日本人のキミと、フランス人のあなた

仁生 凡

第1話



「ねえ道子、寝てるの?」


トマの声ではっとして、一瞬思考が停止した。



薄暗い車内から、見慣れた大型ホテルチェーンやスーパーマーケット、ホームセンターの建物や看板が次々と目に飛び込み、夢を見ていたのだと気付かされた。



「ごめん、ちょっとうとうとしてた」


私は乱れた髪をさっと手で整えながら彼に目を向けた。



「で、今日だけどまた食事会、道子も行くよね」


そう言いながら彼は助手席の私を一瞥した。



「うん。じゃあ、ワイン二本買って行こうか」



カーナビに表示された時計に目をやると、ちょうど午後五時になるところだった。



 その日は月に二度ある妊婦検診の帰り道だった。


いつもの長い待ち時間に加え、広い病院キャンパス内を大きなお腹を抱え歩き続けたこともあって、私はすっかり疲れ切っていた。



 リヨン市で一番の総病床数を誇る総合病院に設置されたその産科では、


 受付は本棟二階、

 担当医のいる診察室は産科病棟の四階、

 支払いは再び本棟二階、


という具合に、やたら広い病院内を歩き回る必要があった。



時計を見ながらかれこれ二時間も病院にいたのか、と頭の中で検診の予約時間を差し引いて驚いた。


出来れば家でひと休みしたいと思っていたが、そんな時間もなさそうだ。



「今夜はアクセルの家で集まるから」


とトマが嬉しそうに言って、車のラジオから流れるロックミュージックに乗せて、陽気に口笛を吹き始めた。


いつになくテンションの高いトマを見ていると、それに反して私の心は深い水の底に沈んでいくように重くなった。



 金曜の夜は決まって彼が通うクライミングクラブの集まりが開かれる。


とは言っても、特に親しくしている仲間内だけで連絡を取り合い、その中の誰かの家に集まって夕飯を共にし、夜更けまで飲み語りあうというものだ。


(食事会というよりは、もっと質素で粗雑なもので、たむろするとでも言った方がぴったりではないかと私は思う)



 クラブ全体の年齢層は老若男女幅広い、ということはトマから以前聞いたことがあった。


しかし、この食事会に集まるのは大体三十代前半のちょうど私と同年代であろうメンバーばかりである。


(来年四十を迎えるトマはこの集まりのおそらく最年長なのだろう)



中にカップルらしきメンバーが二、三組いて、私とトマもそのうちの一組だ。



     ◯

      


 私がまだ留学生として語学学校に通っていた頃、お金がない私はインターネットで見つけた物件情報専門の掲示板にある一つの投稿に目が止まった。




「間貸し、家賃 450 ユーロ/月、メトロA線グラッテシエル駅徒歩 10 分」



それだけ書かれた投稿には、五、六枚のアパート内部の写真と投稿者の連絡先が添付されていた。



 その当時、私が住んでいたのはシャワー・トイレ共同の三畳一間の学生寮だった。



部屋に入るとすぐ脇に小型の洗面所があり、そのすぐ奥にはシングルベッド、さらに奥の窓際には勉強机が置かれた、今までに見たこともないほど狭い部屋だった。



共同スペースの清掃は月に数回されるだけで、決して清潔とは言える環境ではなかったし、換気設備やエアコンなどは無く、冬は極寒、夏は激暑、一言で言えばそこは外国映画でよく見るような刑務所のようなところであった。



その学生寮に 400 ユーロ/月を支払っていたわけだから、私には他のどんな物件でさえも、とても魅力的に映った。


 

 家賃が良心的なことに心を掴まれ、添付されたアパート内部の写真を確認程度に流すように見て、今すぐにでも引っ越したいと惹き込まれるように投稿者に連絡していた。


それから三日後には部屋の内見に向かっていた。




 その物件の家主がトマであった。



 アパートはリヨン郊外にあるグラン・クレモン広場近くにあり、スーパーや教会、動物病院が並んだ大通りから枝分かれしたように抜ける車通りの少ない通りにあった。



「アラゴ通り」


そこは四階建てのアパートがいくつも建ち並んでいて、道路を挟ん向かいは中学校の校庭が広がっていた。


その中の薄汚れたクリーム色の壁をした建物の二階がトマのアパートだった。



 五十平米ほどのこじんまりとしたアパートで、北側に玄関があり、入ってすぐのキッチンとリビングスペースの間を抜けると奥には寝室が二部屋横並びにある、無駄のないシンプルな間取りをした家だった。


写真からイメージした通りの家で、すぐに気に入った。



 トマは家賃交渉にも応じてくれ、私は格安で二部屋のうちの東側に窓がある一室を借りさせてもらえることになった。


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