第7話 彼方へ歩みを

「これでいいかな」


 ミーラの声に私は振り返る。次いで、想定していた高さから少し視線を上げた。

 私の背後に立っていたのは、もはやみどりに輝くを巻いた半蛇ではなく。

 すらりとした長身が目立つ、美しい人間の若者だった。


  ***


 森の中の小屋から衣類をいただいたあと、私たちは急いでその場を離れた。東の空が薄白くなり始めたころ、少し離れたところから煙が見えた。おそらくは国境の村だろう。あの近くに関所があり、それを越えれば隣国マーニカの領地だ。


「ミーラ。人間の姿になれるかどうか、このあたりで試した方がいいかも」

「国境が近いのかな?」

「ええ。私も着替えるわ」


 このあたりでは大きな岩がいくつか地面から迫り出している。衝立代わりにできそうだった。


「私はこの陰で着替えるから、あなたはそっちね。人間の衣の着付け方は分かる?」


 そう尋ねると、ミーラはきょとんと首を傾げた。これはダメそうだ。


「ええと……簡単なやり方を教えるわね。腰で結んだら、こっちの端を脚の間に通すの。それから、こうやって畳んでひだを作って……」


 今着ているものの上から私が手本を示すのをミーラはじっと見つめていた。彼の瞳は人間のそれだが、真顔になるとどこか蛇のようにも見える。接すれば接するほど不思議な存在だった。


「……こんな感じ。できそう?」

「うん。だいたい分かった」


 小さく微笑んで頷くミーラに、本当かなあ、と思う。

 ――だが、実際に人の姿になって岩陰から出てきたミーラの着付けには、非の打ちどころがなかった。


「すごい。ひだがちゃんときれいにできてる。これ、最初は難しいのよ」

「そうなんだ。見たら分かったけど」

「ナーガって覚えが早いのね。――というか、ちゃんと人間の姿になれたじゃない」


 私は改めて、二本の脚で立つミーラを見やる。背丈は私より頭ひとつぶん高いくらいだろうか。半蛇のときはいつも同じ位置で視線が合っていたが、今は海色の瞳がこちらを見下ろしてくる。なんだか少し心臓が跳ねて、思わず目を逸らした。

 そのとき、昇り始めた朝日に何かがきらりと光った。

 ミーラの腰布アンタリーヤの裾から、蛇の鱗が覗いているのだった。


「……ミーラ、これ」

「うん? ああ、これか」


 私が指さすと、彼はあっけらかんと言った。


「脚は生やせたけど、鱗は少し残ってしまって。ほとんど隠れるからいいよね」

「う、うーん……」


 関所の衛兵が果たして足元までじろじろ見るものだろうか。平民に身をやつして旅をするのなんて初めてだから分からない。

 これからの国境越えがにわかに不安になってきた。


 辺りがすっかり明るくなるころ、私たちは村に到着した。質屋を見つけ、金の腕輪をいくつか硬貨に変える。国境の村ということもあってか、質屋は特に疑義を挟むこともなく応対してくれた。

 手に入れた硬貨で靴を二足買い、無理なく運べる程度の携帯食料も手に入れた。金を多めに持っているのを見られて少しぼられた気がするが、仕方ない。

 最後に通りかかった店で、装飾用の硬貨をびっしりと縫いつけた長い帯を見かけた。手に取り、軽く振るってみる。しなりも悪くなく、重さも適当だった。少し考えてから購入し、腰に巻きつけておいた。


「こんなものかしらね。ミーラ、何かほしいものはある?」


 私が問うと、ミーラは微笑んでかぶりを振った。


「ううん。アムリタがいいなら、さっそく行こう。本当に国境を越えられるか確かめたい」

「……そうね」


 私もミーラに頷き返す。すでに周囲には背負しょいをかつぐ旅人や荷車を引く驢馬ろばの姿があった。その集団にまぎれるようにして、私たちは関所へ向かった。


 マハーヴァナとマーニカとの国境には、丸太を立てて連ねた柵が築かれている。その柵と街道が交差するところに大きな門が設けられており、衛兵が検問を行っていた。

 特にぴりついた雰囲気などはない。まあ、さすがに私が一昼夜で北西の国境へ移動したとはジャガトも思うまい。ミーラのおかげで数日の猶予が稼げたといってよいだろう。

 検問待ちの列におとなしく並んでいると、順番はすぐにやってきた。驢馬を引く男性を送り出した衛兵が手招く。私はミーラをちらりと見やり、囁いた。


「ここは任せてね」


 鱗のこともあり、あまり彼に注意を引かない方がよさそうだと思ってのことだ。

 彼は目をしばたたいたが、何も言わなかった。


「マーニカ入国の目的は?」


 歩み寄ってきた私たちを見やり、年の頃十七かそこらであろう衛兵が言う。私はにっこりと微笑んでみせた。


「ヒマーチャラにいる親戚の元へまいりますの」

「そうか」


 疑われなかったようだ。まあ、こちらとて嘘をついているわけではない。

 衛兵が私の顔を見つめ、次いでミーラを見やった。


「二人連れか。どのような関係だ?」

「姉と弟でございます」

「えっ」


 ミーラが声をこぼす。私は肘で彼の脇腹を小突いた。

 衛兵はだるそうに片眉を上げた。


「似ていないな」

「ふふ、私は父似、弟は母似なもので」

「へえ。いくつだ?」


 そういえばミーラの年齢を知らないが、ここは当たり障りのない回答をしておけばよい。だが私が口を開くより先に、ミーラが答えてしまった。


「百十八だけど」

「――ちょっと!」


 一瞬、本気で狼狽してしまう。見えないようにミーラの腕をつねりながら、なんとか笑顔を取り繕った。


「おほほ、この子ったら冗談が過ぎるんだから。この子が十八、私が十九ですわ」


 本当は私とて十八歳なのだが、口から出まかせを言ってしまったものは仕方がない。

 衛兵は至極妙な顔をしたが、あまり関わりたくないと思ってくれたらしい。二人分の通行料を要求し、それ以上は何も言わずに通してくれた。


 門を抜け、国境を踏み越える。そのあとに続いてミーラが足を踏み出した。


 ――何も起こらなかった。人の姿をした彼の体は、無事にマーニカ領へ入域していた。


「ミーラ、大丈夫?」


 関所からある程度遠ざかったところで私が囁きかけると、彼は静かな声で返してきた。


「国境を越えた瞬間、おかしな感じはしたよ。精霊としての力も、もう使えないと思う。――でも、それ以外の害はない。本当に呪いの隙を突けたみたいだ。ありがとう、アムリタ」

「……よかった」

 

 私はようやく息をついて振り返った。マハーヴァナの旗が遠くはためいているのが見えた。


 ――じり、と胃の底を燃やしたのは、怒りの炎。

 この瞬間に初めて点いたものではない。密やかに、しかし絶えることなく、私の中でゆらめいてきたもの。

 耐えねばと思っていた。抑え込まねばならぬと。逆に怒りを買わぬよう、微笑んでいなければならぬと。

 だけど今なら、この炎と真正面から向かい合えるような気がした。

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