第6話
この世の人類が、
対立する二極の枠組みに分類されるとしたら、
トマと私は同じ枠組みには居られないのだろう。
そんなことは今まで考えたこともなかったが、彼といると私は、お互いが絶対に交わることない別の世界で生きているように思えてくる。
そして、その二極の枠組みに居るもの同士は互いが互いに興味を持ってはいるものの、ひとたび対極へ行こうものなら、どうにもこうにも当てはまらないパズルのピースのように、きっちりと収まった他のピースの上をいつまでも彷徨いつづけるしかないのである。
それは例えば、彼が男で私が女であるように、彼が日なら私は月である。
彼が前なら私は後ろで、
彼が白なら私は黒だ。
彼は夏の暑い季節に生まれ、私は冬の寒い季節に生まれた。
彼が雲一つない青空ならば、私は低く重い雲に覆われた雨空だ。
そして、彼はフランス人で、私は日本人だ。
周りから見れば一目瞭然、あの人は対極から来た人なのだと。
別にだからと言ってそんなことは何の意味も持たないではないか。
何を気にする必要があるのか、と自分自身に言い聞かせても、そんなことを考えずにはいられない自分はやはりここに居るべきではないように思えて仕方がない。
「道子、大丈夫?」
とトマが私の肩をさすった。
「え、何が?」
「うん、何でもない。大丈夫なら良いんだ」
皆が盛り上がって会話している横で、私がずっと一人無言でポテトチップスをむさぼり食べているから、トマが心配して声をかけてくれたのだと知っていたが、可愛げ無い返事で平気な素振りをした。
彼が時々私に話を振ってくれたり、分かりやすいフランス語で、彼らの会話の内容を説明してくれるのは、トマの優しさなのだとわかっていても、私にとっては正直何が面白くてそこまで盛り上がっているのか、まるで分からなかった。
だからむしろ私の事は放っておいてくれ、とさえ思っていた。
どんなリアクションをとるのが正解なのか、頭の中ではそんなどうでも良いことばかり考えた。
この正解でも不正解でもない笑顔も長くは続けられまい。
こんなふうに必死で繕っている自分にまでも苛立ち、今までのストレスが全て湧き上がって、爆発しそうだった。
全部ここにあるものを片っ端から潰してやりたい、そんな衝動に駆り立てられる。
頭の中は灰色のもやで完全に埋め尽くされてしまった。
アクセルのお手製ピザを食べ終わると、帰る頃には深夜0時を過ぎていた。
アパートを出ると妙な解放感があり、冬の夜の凍てつくような寒ささえも気持ち良く感じた。外のレストランやバーの灯りが私の知らない街の一面を見せている。
「たしか今週末は居ないんだよね?」
帰り道に車の中で私は食事会での会話を確認するようにトマを見た。
「うん、でも僕が居ないのは土曜日だけだよ。それに早朝に出て夕方六時頃には帰ってくるから」
私を一人にすることが後ろめたいのか、彼の言葉は長く留守にするわけではないことを強調しているように、少し言い訳めいて聞こえた。
「そう……わかった。でも土曜日は一緒に中心街に出掛けたかったな。日曜はどこも店が開いていないでしょう。出産の時に必要なものとかそろそろ揃えたかったのに」
「それはまだ早いって。買い物は来週でも間に合うから」
そう言いながら、ハンドルを握るもう片方の右手で、トマは私の手の甲を軽く撫でてから握った。
私は上手く彼の予定通りに、彼の思うままに丸め込まれているような気持ちがして不快だった。
そしてそれが、彼に対する苛立ちに一変した。
「早くなんかないわよ。検診の時に言われたじゃない」
何でもいいから彼の言う事に反論して、鬱憤を晴らしたくなった。
その鬱憤はどこから来ているのか、自分でもよくわからない。
私の周りの、ありとあらゆるところに引かれた境界線に対してなのか。
それとも私はまるで囚人にでもなったかのように、言葉や文化、生活のストレスでがんじがらめに苦しめられているにもかかわらず、彼は自由に、楽しそうに、人生を謳歌して見えるという、いわゆる彼に対する嫉妬心なのかもしれない。
「病院の人はそう前もって言うものだよ。実際予定日までに揃えば心配無いって」
トマは冷静に返したが、どこか面倒くさそうな表情をしたように見えた。
その顔を見て私の怒りはさらに込み上がった。
彼に対して言いたいことがいくらでも浮かんだが、それより先に身体の奥底から溜め息が出た。
食事会の気疲れだろうか。
それとも今まで蓄積された異国での生活のストレスのせいか。おそらくその両方なのだろう。
どうしても買い物に行きたかったわけではない。
それに、今更彼が土曜日の予定を取り止めてくれるとも考えていない。
それでも何かが違う。
返ってきた彼の言葉は、私の中で不正解なのだ。行き場をなくしたこのどうしようもなく、むしゃくしゃする感情はどうしたら収まるのだろう。
トマにもこの溜め息は聞こえていたはずだ。
しかし彼は何も言わずに握っていた私の手をそっと離しただけだった。
私の不機嫌を察知したからだとすぐに分かった。
車内のFMラジオから流れるパーソナリティーの声が、やけに耳障りだった。
妙にリズミカルに滑舌よく話すその人の声は、この街に、この国に、馴染めない今の私を嘲笑しているかのように聞こえる。
今はどんな形でもフランス語を耳にしたくない。
これほどまでに言語に対して嫌悪感を感じたことは今までになかった。
その嫌悪感は自分のコンプレックスの塊でできている。
そんなことは自分自身でもよく分かっている。
思い通りにフランス語を話せない愚かさ、外国の文化に馴染めない順応性の低さ、そして人間関係を上手く構築することができない社会性の無さ、その全てのコンプレックスが黒い塊となって私をフランス社会から遠ざけようとする。
すると、この国も人も言語も、全てが憎たらしく、「嫌い」という、そのひと言では表せない激しい憎悪が私の胸の奥から込み上げてくる。
自分がどうにかなりそうで、すぐに私は無言で車のラジオを切った。
トマは何も言わなかった。
静まり返った車内。
私は深呼吸とともに目を閉じて、この苛立ちが通り過ぎるのを待った。
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