今日は何して過ごそうか。
橘望海
2025年 4月2日(水)
福原綾乃、十七歳、今日から高校三年生だ。
朝、カーテンの隙間から差し込む陽光に目を細めながら体を起こし、眼鏡を装着。それから、顔を洗って歯を磨く。歯を磨いている間にキッチンに向かい、冷凍してある白米を電子レンジに放り込む。
電子レンジに呼ばれるまでの間に歯を磨き終え、再びキッチンへ。昨日の残りのお味噌汁を温め、ウインナーを塩コショウで炒める。サラダは適当にコンビニで買ったミックスサラダ。
そして外せないのは味付け海苔だ。これがなければ一日が始まらない。
「いただきます」
いただきますって誰かにご飯を作ってもらったときは何となく言わなければいけない気がするけれど、自分で作ったときは言う必要があるのだろうか。語源は知らない。多分、感謝の意で使われているのだと思う。
では今私が言ったいただきますは何に対しての感謝だろう。食材を作った人に対してだろうか。それとも食材そのものに対してだろうか。思考はどんどん遠くへ行って、言葉にはなっても上手く想像することはできなくなってしまう。
そんなことを考えているうちにお皿が全て空になる。
「ごちそうさまでした」
ごちそうさまって誰かにご飯を作ってもらったときには… いや、もう考えるのは止めよう。
自分の部屋に戻り、何週間かぶりの制服に着替え、軽く身なりを整えてから持ち物の確認をする。持ち物といっても今日は始業式とホームルームしかないから、必要なのは筆記用具くらいだ。
部屋を出て階段を下りると、ちょうどお母さんが起きてきた。
「おはよう」
「おはよう。行ってきます」
お母さんは寝起きがあまりよくない。今も目を擦って、片手で伸びをしながら口を動かしている。
「行ってらっはーい」
欠伸をしながら言うものだからまともに発音もできていないし、何だか気の抜ける行ってらっしゃいだ。
そんなゆるーい雰囲気が愛らしい。
「行ってきます」
もう一度、今度は少し頬を緩めながら、意識して穏やかな声で言う。
玄関で踵の少し削れた、そろそろ買い替え時かもしれないローファーを履く。外に出ると、犬と散歩をしている女性やランニング中の男性が目に入る。
道端には、少し前まで満面の笑みを見せてくれていた桜の花が痛々しく儚げに散っていて、心の中で「また来年会おうね」と願いに近い思いを唱えて歩き出す。
学校までの道のりには学生も沢山いる。私と同じ制服を着た人、違う制服を着た人、高校生なのか中学生なのか見ただけではわからないことも多い。
この人たちは今日という日をどんな思いで生きているのだろうか。
新しい環境に対しての期待や不安、クラス替えで仲の良い友達や想い人と同じクラスになれるかそわそわした気持ち、もしかしたら何も考えていないってことも。
肝心の私の気持ちはどうかって…
正直不安しかない。
そうは言っても友達なんていないものだから、誰かと一緒になりたいって気持ちはない。気になるのはクラスの雰囲気とか、担任の先生は誰かとかだ。
特に今年は受験生なわけだから、落ち着いたクラスで担任の先生も進路の話に熱心になってくれる先生がいい。
勉強はそれなりにしているけれど将来何になりたいのかはまだわからないし、進路についても何か目標があるわけじゃない。今のうちからなりたいものが明確に決まっていて、それに向かって一生懸命努力している人なんてほとんどいないような気がする。
勉強して偏差値の高い大学に入りたいという人の中にもほとんどいないのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。
何かになりたいと思うときが来るのか分からないし、仮に来たとしてそれが何なのかは想像もつかない。だからこそ選べる択を多くするために勉強をしているのだと思う。
何かになりたいと思えた時、後悔しないように。
晴れた青空に浮かぶ散り散りの雲が気流に身を任せて動いている様を、自分に重ねながら自らの未来に思いを馳せる。
いつもこんなことを考えているわけではないけれど、今日という節目の日がこんなことを私に考えさせる。
家を出てから十五分ほど歩くと学校に着く。
昇降口にいる先生から新クラスの名簿を受け取り、自分のクラスを確認しながら上履きに履き替える。
周りの生徒の感嘆や落胆の声々を聞き流しながら、私は新しいクラスである三年六組の教室へと向かう。
黒板には「席は後でくじ引きで決めるので、とりあえず適当に座ってよし」と大きく綺麗な字で書いてある。これに従い、空いている席に腰を下ろす。
話をする相手もいないので、ラノベの続きを読み始める。表紙には、風にサラサラの黒髪ロングをなびかせながら教室の外を眺めている美人が描かれている。いわゆる表紙買いというやつだったと思う。
内容も好みの物だったので集中して読んでいたが、チャイムに意識を奪われるのと同時に一人の先生が入って来た。
橋本柚子、通称ゆず先生、美人。
担当教科はコミュニケーション英語で、今年から三年六組の担任、つまりは私の担任ということになる。
今まで授業を受けたことはないし、担任されたこともないので印象があまりない。
生徒との距離は比較的近く、タメ口で話す生徒がいても咎めることはない。
一年間よろしくと言う旨の軽い挨拶の後、始業式に参加するべく体育館へ。
始業式と言っても先生方の長くて退屈なテンプレートのようなお話があるだけだ。
そんな話を右から左に流していると、あっという間に始業式は終わる。
教室に戻ってからは黒板に書いてあった通り席替えが始まった。小さな紙を適当に引いて書いてある数字を確認して、対応する席へ移動する。
窓際の一番後ろ、主人公席だ。主人公なのは席だけで、当の本人は授業を結構真面目に受けるタイプだからそれほど嬉しくはない。
席替えが終わると自己紹介と言う地獄が待っていると思っていたけれど、そういうのを面倒臭がる先生らしく「自分たちで好きに、仲良くやってくれ」だそうだ。
そんなこんなでホームルームもあっという間に終了。こういう所が生徒に人気な理由なのだろうか。学生は皆、話の長い先生は好きではないだろうから。
水を得た魚のように、暇を持て余した生徒たちが教室を飛び出していく。
暇を持て余しているのは私も同じだ。
空っぽになった教室で一人、ラノベの続きを読み終えてから帰ろうと鞄から本を取り出す。
読み始めてから数分、あることに気が付く。
教室には私ではないもう一人の生徒が残っている。しかも隣の席だ。何ならこっちをずっと見ている。とても気になる。気になるけれど自分から話しかける勇気はない。
だからと言ってこのまま見つめられたままでは気になって読書に集中できないので、仕方なく勇気を振り絞って声を掛けてみる。
「なんでさっきからこっち見てるんですか?」
勇気を出して話しかけたのに、すぐに反応がない。
「あのー」
もう一度、今度は顔を見ながら声を掛けてみたのだけれど…
初めて見る女の子の顔に、心臓が止まるかと思うくらいには驚いた。
今私が読んでいるラノベの表紙に描かれた美少女。その美少女が目の前にいる。正確にはその美少女にそっくりの美少女だ。
私の心臓が止まりそうになっている間、彼女はゆっくりと瞬きしていて三回目の瞬きを終えて目が開いたあと、ようやく口の方が開く。
「あなたを見ていたというよりは、あなたの席を見ていたっていう方が正しいかな」
すごく穏やかでどことなく無気力な声。澄んでいてゆっくりと話すものだから、ずっと話していると眠ってしまいそうだ。マイナスイオン的な何かが出ているような。
「席? なんで?」
頭に浮かんだ疑問をそのまま投げかけてみると、今度はすぐに答えてくれる。
「その席、羨ましいなーって」
主人公席が羨ましいということか。特別この席がいい理由は私にはない。
「席、交換します?」
橋本先生が言っていたことを思い出す。
『視力が悪いとか、黒板が見えづらいとか、まあそういう正当な理由であれば席の交換は自由とする。もちろんお互いの了承が絶対条件ね。何か問題があれば私に相談すること』
黒板が見えにくい私が彼女と席を交換するのは問題ないはずだ。
「いいの?」
「いいですけど、どうしてこの席がいいんですか?」
席のことはどうでもいいが、この席がいい理由は少し気になるのだ。
少し考える素振りを見せてから彼女は答える。
「風が気持ちいいし、外が良く見える。それに主人公席ってちょっと憧れるし」
割と想像通りの答えだけど、彼女の外見からは想像がつきにくい答えでもある。
「私も一つ訊いていい?」
なんだろうと少し及び腰になりながら首を縦に振る。
「みんなはすぐに帰って友達と遊んでいるのに、あなたはどうして帰らないの?」
なんだかすごくトゲのある言葉だけれど、悪気があるようには見えない。私もそんなことで憤りはしない。
「本の続きが気になってて、読み終わってから帰ろうと思ってたんですよ」
本当のことを答えたけれど、彼女は首を傾げてさらに問うてくる。
「家で読めば良くない?」
まあ、もっともな言い分だ。でも、教室で読む理由がないわけではない。
「誰もいない学校とか教室の雰囲気が好きなんですよ。いつもは喧騒にまみれた場所が、同じ場所のはずなのに壊れたように静かになる。その感じがたまらなく好きで」
ちょっと語りすぎたなと後悔していると、またしても彼女は首を傾げる。
今度は何だ…
「私がいるけど…」
「え?」
「私がいるから誰もいなくないよ?」
こういうのを天然と言うのだろうか。
それに細かくて分かり辛いけど確かに変わっている表情とか、首を傾げる仕草とか、天然なところとか…
美人なのに可愛らしい人だな、なんて思ってしまった。
「静かだったから、勘違いしちゃったんですよ」
「そっか」
何とか納得してくれたようだけど、やっぱり表情の変化は乏しく見える。
「名前、教えてくれる?」
いつもクラス替えの後は誰からも決まって名前を聞かれていた。
クラス全員で自己紹介はしたはずなのにね。
私だって一回の自己紹介で全員の名前を覚えるのは無理だけど、誰ひとり私のことを覚えていないのだ。印象に残らないということだろう。
でも今回はそれとは違う。そもそも自己紹介をしていない。それだけではなくて、聞かれたときの申し訳なさみたいなものがなかった。
相手からも、自分からも。だからこそ明るい気持ちで名前を言う。
「福原綾乃です。一年間、よろしくお願いします」
「あやの… あやの… うん、頑張って覚えるね」
人の名前を覚えるのが苦手なんだろうか。
出会って間もないのに、っぽいなと思わせてしまう雰囲気が彼女にはある。
「私にも、名前を教えてくれますか?」
「和泉零」
とても綺麗な名前だと思う。その名前に負けず劣らずの容姿も彼女は持っている。
「和泉さんですね。私もしっかり覚えますから」
「うん。…あやの、よろしくね」
そう言うと、和泉さんは立ち上がって教室を後にする。
望み通り教室に一人で取り残されたのに、すっかり本を読む気はなくなってしまった。和泉さんが教室を出てから少しして、私も教室を出て外から誰もいない教室を見る。
真に空っぽになった教室には静けさと寂しさと名残惜しさが充満しているようだった。
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