蒼井屋本舗雑記帳 ようこそ蒼井屋へ
ネコ屋ネコ太郎
始まりの季節
冬の終わり
2月10日 東條瑠奈
二月の朝は、まだしっかりと冬だった。
空気は鋭く、歩道の縁には昨夜の霜が白く残っている。
春の気配はまだ先のようだ。
制服のポケットに両手を突っ込んだまま、東郷瑠奈は人の流れに押されるように歩いていた。
周囲の誰もが緊張の表情を浮かべている。
彼女自身もまた、表情をなくした顔のひとつに過ぎない。
今日が、受験当日だということだけが、足の裏の感覚を曖昧にしていた。
「大丈夫、大丈夫……」
声にならない声を、自分にだけ届くように呟く。
背筋を伸ばそうとするたびに、肩が強張ってしまう。
人の波は校門に向かって伸び、まるで同じ方向に吸い寄せられていくようだった。
その中で、彼女だけがひどく浮いているように感じた。
今日は大丈夫──
一歩踏み出した先に小石があった。
そして──、いつも通りの“日常”が始まった。
ガシャン。
荷物と共に倒れた音が、空気を割った。
うつ伏せに倒れ込む瑠奈。
人一倍ある胸のクッションのおかげで怪我はない。
何人かの足音が横を通り過ぎていく。
誰も声をかけない。誰も、止まらない。
いつもと変わらぬ瑠奈の日常。
目線の先、白いスニーカーが止まった。
顔を上げる前に、声が聞こえた。
「……大丈夫か?」
その声は、低くて優しくて、温かかった。
日常がゆらぐ音がした。
ハンカチが差し出される。
瑠奈はただ、手を伸ばした。
顔は、よく見えなかった。
けれど──あたたかかった。
「……ありがとう」
少し遅れて声を出すと、その少女はすでに背を向けていた。
黒い髪が揺れ、制服の裾が風に膨らむ。
何も言わず、ただその場を離れていく後ろ姿。
立ち上がる。荷物を持ち直す。
手に残るハンカチの感触が、やけにしっかりしていた。
心臓の音が、少しだけ早くなる。
それは、不安のせいじゃなかった。
胸の奥で、何かが“鳴った”。
小さく、けれどはっきりと。
静かな朝に似つかわしくない──けれど美しい音だった。
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