第3話 コウノスケ

 今日は「夜の日」だった。


 人間の年にすればもうとうに米寿は迎えているらしい。私の歳をずいぶんと前に通り越してしまっている。この真っ黒な犬の、同じく真っ黒だった鼻もいつのまにか、かすれ、粉っぽい白さになっていった。


 歳をとると体のリズムがずれてしまう事があるが、犬にも同じ事が起こるようだ。どういう塩梅か、この犬のリズムはおかしなもので、たいていは餌もろくに食わず日がな一日中寝そべって睡眠をむさぼり、起き上がろうともしないのだが、二日に一度だけのそっと立ち上がると散歩へ出かけようとする。

  しかもそれが、昼のときと夜のときが交互に訪れる。まったくもって理解に苦しむが、犬のほうは至極当然のように扉の前で散歩の催促をする。私としても夜中に起こされるのは最初の頃はつらかったが、犬の散歩に付き合わされるうちに、自然と体にしみこむようになった。

 今では「夜の日」には必ず散歩に行かないと私のほうが寝付けないようになってしまったくらいだ。今夜も、むしろ私のほうが早く散歩をせがまないかと首を長くしていた。


 首輪に古びた綱を繋げると私と犬は寒空の下、乾いたアスファルトを踏みしめた。冷え冷えとした空気に負けてコートの前をしっかりと繋ぎ合わせると、ふと、今日はいつもと違う道を通ろうという気になった。



 この犬を連れてきてのは亡き妻だった。ある夏の日、私がもはや定年間近で仕事らしい仕事もなくなり、夕暮れ過ぎに家の玄関をくぐると、突然、黒い塊が押し寄せてきた。それは真っ黒なラブラドールの子犬だった。

 子犬らしいあふれんばかりのエネルギーを私のテロテロのグレーのスーツに押し付けては離れてを繰り返した。私はしばし、突然この珍客が現れた理由を思案したが、玄関先に放ってあった真新しい赤の太い綱やら、銀色の分厚い皿やら、「ワンワン」と書かれたドックフードを見て合点がいった。

 玄関先に現れた妻は「ごめんなさいね」と小さく弁明すると恥ずかしそうに語った。


 ずいぶんと前から、犬を飼いたいと思っていたが妻はなぜか今まで私に切り出せずにいた事。今日たまたま駅前で通りかかったペットショップで衝動的に買ってしまった事。もう30年以上連れ添った妻だったが、私の記憶では衝動買いをした事も「欲しい」ものを買った事も、後にも先にもこの犬以外なかったように思う。

「言ってくれれば良かったのに」

 私が目の前で飛び跳ねる子犬を眺めて呟くと、妻は「でもかわいいでしょ」と子犬を引き寄せて彼女の細い目がなくなるほど笑顔を浮かべた。

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