第7話 鏡の中の殺人事件
探偵は窓辺に立ち、消えゆく街を眺めていた。
硝子がいなくなってから一日が過ぎた。手帳に残された彼女の最後のメッセージが、彼の心に重くのしかかっている。「本物の硝子を救う」—その言葉が彼の新たな目標となっていた。
自分の体を見ると、右半身は完全に透明で、左半身も徐々に透明化が進んでいた。時間がないことは明らかだった。
「もう一度、鏡の世界に行かなければ」
探偵は独り言を呟いた。硝子の助けなしで、鏡の世界に行けるのかという不安があったが、試みるしかなかった。前回、琴音博士の診療所にあった装置を使えば可能かもしれない。
事務所を出た探偵は、急いで診療所へと向かった。街の崩壊はさらに進み、建物はほとんど透明になり、道路は歩くたびに揺れ動いた。まるで実体のない幻の上を歩いているようだった。
診療所に到着すると、建物はかろうじて形を留めていた。探偵は慎重に中に入り、三階へと上った。研究室のドアを開けると、鏡像観測装置は前回のままそこにあった。
「どうやって起動するんだ...」
探偵はパネルを調べた。硝子が操作していたときの記憶を頼りに、いくつかのスイッチを試してみる。最初は反応がなかったが、ある組み合わせを試したとき、装置が低いハミング音を立てて動き始めた。
「よし」
探偵はカプセルに横になった。前回と同じように青白い光が内部に満ち始め、彼の意識が遠のいていく感覚があった。
「硝子...」
彼は瞳を閉じた。その名前を呼びながら、彼は闇の中へと沈んでいった。
* * *
鏡の世界の玻璃の街。今回は市庁舎の前に立っていた。空は曇り、雨が降りそうな雰囲気だった。街は前回と同じく活気に満ちていたが、人々の表情はどこか緊張しているように見えた。
探偵は自分の体を確認した。前回同様、半透明だったが、自分を見ることができた。しかし今回は、硝子がいない。独りで鏡の世界に来たのは初めてだった。
「琴音博士のところへ行こう」彼は決意した。「彼女なら俺の姿が見える」
探偵は診療所へと向かった。途中、街の様子を注意深く観察する。新聞スタンドを通りかかると、大きな見出しが目に入った。
「連続消失事件、七人目の被害者」
日付を確認すると、一ヶ月と少し前だった。最後の被害者が消えた直後の記事だ。探偵は立ち止まり、記事をじっくり読んだ。七人目の被害者の名前は「伊藤直子」。市美術館の学芸員だった。
「七人目...」探偵は眉をひそめた。「本物の硝子じゃない...」
記事には被害者たちの共通点について書かれていた。全員が「鏡」に関わる職業や趣味を持っていたこと。そして「消失」の前に体が透明になり始めたという目撃証言があること。
「それで俺の体も...」探偵は自分の半透明の姿を見つめた。
診療所に着くと、前回と同じく受付に女性が座っていた。彼女を無視して、探偵は三階へと向かった。
研究室のドアをノックすると、中から琴音博士の声が聞こえた。「どうぞ」
探偵がドアを開けると、博士は驚いた表情を浮かべた。「あなた...また来たのですね」
「助けてください、博士」探偵は真剣な表情で言った。「事件の真相を知る必要があります」
博士は立ち上がり、ドアを閉めた。「あなたの世界ではどうなっているの?」
「街はほとんど消えました」探偵は報告した。「そして、硝子も消えました」
「硝子?」博士は首を傾げた。「街の記憶から生まれた存在ですか?」
「ええ」探偵はうなずいた。「彼女は私に真実の一部を見せてくれました。双子の兄が事件の犯人だということも」
博士は深刻な表情になった。「あなたの記憶は戻りつつありますね」
「はい、でもまだ核心部分が見えない」探偵は焦りを隠せなかった。「事件のファイルを見せてもらえませんか?警察の記録、証拠...何でも」
博士は迷った様子だったが、やがてうなずいた。「私には警察とのコネクションがあります。あなたについての研究のために、事件ファイルへのアクセス権を得ているんです」
彼女はデスクの引き出しから鍵を取り出し、書棚の奥にある金庫を開けた。中からいくつかのファイルを取り出す。
「これが連続消失事件の全記録です」博士はファイルを机に広げた。「被害者全員の詳細な情報、証拠写真、目撃証言...すべてあります」
探偵は急いでファイルを開いた。そこには七人の被害者についての詳細な記録があった。
第一の被害者:高山誠一(58歳)、メルヘン時計店の店主
第二の被害者:佐藤美代子(42歳)、市美術館の学芸員
第三の被害者:田中健太(35歳)、カメラマン
第四の被害者:小林正義(67歳)、古美術商
第五の被害者:山本優子(29歳)、宝石店店員
第六の被害者:川村拓也(31歳)、ガラス工芸家
第七の被害者:伊藤直子(39歳)、市美術館の学芸員
「全員が『鏡』や『反射』に関わる職業...」探偵は呟いた。
「そう」博士がうなずいた。「それが最初に発見された共通点でした。しかし、それだけではないんです」
「どういうことですか?」
「これを見てください」博士は別のファイルを開いた。そこには被害者たちの写真と、何かの図形が描かれていた。「これは被害者たちが消えた場所を地図上にプロットしたものです」
七つの点が、特定のパターンを形成していた。まるで星座のように。
「これは...」探偵は図形をじっくり見た。「何かの印?」
「そう思います」博士は説明した。「犯人は計画的に被害者を選んでいた。場所にも意味があったんです」
探偵はファイルをさらに調べた。そして、被害者たちの消失の瞬間を捉えたとされる写真を見つけた。ぼやけているが、確かに人の姿が透明になっていく様子が写っていた。その体はまるでガラスのように光を屈折させながら消えていく。
「これが...消失の過程」探偵は息を呑んだ。
「そう」博士は静かに言った。「被害者たちは皆、同じ方法で消えました。まず体が透明になり始め、最終的には完全に姿を消す。残されたのは...」
「鏡の破片」探偵が言葉を継いだ。
「正確には、三角形の鏡の破片」博士は補足した。「すべての現場で同じものが見つかっています」
「なぜ兄はこんなことを...」探偵は頭を抱えた。
博士は探偵をじっと見つめた。「あなたは本当に覚えていないんですね。あなたと双子の兄、鏡也さんの関係を」
「鏡也...」探偵はその名前を口にした瞬間、頭に鋭い痛みが走った。名前は知っているが、記憶はまだ完全には戻っていなかった。
「私が知る限り」博士は慎重に言葉を選びながら続けた。「あなた方兄弟は、かつては協力して探偵をしていました。『鏡の双子探偵』として有名だったんです。しかし、七年前に何かが起きて...」
「七年前?」
「はい。詳細は知りませんが、あなた方は別々の道を選びました。あなたは普通の探偵として仕事を続け、鏡也さんは...『鏡の研究』に没頭したと聞いています」
探偵は黙って頭の中で情報を整理した。双子の兄、鏡也。七年前の出来事。そして鏡の研究...すべてが少しずつ繋がり始めていた。
「では、本物の硝子は?」探偵は尋ねた。「彼女と私はどういう関係だったんですか?」
博士の表情が複雑になった。「硝子さんは...あなたの協力者であり、恋人でした。彼女もまた『鏡』に関する特別な知識を持っていたと聞いています」
「彼女は七人目の被害者じゃない」探偵は確認した。「では、彼女はどうなったんですか?」
博士は深いため息をついた。「それが最大の謎なんです。七人目の被害者が消えた直後、あなたと硝子さんも姿を消しました。そして、街全体が少しずつ『消え始めた』」
「赤い部屋で...」探偵は呟いた。「鏡に映った映像を見ました。鏡也が現れ、私と本物の硝子に鏡の破片を向けた。そして私たちは消えた...」
「そうだったんですか...」博士は驚いた様子だった。「それで街が消え始めたのね...」
探偵は立ち上がり、部屋の中を歩き回った。「でも、なぜ私だけがこの世界に戻ってきたのか?そして記憶もなく...」
「それについて、ひとつ理論があります」博士は慎重に言った。「鏡の破片の力は人を『消す』だけでなく、『分離』することもできるのではないか」
「分離?」
「はい。あなたの体と記憶が分離されたのかもしれません。この世界に戻ってきたのは、記憶のないあなた。そして、記憶を持ったあなたは...」
「鏡の世界に」探偵は言葉を継いだ。「だから鏡の世界では、私と本物の硝子が生きている」
「その可能性があります」博士はうなずいた。「しかし、それは仮説に過ぎません」
探偵はさらにファイルを調べた。そして、ある写真に目が止まった。それは市美術館で撮られた写真で、展示されていた『鏡の間の少女』という作品だった。
「これは...」探偵は写真を手に取った。
作品は鏡に囲まれた少女の姿を描いたもので、その少女は硝子によく似ていた。
「この作品には特別な意味があるのでしょうか?」博士が尋ねた。
「わからない...」探偵は写真をじっと見つめた。「でも、何か引っかかる」
探偵はさらに資料を調べた。そして、ある報告書に記された一節に目が留まった。
「被害者たちは皆、消失前に『鏡の中に閉じ込められたような感覚』を報告している。生存者の証言によれば、一部の被害者は消える直前に『鏡の向こうに何かを見た』と言っていたとのこと...」
「鏡の向こう...」探偵は深く考え込んだ。
ふと、探偵は胸に違和感を覚えた。かすかな痛みが心臓の辺りに広がっていく。彼はそれを無視して、さらに資料を調べ続けた。
「あと一つ」博士が言った。「これはあなたが書いた最後の報告書です」
博士は別のファイルを差し出した。そこには探偵自身の筆跡で書かれた文書があった。日付は、七人目の被害者が消失した前日になっていた。
探偵は緊張しながらファイルを開いた。そこには彼自身の文字で、事件についての考察が記されていた。
「連続消失事件の犯人は、『鏡の力』を操る能力を持っていると考えられる。被害者はすべて『鏡の世界』に引き込まれ、閉じ込められているのではないか。その目的は...」
その先の文字は薄れて読めなくなっていた。しかし、最後の一文だけがくっきりと残っていた。
「犯人は間違いなく、私の双子の兄、鏡也だ。彼が目指すのは『鏡の扉』の完全な開放。そのために、七つの鍵が必要なのだ...」
探偵は息を飲んだ。「七つの鍵...七人の被害者...」
「そうです」博士はうなずいた。「あなたはすでに事件の核心に迫っていたんです。鏡也さんは『鏡の扉』を開くために、七人の犠牲者を必要としていた」
「でも、なぜ?」探偵は混乱した。「鏡の扉を開いて何をするつもりだったんだ?」
博士は窓の外を見つめた。「それは...あなたしか知らないことかもしれません。あなたと鏡也さんの間には、私たちが知らない秘密があったのでしょう」
探偵の胸の痛みが強くなった。無視できないほどの痛みだ。彼は顔をしかめながらも、最後のページをめくった。
そこには一枚の古い写真が貼り付けられていた。子供の頃の探偵と鏡也だろう。二人は笑顔で肩を組み、カメラに向かって手を振っていた。写真の下には手書きのメモがあった。
「私たちの約束を忘れないで。鏡の向こうで待っている—鏡也」
「約束...」探偵は呟いた。その瞬間、胸の痛みが激しくなり、彼は苦痛に顔を歪めた。
「大丈夫ですか?」博士が心配そうに尋ねた。
「ああ...ただ胸が...」
探偵が言い終わる前に、部屋のドアが開いた。振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。
「琴音先生、例の資料が...」
男性は部屋に入りかけたところで、探偵を見て凍りついた。探偵も同様に驚愕した。
そこに立っていたのは、もう一人の自分—鏡の世界の探偵だった。
「あなたは...」鏡の世界の探偵が震える声で言った。
「私は...」
二人が見つめ合った瞬間、世界全体が揺れ始めた。建物が揺れ、窓ガラスがひび割れ、書類が宙に舞った。
「危険です!」琴音博士が叫んだ。「二人のあなたが接触してはいけない!」
探偵は立ち上がろうとしたが、激しい胸の痛みに膝をつき、倒れこんだ。
「胸が...苦しい...」
彼が胸を押さえると、心臓の位置から何かが突き出ていることに気がついた。透明な体の内側から、三角形の鏡の破片が突き出ていたのだ。
「これは...」探偵は恐怖に目を見開いた。
「鏡の破片!」博士が驚きの声を上げた。「あなたの体の中に...」
鏡の世界の探偵が部屋に飛び込んできた。「誰だ、お前は!なぜ俺の姿を...」
二人の距離が縮まるにつれ、探偵の胸から突き出た鏡の破片が強く光り始めた。同時に、世界の揺れはさらに激しくなった。
「離れて!」博士が叫んだ。「このままでは世界が崩壊する!」
鏡の世界の探偵はその場に立ち尽くし、混乱と恐怖の表情を浮かべていた。「お前は...死んだはずだ...」
「死んだ?」探偵は混乱した。「俺は...死んだのか?」
その瞬間、鏡の破片から眩い光が放たれた。光は部屋全体を包み込み、探偵の視界を白く染めた。彼は意識が遠のくのを感じた。
最後に見えたのは、鏡の世界の探偵の恐怖に満ちた表情と、何かを叫ぶ琴音博士の姿だった。そして—
* * *
「っ!」
探偵は激しい痛みと共に目を覚ました。鏡像観測装置のカプセルの中で、彼は身を起こそうとしたが、胸の痛みが彼を押し留めた。
「何が...」
彼はカプセルから這い出ると、自分の胸を見た。透明な右半身の心臓の位置に、確かに何かが埋まっていた。三角形の鏡の破片。その破片は内側から光を放ち、彼の透明な体を通して見えていた。
「だから俺は...死んでいないのか...」探偵は息を切らしながら呟いた。「鏡の破片が俺の体内にあった...」
彼は診療所を出て、よろめきながら事務所へと戻った。街はさらに消失が進み、ほとんど実体を失っていた。空は赤く染まり、建物は幽霊のような影だけになっていた。
事務所に戻ると、彼は疲れ果ててベッドに倒れこんだ。胸の痛みは続いていたが、先ほどほど強くはなかった。
「鏡也...七つの鍵...鏡の扉...」
彼の頭の中で、情報が少しずつ整理されていった。七人の被害者は「鍵」だった。彼らを消すことで、鏡也は「鏡の扉」を開こうとしていた。そして、その扉の先には...
「何があるんだ...?」
探偵は天井を見つめながら考えた。記憶は少しずつ戻りつつあったが、まだ核心部分が見えなかった。鏡也との「約束」。「鏡の扉」の目的。そして何より、本物の硝子の行方。
彼は疲労から目を閉じた。そのとき、かすかな声が聞こえた気がした。
「あなたの中に答えがある...」
それは硝子の声のようだった。しかし、彼女の姿はどこにもなかった。
探偵は胸の鏡の破片に手を当てた。痛みはあるが、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、これが自分と鏡の世界を繋ぐ鍵なのかもしれないという直感があった。
「次は...鏡也を見つけなければ」
そう決意して、彼は眠りに落ちた。胸の痛みと共に、彼の体はさらに透明になっていった。時間は刻々と過ぎ、街と共に彼も消えつつあった。
しかし、その心の奥には、探偵としての直感が確かに息づいていた。真相はもう遠くない。そして、本物の硝子を救う方法も—
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