お姫様にはかなわない

秋月ゆうみ

第1話 私のお姫様

 玄関にはいった瞬間、お酒のにおいが鼻についた。甘ったるくて、嗅いだだけで頭がくらくらした。


 部屋の扉をあけると、いつものようにひどい散らかりようだった。

 床は脱ぎすてられた洋服で埋めつくされていた。真っ白なワンピース、ベージュのチュールスカート、水色のシフォンブラウスが、無残にも床の上でしわくちゃになっている。


 奥のベッドには部屋の主が眠っていた。

美しい洋服でめちゃくちゃに散らかったお部屋のお姫様。

この日に着ていたのはピンク色のノースリーブワンピースだった。すそがまくれていて、マシュマロのように白くやわらかな肌がのぞいている。


 床にひざをついて彼女に近づくと、息苦しいほどの甘い香水のにおいと、その奥にかすかに彼女のにおいを感じた。

広い草原を思わせるようなさっぱりとしていて力強いにおい。私は鼻を近づけて嗅ごうとした。けれど香水が強くなるばかりで、彼女のにおいは感じとれなくなってしまった。


「ルミ、ルミ」

 肩を軽く揺らしながら声をかける。

深い眠りの中にいるのか、なかなか起きる気配がない。悪い夢でも見ているのか、眉間にしわを寄せている。

「ルミ、来たよ!」

瑠美の耳の近くで大きな声を出すと、体がぴくっと動いた。


うぅんと声がもれる。

うなされているようにも、子どもが母親に甘えるようにも、セックス中の吐息のようにも聞こえる、耳に残る声だった。


 瑠美は一度声をあげたきりで目をひらかなかった。

 瑠美のまぶたにはアイシャドウがのっていた。ベージュの細かいラメがきらめいている。アイラインは目のきわにそってまっすぐに引かれ、まつげは一本一本が長くきれいな上向きだった。


 眠っていても瑠美の顔は美しかった。

 何度も見ているのについ見てしまう。

 おとぎ話に出てくる王子様が一目惚れするのは、きっと瑠美みたいな子だ。


「化粧したまんまだよ。このままだと肌、荒れちゃうよ」

 私は王子様じゃないから、キスで瑠美を起こすことはできない。

「今月はカナトくんのバースデーなんでしょ。最強のビジュで行くって言ってたけどいいの?」

 彼女にとっての王子様の名前を出すと、瑠美は目をあけた。

私が名前を呼んでも起きなかったくせに。


「あ、エリ!」

 お酒の飲みすぎのせいか、瑠美の声はかすれていた。

「ルミ、お酒のにおいすごいよ。飲みすぎだって」

「わっ、サイアク。頭いたっ……」


 瑠美が顔をしかめる。手を頭に持ってきておさえつける仕草をすると、絹のように細くてなめらかな黒髪がくしゃっとなった。

 私は彼女の手を自分の手でつつむと、髪に絡まった指を一本ずつ離させた。それから頭を撫でて、あとがついてしまった部分を整えた。


「まってて。頭痛薬もってくるから」

 立ち上がって、棚から頭痛薬を取り出した。

 棚の中には他にも薬がはいっている。頭痛薬、風邪薬、トローチ、胃薬、それらは私が買いそろえたものだった。


 キッチンにはいると、冷蔵庫の中を確認した。ゼリー飲料、ヨーグルト、チーズ、大量の缶チューハイ。相変わらずのラインナップだった。


「ヨーグルトとゼリーならどっちがいい?」

 ベッドにいる瑠美に聞こえるように大きい声で呼びかけた。

「え、なにも食べたくないんだけど」

 うんざりとしたような声が返ってきた。

「お腹すいてるときに頭痛薬のむとよくないから」

「なんで?」

「わからないけど、空腹時はさけて服用してくださいって書いてあるし」

「おなかすいてなーい」

「お店行ってたんだよね。お酒ばっかりで、ごはん食べてないでしょう?」

「シャンパンでおなかいっぱいになったもん」

「それなら、胃の中になにかいれないと」

「うるさいなぁ! 私の体なんだからいいでしょ! さっさと薬もってきてよ」

 声が大きくなってとげとげしくなる。機嫌が悪くなりだした合図だ。


 瑠美は不機嫌になると手がつけられなくなって、部屋の中にあるものを投げつけてくる。枕や洋服ならまだいいが、リモコンや飲みかけのペットボトル、財布といった重たいものまで投げてくるから、ぶつかるといたい。


「わかったよ」

 頭痛薬一つで機嫌が悪くなられてはたまらない。


 瑠美の言う通りに、水をいれたコップと一緒に頭痛薬を持っていった。

「ありがと」

 上目遣いで見つめられながら天使のような笑顔を浮かべられると、もやもやした気持ちも吹き飛んでしまう。


「ね、エリ」

 瑠美が甘えるような声を出す。

「化粧おとして」

「これから洗濯しようと思ってたんだけど」

「こっちが先。お肌、荒れちゃう」

「洗面所でさっと落としてきちゃえば?」

「えぇ~、おきれない!」


 瑠美はベッドの上で手足をばたばたさせる。それができるなら洗面所に行く体力ぐらいあるだろうにと思いながら、私は洗面所に向かってしまう。棚からクレンジングオイルとコットンを取って瑠美のもとに戻った。


 オイルを染み込ませたコットンを顔に近づけると、瑠美は目を閉じた。

 瞼の上をこすると、アイラインとアイシャドウが落ちた。よごれたコットンは折り返して別の面を使うようにする。摩擦で肌を傷つけないよう、力を入れすぎないように気をつけた。


 ファンデーションを落としても、きめが細かい肌だった。

 私の化粧をした肌より、瑠美のすっぴんのほうがきれいだ。瑠美の生活リズムはめちゃくちゃで、私のほうが健康的な生活を送っているのに。

 美人は細胞からちがうのだろう。


「はい、できたよ」


 声をかけても瑠美は目をひらかない。唇から呼吸の音が聞こえてくる。

 どうやら眠りについたらしい。

 お姫様の美しい寝顔を目に焼きつけてから、床に落ちている洋服を拾って洗面所に向かった。

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