公安のファムファタールは暴かれたい

篠川織絵

官僚と隠し子

序 穢れた神話の果てで。

カシャン——と金網かなあみを掴む音が屋上に響いた。

香山慎之介かやましんのすけは夕焼けに焼かれながら、わずかに微笑む。彼の髪の先が光に溶け、細い指に鉄が食い込んでいた。


その姿は、宗教画の少年のように美しかった。


須崎すざきくん。なんでテロリズムが存在すると思う?」


風がやみ、鳥の声も人のざわめきも消えた。


テロリズム——。

須崎にとっては毎朝の報告書で見慣れた、温度のない語彙だった。

しかし、彼は何も言わなかった。

何を答えても、この男の前では誤りにしかならない。


香山は金網越しに、地上で右往左往する人間を眺めている。

沈黙する須崎の代わりに、彼が自ら答えた。


「みんな——他人を使って、他人に害をなして、自分の存在を他人に認めさせようとする。

君も、そうでしょ。僕の人生を踏み荒らして、僕を吊し上げる事で、君は自分の人生の価値を証明しようとしてる」


香山は振り向いて、須崎に微笑んだ。

その仕草は、神の慈しみにも、処刑台を前にして恐怖で笑っている人間のようにも見えた。


「僕も須崎くんを使って、最後に——生きた証を残してもいいかな」


香山は金網にかけていた手をおろし、ゆっくりと須崎に歩み寄る。

風が彼の髪をさらった。

近づくほどに、彼の香りが濃くなる。


「規模が違うだけなんだ。テロも愛も行動原理は同じ。違うのは、自己顕示に使われるのが不特定多数か、1人か——。

僕たち全員、誰かの自己顕示のために産まれてきた」


香山はそのまま須崎に身を寄せた。スーツのジャケットが擦れ合う。彼が須崎の頬に手を伸ばした次の瞬間、須崎の呼吸は止まる。


柔らかい唇が触れていた。

ぬるい温度で、すべての思考が焼き切れる。


しばらくして、名残り惜しそうに香山は唇を離した。須崎の頬を手のひらで包んだまま、目を細めて囁く。


「ね? 自己顕示って“迷惑”どころじゃないでしょ?ほとんどが、境界侵犯であって他害なんだ。

でも、人間——他人を利用してでしか、自分の存在を確かめられない」


彼はそのまま、唇の跡を確かめるように、親指でなぞった。 


「君は僕のことを、汚らわしい動物のような目で見てるけど、僕は君が好きだよ。

君は、好きでもない同性の上司に、好意を押し付けられて。怖い? 気持ち悪い?」


香山は鼻を鳴らして続ける。


「ねぇ、なんで好意って良い感情だって教えられるのに、こうして押し付けられると怖いんだろうね?」


世のことわりを理解できない二十八歳の美しい男は、警察庁の最前線でこの国を守る官僚だった。

そして彼には、十四歳の”隠し子”がいた。


「僕は普通の人に比べて、記憶力も良いし、理解力も高い。けれど、普通の人達が体感で理解してる事の多くを、僕はいまだに理解できてないんだ」


彼は昔——高潔と美を授かり、才で人を黙らせ、神童とたたえられていた。

だが、十四歳で、彼は自らその神性を穢した。


「須崎くん。僕を暴いても、僕を軽蔑しても、君は神にはなれないんだよ。

だって......君は堕ちた僕を見て安心してる大衆でしょ?」


彼は”感情に対する理解”だけが、十四歳で止まっていた。

陽は、そんな彼のすべてを還すように沈み、あたりは静かにかげってゆく。

生も死も、光と影のあわいに溶けていった。

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