第9話 幕下力士 斉藤
勝ち越せば昇進、負ければ振り出し。
そんな世界にいると「未来」という言葉が遠く感じる。
番付は幕下九枚目。
斉藤陽介は、今場所六勝一敗で、幕下優勝決定戦に臨もうとしていた。
勝てば、幕下の頂点。
十両への道がひらく。
負ければ、また這い上がるだけ。
「あと一番、勝てば優勝やぞ。」
稽古場で親方が声をかけてくれた。
それに応じて軽く会釈するが、心の中はとっくに静まり返っていた。
斉藤は知っていた。
未来予報が禁止されている自分たちの世界の意味を。
プロのアスリート、とりわけ“勝敗”を扱う競技者にとって、未来予報は触れてはならないものだ。
いたずらに八百長の疑いを招くし、予報を頼れば勝ち負けの意味が変わってしまう。
未来庁も、競技結果や勝敗に関しては一切の予報提供を行わない。
土俵の上の未来は、現代においても誰も知ることができない。
「明日の一番…どうだ。」
風呂あがりに、同じ部屋で寝起きする兄弟子が話しかけてきた。
「予報、見られたらなあって。思うか?」
斉藤はタオルで髪を拭きながら、静かに答えた。
「楽になるからって、見ていいもんでもねえでしょう。見えないからこそ、やれることがあるって。」
それは、自分に言い聞かせるような言葉でもあった。
未来が見えたら、どれほど楽か。
勝つか負けるか、怪我をするかしないか。
全部、先に分かっていたら、どれだけ安心して眠れるだろう。
それじゃあ、自分の手で掴む意味がなくなる。
明日、自分の人生がどっちに転ぶのか。
それを“誰にもわからないこと”にしておきたい。
両国国技館。
観客席には、未来庁の予報士・青島レンがいた。
今日は休みを取って、久しぶりに“予報のない時間”を味わいに来た。
目の前で繰り広げられる取り組みは、どれも筋書きが存在しない。
一瞬の揺らぎ、躊躇、呼吸で、勝負が決まる。
「久しぶりの、予報不能だ」レンは呟いた。
未来を予報する世界に生きているからこそ、こうして“まったく予測できない世界”を目の当たりにすると、感動してしまう。
呼び出しの声が響く。
「幕下優勝決定戦にござりまする!」
土俵に上がる斉藤の姿は、いつもと変わらない。
見えない未来に向かって歩く者の背中には、独特の重みがある。
行司の声が響く。
「はっけよい、のこった!」
立ち合い。激しく当たる。
朝日富士が突き出した両腕をかわし、斉藤が低く潜り込む。
実況が叫ぶ「立ち合い、両手突き交わして潜り込んだ斉藤!両差しだ、一気に土俵際!」
ふたりの身体が密着してわずか一秒。
斉藤が朝日富士を土俵の外へ押し出した。
軍配が斉藤に上がる。
場内は割れんばかりの歓声。
レンは、言葉を失っていた。
これまで無数の未来を予報してきた。
事故、病気、再会、別れ—すべてを読み解いてきた。
けれど、「未来って、こういうもんだったよな。」
レンは、目一杯の拍手を送った。
たった今、未来を作った両者に向けて。
予報も計算もなく、ただ、魂をぶつけ合ったその結末に。
その夜、斉藤は部屋のベランダでひとり炭酸ジュースを飲んでいた。
勝った実感はない。
スマートグラスを起動すると、いつものように「競技結果に関する予報は提供されません」と表示された。
「わかってますよ。」
スマートグラスを外した。
夜風を感じて、目を閉じた。
誰にもわからない未来。
誰にも教えてもらえない未来。
「また、自分で決めたいな。次も。」
誰かに見せてもらうものじゃない。
数日後、未来庁では、青島レンがひとつのメモを残していた。
『予報されない勝負を観戦した。未来は予報できるが、自ら選ぶ瞬間だけは、その人だけのものだ。』
その記録は、非公開ファイルとして静かに保存された。
予報士であっても、未来を黙って見守るしかない場面がある。
あの日斉藤が見せてくれた未来は、レンにとって灯火になった。
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