祈りと怨念の境界

 めぐみが零体を離脱し、ふわりと足元から離れていく。


 薄靄のようなその姿は、風に溶けるように視界の向こうへ消えていった。残された俺……――──惠斗けいとは、辺りに漂う気配を探る。

 昼間だというのに、空は灰色の雲に覆われ、光が地面まで届かない。曼殊沙華の赤が、やけに生々しく滲んで見えた。


『……お兄ちゃん、見つけた』


 耳元で、惠の声が囁く。どうやら、かなり近くにいるらしい。


「何人だ」

『一人。けど、普通の人じゃない。……お腹が空いた、ってずっと言ってる』


 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。曾祖母が話していた【餓鬼】の特徴……――──異様に痩せこけ、腹だけが膨れ上がった姿。

 空腹の苦しみを、死後も抱え続ける存在。


「……姿は ? 」

『まだ形がはっきりしない。けど……こっちに気づいてる』


 風が止んだ。塔の周囲の曼殊沙華が、一斉に首を垂れる。

 耳鳴りのような低い唸り声が、どこからともなく響いてきた。


「……来るな」


 そう呟いた途端、視界の端で影が蠢いた。それは人の形を保ちきれないほど歪み、薄い皮膚の下で骨がきしむ音が聞こえるようだ。


『お兄ちゃん……』

「戻れ、惠」

『でも──』

「いいから」


 俺はゆっくりと呼吸を整えた。曾祖母と何度も繰り返した祈りの言葉を、心の奥から引きずり出す。

 これは、ただの怪異ではない。飢えで命を落とした者たちの、積年の嘆きと怒りの化身だ。




 雲間から一筋の光が落ちる。

 その刹那、歪んだ影の目がぎらりと光った……――──。

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