分来ると思うわ』
「それ、誰だっけ……」
『…………』
端末の受話口越しでも、ルーシーが「信じられない」と思っているであろうことが如実に伝わってきた。
『あなたって、人間関係については、何と言うか、本当にクールよね……。そこがいいんだけど』
ディオネからすれば、半年以上前におそらく一度しか会話したことがない同級生の顔と名前を覚えているどころか、いつの間にか連絡先を交換するほど仲良くなっているルーシーの社交力のほうがむしろ驚きだったが、何となく口に出すのはやめておいた。
『まあ、今週末じゃないとしても、せっかくだから授業が始まるまでに一度は二人で出掛けようよ。駅前に新しく出来たワッフル専門店とか』
「あ、それは行きたい」
『でしょ。決まりね』
日付空けておいてね、というルーシーの声にかぶさるように、遠くからバスのエンジン音が近付いてきた。ディオネは金色の懐中時計をワンピースのポケットから取り出して素早く時刻を確認し、バスが来たからとルーシーにさよならを言って、携帯端末を肩掛け鞄に押し込んだ。ルーシーは電話の切り際に、ちゃっかり「ねえ、ディオネ。新学期になっても、また課題のことで色々相談させて」と付け加えるのを忘れなかった。
色付きの硝子窓から見えるこの地方の空は、相変わらず重苦しい灰色だ。車内の照明のほうが明るいせいで、ディオネの顔が硝子に薄く映り込んでいた。緩く巻いたブロンドに、少しだけ垂れた目尻、人よりも目立つ鼻筋。父譲りの薄い唇は、いつものように真一文字に引き結ばれている。ディオネは硝子の向こうの見慣れた自分の姿を暫くじっと見つめ、眉ひとつ動かさないまま軽く溜息をついた。彼女の膝の上では、麦藁帽と白一色の花束がバスの不規則な振動に合わせて小刻みに揺れている。
ほどなくして、バスは目的地に辿り着いた。バスのステップから砂利道へ降り立ち、日除けの麦藁帽を手に持ったとき、ちょうど強い風が吹いて、帽子がディオネの手を離れた。彼女は慌てて後ろを振り返る。すると、背後から「おっと」と声が聞こえて、黒い帽子を目深にかぶった紳士がディオネの麦藁帽を拾ってくれたところだった。
「お嬢さん、お気をつけて。今日は風が強いからね」
紳士はディオネと目を合わせないまま簡潔にそう言って、彼女に麦藁帽を手渡してくれた。ディオネがお礼を言ってお辞儀から顔を上げたときには、もう紳士の姿はどこにもなかった。
ディオネは潮風を感じながら田舎道をしばらく歩き、広大な森林墓地の端の一つの墓石の前で足を止めた。かがんで白い花束を供え、墓石に刻まれた二つの名をじっと見つめてから、目を閉じて祈りを捧げる。
――おじいちゃん、おばあちゃん、久しぶり。私は元気よ。引っ越してからもう二年も経って、一人暮らしにもだいぶ慣れました。今はシックス・フォーム入学前の夏休み期間なの。これから絶対に大学で専門性の高い技術を身に着けて、自分で稼げるようになって、一生堅実に生きていきます。
伝えたいことを一息で伝えきり、ディオネは胸の前で組み合わせていた両手の指をゆっくり解いた。ふたりの息子にあたる人をあんなひと呼ばわりするという点だけは気が引けたが、心の中で彼らに話しかけるときに自分の率直な気持ちを偽ることはしたくなかった。
ディオネは父の笑った顔がどんなだったかをもうはっきりと思い出すことができない。幼い頃に母がいなくなってから、父は仕事の忙しさを理由にディオネを両親に預け、それから一度も一人娘の顔を見に帰ることはなかった。二年前に祖母が亡くなると、ディオネはやっと父が契約しているマンションに移り住んだが、この二年の間、彼が帰宅することは滅多になかったので、実質的な一人暮らしと言って良かった。家賃や生活費は常に決まった額が振り込まれていたが、ディオネはせめて生活費だけでも極力自分で稼ごうと決めていた。金銭的支援をしていれば一人前の父親の顔が出来るなどと彼に思ってほしくなかった。
そのうち、祖父と祖母が眠る場所の目の前でこんな荒んだ気持ちになっているのが申し訳なくなったディオネは、「また来るね」と二人に声を掛け、ワンピースの裾に付いた草切れを払ってそそくさと立ち上がった。
せっかく久しぶりにこの町まで来たので、少し遠回りをして、切り立った崖から海を直接見下ろせる場所まで足を伸ばすことにした。海岸沿いの道は、平日とはいえ夏休みに入ったばかりのわりには人通りが少なかった。海風に吹かれて気分が良くなってきたディオネは、周りの邪魔にならなさそうなのを良いことに、歩きながら小声で歌を口遊んでみた。昔、母が子守唄代わりに歌い聞かせてくれた童謡だ。あまりに繰り返し聞かされたので、この曲だけはいつでも全てそらで歌うことができる。この曲を歌っていると、遠い昔に聞いた母の声が重なって聞こえてくるような気がした。
一曲歌い終わる頃には、灰がちだった地面が徐々に浅緑色の草原へと変わり、ディオネの靴の先はもう少しで崖の先端に差し掛かろうとしていた。目の前に広がる海は一瞬足が竦むほど雄大で、やや荒い波音で彼女を歓迎していた。ディオネは麦藁帽と荷物を傍らに置き、そのまま黙って波音に耳を傾けながら暫く海を眺めていた。周りには人の気配すら無かった。
やがて、波音がやけに近くに聞こえることに気付いたディオネは、潮の満ち引きの状態を確認するために、草の上に膝をついて崖の真下を覗き込んでみた。案の定、崖の中腹ほどの位置に白波が当たっては砕けているのが見える。
――この時間は、むしろ干潮に近いんじゃなかったかしら?
それとも、自分がここまで歩いてくるのに思ったよりも時間がかかったのかと疑って、ディオネはかがんだ体勢のままポケットの懐中時計を取り出した。ところが、彼女が時計の文字盤を目にしようとした直前、何か洪水の時のような嫌な感じの音が海のほうから聞こえてきたので、ディオネは時間を確認するのを中断してふとそちらに目を遣った。
崖の真下を覗き込んでみると、音の正体はすぐに分かった。ディオネは思わず息を呑んだ。こんなものが海に存在するなんて聞いたこともない――。それは、突如海面に出現した巨大な黒い渦だった。よく観察してみると、海水が時々泡を立てながら、渦の中心に向かって絶え間なく吸い込まれているようだ。
――あれは何?
潮の流れによって自然に発生する渦潮とは、様子も大きさも明らかに異なる。それはむしろ、宇宙の果てに存在するというブラックホールによく似ているとディオネは思った。ブラックホールはその強力な引力で、周囲の物質を永久に続く闇の中に飲み込んでしまうのだという。飲み込まれたものがどうなるのかは、この世の誰も知り得ない。
とにかく、何か普通でない事象が起きていることだけは確かだったので、ディオネはすぐにその場から立ち去ろうとした。ところが、彼女が立ち上がった拍子に、中途半端にポケットから取り出したままだった懐中時計がディオネの右手から滑り落ちそうになった。反射的に何とか懐中時計を守ろうと掌と指に力を入れる。その瞬間、彼女はそれに気を取られ、自分が崖の縁ぎりぎりに立っていることをほんのひと時忘れてしまった。丁度そのとき強い風が吹いてきて、彼女の身体は手前側に大きく傾いた。
『お気をつけて。今日は風が強いからね』
あの紳士の言葉がもう一度耳の中で聞こえた気がした。体勢を立て直す暇もなく、彼女の体はほとんど垂直に――つまり、崖の下にぽっかり穴を空ける黒い渦の中心へと向かって投げ出された。視界の端に、渦の中心の深い深い黒色が映る。それは巨大な鰐が口を開けて喉を見せている様子にも思えた。落ちれば文字通り底の無い闇だけが待っている。飲み込まれたものがどうなるのかは、この世の誰も――。
――ああ、こんなことなら、やっぱり確かめればよかった。
渦に飲み込まれる直前、ディオネの脳裏をひとつの小さな後悔が掠めた。今日、地上にひと欠片だけ残してきた、ほんの些細な後悔だった。
そこからはあっという間だった。海上の巨大な怪物は少女の身体を難なく丸呑みにし、それから次第に収束して、ついには跡形もなく消えてしまった。残されたのは、正常な潮位に戻った極めて穏やかなコバルト色の海と、崖の上にきちんと揃えられた少女の荷物と麦藁帽だけだった。
*
“彼”は、海の様子を窺うために一人で天幕の外に出てきた。南東からの風が頻りに音を立てて吹き付けていた。彼は外衣が飛ばされないように襟元を掻き合わせ、目を眇めて暗い海の果てを見据えた。
「なにか見えるか」
いつの間にか、相棒が彼の隣に並んでいた。彼を追って天幕を出てきたものであるらしい。彼は相棒を一瞬だけ横目で見遣って「いや」と応えた。
「……ただ、風が強い。これから嵐になるだろう」
「ということは、明日もこの町で足止めか」
相棒はつまらなさそうに零した。
風の音と波音に混じって、細い絹糸のような歌声が海から聞こえる。それに気付いて、彼はわずかに唇の端を上げた。
「セイレンの歌だ。あれが聞こえるうちは、どのみち航海には出られまいよ」
相棒はそうだな、と気の無い返事を返し、風を厭うように天幕のほうへ引き返して行った。彼も頃合いを見てそちらに踵を返したが、天幕に入る前に一度だけ夜の海を振り返った。まだ航海に出てもいないのに、海の妖魔の宝玉のような歌声は、彼を深い海の底へといざなっているように思えた。
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