第17話 鬼を待つ鬼


黒銀の化け物は、兜の奥で青白い光をぎらつかせ、弥八へと狙いを定めた。怒気を孕んだ尾の三枚羽根が蕾のように閉じると、次の瞬間、最小の火玉が怒涛のごとく吐き出された。


「来た来たァ!」


弥八は、まるで待ち構えていたかのように口角を吊り上げ、反射的に地を蹴った。身を低く沈めて横へ跳ぶ。火玉はわずかに彼をかすめ、直後に背後の大木を抉り飛ばす。轟音とともに木屑と樹皮が雨のように降り注いだ。


「おっとっと……! 惜しいなぁ、もうちょいで当たるとこだったぜ!」


降り注ぐ木屑の中で弥八はひょいと立ち上がり、楽しげに口笛を吹いてみせた。その軽口とは裏腹に、額には冷たい汗が玉のように浮かんでいる。死と隣り合わせの瞬間にすら、彼の瞳はわずかに輝きを増していた。


転がりざまに弥八は迅太へ鋭い視線を送る。そこには恐怖を押し殺した決意と「行くぞ」の無言の合図が込められていた。迅太も息を呑んで頷き返す。口元に浮かぶ薄い笑みの奥に、闇を切り裂くような鋭い光が宿っている。


互いに声を合わせる間もなく、二人は影のように林を駆け抜けた。


黒銀の化け物は闇に揺らめく二つの影を追うように、兜の奥の青白き光をぎらりと閃かせる。尾の三枚羽根が再び蕾のように閉じ、中心から脈打つように青白き光が膨れ上がる。次の瞬間──それは咆哮と化し、闇を薙ぎ払うように無差別の火玉が連射された。


ズガガガガガッ――ッ!!


轟音が山を揺るがし、闇の森を閃光が切り裂いた。炎の弾丸が夜闇を裂き、土を抉り、木立を次々となぎ倒していく。追いすがる光弾の轟音は、山そのものがうねるような迫力を帯びていた。だが、狙う二人はすでに闇に溶け、火玉は空しく林を焼くだけに終わる。


「……グゥゥゥ」


兜の奥から地を震わすような低い唸りが漏れた。巨体がぐっと前傾し、大地を踏みしめる足が深々と沈む。


ドンッ――!

 

地を砕く衝撃とともに、黒銀の影が疾走を始めた。歩くだけで災厄を撒き散らしていた存在が、今や獣のごとき奔流となり、闇の森そのものを軋ませて追い立てていく。





――その頃。


裏山の窪地は、夜露に濡れて黒々と沈んでいた。

冷えた夜気が肌を刺し、吐く息は白く、ただ不吉な静寂だけが漂っている。


その静寂を裂くのは、時折遠くで轟く火玉の爆音だけだった。

山を揺るがすその音は、耳をつんざき、大地そのものが呻いているかのように響き渡った。



その闇の底で、清之助は膝をつき、息を殺していた。手にした自慢の鎖鎌の刃先で、覆いかぶさる草や枝を音もなく薙ぎ払う。鋼が走るたび湿り気を帯びた草の匂いが立ち、折れた枝の破片が月明かりに煌めいた。


訓練用に仕掛けられたはずの落とし穴──いまはただの罠ではなく、黒銀の化け物を落とし込むための死地である。焙烙玉を投げ込み、投石で叩き潰す。


時間はない。細工を凝らした他の罠に手間をかける余裕など、今はなかった。

指先に伝わる草の湿り気と、枝が折れるかすかな音にさえ神経を張りつめながら、清之助は息を殺して枝葉を払い続ける。


里のため、そして隠れ蔵に避難しているであろう妻・お鈴と子供たちのために。

必ずここであの化け物を仕留めねばならぬ──その一念だけが胸を占め、額を伝う汗が夜気に冷たく落ちていった。



ふと清之助は背筋にひやりと走る殺気を感じ、顔を上げた。月光に浮かぶ庄兵衛が視界に入る。



無言で岩を積み上げるその横顔は、哀しみを呑み込み、怒りを鎧に変えたかのように壮烈な気配をまとっていた。


高齢の父・重助は、半時ほど前にあの火玉を受け、無残な亡骸となって横たわっている。その亡骸を思い起こすたび、庄兵衛の腸は煮えくり返り、堪えてきた激情がにじみ出る。


「重石で……脳天を叩き割ってやる。絶対に、やってやる」


寡黙な庄兵衛が、低く噛みしめるように呟いた。

月光に照らされたその横顔は、泣きたいほどの哀しみを押し殺しながら、同時に怒りに燃え狂う激情を宿した、二つの相反する色をまとっていた。


その目は涙をこらえて赤く滲みながらも、口元は鬼のように固く結ばれ、歯ぎしりの音が闇に響きそうなほどだった。

父を奪われた痛みと、復讐の炎がないまぜになり、庄兵衛の面差しは、泣きながら怒る鬼──そんな異様な迫力を漂わせていた。



重助の死を知っていた清之助にとって、庄兵衛が泣きもせず、怒りを鎧に変えて立ち続ける姿は胸を刺すほど壮烈であった。


──泣くことすら許されぬとは、あまりに酷だ。

それでもなお、鬼のような執念で岩を積み上げる庄兵衛。月光に照らされたその横顔は、泣きたい表情と怒り狂った表情とがないまぜになり、烈道の前で見せていた冷静さが嘘のように歪んでいた。


清之助はその背を見据え、同じ忍びとして、そして友として、深い同情と静かな敬意を覚えた。


――化け物を落とす。必ず。


二人の胸にあるのは、ただその一点。夜の静寂の中、闇に沈む窪地では、わずかな息遣いと石を運ぶ音だけが響き、迫り来る戦いの予兆を告げていた。



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