小さな図書館の不思議な一日
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
第1話「落下する本と奇妙な出会い」
「締め切り三日前なのにこのままだとまずい……」
佐藤みどりは小さなため息をつきながら、出版社の会議室を出た。年齢は38歳、大手出版社で10年以上働く中堅編集者だ。真面目で几帳面、仕事は正確だが自己主張が苦手で、極度の優柔不断という弱点を抱えていた。
今日も企画会議で、上司の鶴見部長に叱られたばかりだった。
「佐藤、またこれだけ? もっと攻めた企画を出してこいって言ったよね?」
みどりは頭を下げるだけで、反論できなかった。10年選手の編集者なのに、まだこんな調子。同期はみんな編集長になっているというのに。
「すみません、もう少し考え直します」
そう言って会議室を後にしたものの、頭の中は真っ白だった。
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仕事を終え、いつもの帰り道を歩いていると、急に空が曇り始めた。
「あれ?天気予報では夕方から雨だったはずなのに……」
みどりがスマートフォンを取り出して天気予報を確認しようとした瞬間、ポツリ、ポツリと雨粒が落ちてきた。
「ああっ!」
慌ててカバンからビニール傘を取り出そうとするが、なかなか見つからない。結局、傘を見つけ出した頃には雨足が強くなっていた。しかも、今朝初めて履いた新しいパンプスが水たまりにはまってしまう。
「もう最悪……」
みどりは肩を落とし、普段通らない道に入った。雨を避けるために少しでも建物の多い道を選んだのだ。そこで目に入ったのは、古い洋館風の小さな建物。看板には「星の本棚」と書かれている。
「図書館? こんなところにあったんだ」
雨も強くなってきたし、少し雨宿りしていこうと思い、みどりは扉を開けた。
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「いらっしゃい……」
かすかな声が聞こえたような気がしたが、受付には誰もいない。むしろ、ここが本当に図書館なのかと疑いたくなるほど、本が所狭しと並んでいた。天井まで届く本棚が何列も並び、古びた木の香りと紙の匂いが混ざった独特の空間が広がっていた。
「すみません、どなたかいますか?」
声をかけながら一歩踏み出した瞬間、頭上から何かが落ちてきた。
「いたっ!」
痛みで目を閉じたみどりが恐る恐る確認すると、それは一冊の本だった。
『編集者のための創造的思考法』という題名。
「これって……漫画の世界でしかありえない展開じゃ……」
みどりが呆然としていると、本棚の間から白髪の細身の老紳士が慌てて駆け寄ってきた。
「申し訳ない!大丈夫ですか?」
70代くらいだろうか、背筋がピンと伸びた姿勢の老紳士は、真剣な表情で頭を下げる。
「ええ、大丈夫です。でも、なぜ本が……」
「図書館の本は時々自分で落ちてくるんだ」
老紳士は真顔でそう言った。
「……本が自分で?」
「冗談だよ」
老紳士は笑ったが、その目は笑っていないように見えた。
「私は村井といいます。この図書館の司書です」
村井の視線が、みどりが手に持っていた本に向けられた。
「なるほど。その本があなたを選んだのかもしれませんね」
「本が私を?」
「冗談ですよ」
今度は目元も緩んで笑った。そして、名札を指差した。
「すみません、図書館カードをお持ちでしょうか?」
「あ、いえ。初めて来たので……雨宿りに」
「そうですか。それでしたら、閲覧だけなら問題ありません。どうぞごゆっくり」
みどりは頭に落ちてきた本を村井に返そうとした。
「この本も、元の場所に戻しておきます」
「いいえ、その本はあなたに落ちたのです。少し読んでみてはどうですか?」
「でも、私に関係がある本かどうか……」
「編集者の方でしょう?」
みどりは驚いた。
「え? どうして分かったんですか?」
「あなたの手の人差し指と中指の間にある赤いペンのインク跡。それから、その鞄の中に覗いているゲラ刷り」
みどりはカバンを見ると、確かに校正中の原稿が少し飛び出していた。
「それに、図書館に入ってきて最初に言った言葉が『この本棚の配置は非効率的だ』だったので」
「え? 私そんなこと言ってない!」
「冗談だよ」と村井さん。「でも、あなたの目が本棚を見た時、一瞬で分類法を分析していたでしょう?」
みどりは背筋が凍った。確かに図書館に入った瞬間、日本十進分類法に従っていないことに気づき、少し違和感を覚えていたのだ。
「どうぞ、あちらの椅子にお掛けになって。お茶もお持ちします」
言われるがまま、みどりは窓際の小さな丸テーブルのある席に座った。雨は本降りになっており、傘をさしていたとはいえ、肩と袖が少し濡れていた。
村井さんはどこからともなくティーカップを持ってきて、紅茶を注いでくれた。
「ありがとうございます」
みどりはお礼を言い、本を開いた。『編集者のための創造的思考法』——タイトルは何となく見覚えがあるような気もするが、著者名は聞いたことがない。
第一章「締め切りという恐怖」
その見出しだけで、みどりは引き込まれた。まるで自分のために書かれたような内容。「締め切りが近づくと、脳の創造的な部分が機能を停止する」という記述に、思わず「その通り!」と声を出しそうになった。
さらに読み進めていくと、「創造性を阻むのは時間の制約ではなく、恐怖心だ」という一文が目に飛び込んできた。そして第三章には「攻めの編集術」というタイトルがついており、まさに今日、鶴見部長に言われたことと同じだった。
みどりは夢中で読み進めた。「自分の感性を信じることができれば、読者の心を掴む企画は自然と浮かんでくる」——その文章を読んだ瞬間、長年温めていたある企画のアイデアが頭の中で急に形になり始めた。
「これだ!」
思わず声に出してしまい、慌てて周りを見回すと、閲覧席には他にも数人の利用者がいた。みどりは赤面し、小さく頭を下げる。
「すみません……」
老婦人が優しく微笑んでくれた。隣には若い男性がビジネス書を読み、その横では小学生くらいの子どもが絵本に夢中になっていた。静かな図書館の空気の中で、みどりは久しぶりに心が落ち着くのを感じた。
読書に没頭していると、いつの間にか雨も止んでいた。窓の外を見ると、夕日が雲の間から差し込み、雨上がりの美しい光景が広がっていた。
「もう、こんな時間……」
みどりが時計を見ると、なんと二時間も経っていた。慌てて本を閉じ、受付に向かう。
「お帰りですか?」
村井さんが穏やかな微笑みを浮かべて尋ねた。
「はい。本をありがとうございました。とても参考になりました」
「それは良かった。その本は貸し出し可能ですよ。借りていきませんか?」
みどりは少し迷ったが、うなずいた。
「お願いします」
「図書館カードを作りましょう。お名前は?」
「佐藤みどりです」
村井さんは手際よくカードを作り、本にスタンプを押した。
「返却期限は二週間後です。またのお越しをお待ちしています」
みどりが図書館を出ようとしたとき、村井さんがもう一言付け加えた。
「佐藤さん、あなたの中にある創造性は、恐れによって閉じ込められているだけです。恐れを手放せば、きっと素晴らしい企画が生まれますよ」
「……はい」
みどりは不思議に思いながらも、礼を言って図書館を後にした。
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翌朝、みどりは目覚めると同時に飛び起きた。昨夜、図書館で読んだ本の内容を思い出しながら、ノートに企画案を書き始めた。今日の朝会議で、新しい企画を提案するつもりだった。
「よし、これでいける!」
鏡の前で何度も練習し、自分を鼓舞した。
「大丈夫、自分の感性を信じるんだ」
出版社に着くと、まずは鶴見部長の元へ向かった。
「部長、昨日の企画についてなのですが、もう一度提案させてください」
「佐藤? 珍しいな、こんな朝早くから攻め込んでくるなんて」
鶴見部長は少し驚いた様子だったが、「いいぞ、聞こう」と腕を組んで待った。
みどりは昨夜考えた企画を説明した——「現代人の孤独と共感をテーマにした新シリーズ。SNSで繋がりながらも心は孤立する現代社会の矛盾を描く小説と、実際の社会調査を組み合わせた新しい形の出版企画」。
説明し終えると、鶴見部長は珍しく沈黙していた。
「どうでしょうか……」不安になり始めたみどりだったが、
「……これだよ、佐藤。これを待っていたんだ!」
鶴見部長の目が輝いていた。
「今すぐ企画会議を開こう。全員を集めてくれ」
会議室に全編集部のメンバーが集まると、みどりは再び企画を説明し始めた。
「この企画は現代社会の——」
まさにその瞬間、会議室の電気が突然消え、なぜかみどりの立っている場所だけにスポットライトが当たるというトラブルが発生した。
「なんで私だけ舞台俳優みたいに……」
みどりは戸惑ったが、その不思議な演出効果のおかげで、全員の視線が彼女に集中した。そして、緊張で声が震えるはずが、むしろ落ち着いて話すことができた。
電気が復旧した頃には、企画説明は終わっていた。周囲からは拍手が起こり、鶴見部長も満足そうに頷いていた。
「佐藤、明日からこのプロジェクトのチーフを任せる。好きなメンバーを選んでいいからな」
「え? チーフですか? 私が?」
「ああ。ようやく本気を出したな。期待しているよ」
仕事を終え、帰り道でみどりは昨日訪れた図書館の前で足を止めた。
「あの本のおかげかな……」
みどりは扉を開け、中に入った。
「いらっしゃい、佐藤さん。また来てくれたんですね」
村井さんが微笑みながら迎えてくれた。
「はい。あの本のおかげで、企画が通りました。お礼を言いたくて」
「それは良かった。でも、それはあなたの実力です。本はただのきっかけに過ぎません」
「いえ、あの本がなければ思いつかなかったと思います。本当にありがとうございます」
みどりは深く頭を下げた。
「今日はもう一冊、本を借りていきたいんです」
「そうですか。何か特定のジャンルをお探しですか?」
「いえ、特には…」
みどりが言いかけると、村井さんはじっと彼女の顔を見つめた。
「今日の佐藤さんは、昨日とは違う表情をしていますね。何かいいことがあったようだ」
「はい、企画が通って、プロジェクトのチーフにも任命されました」
「それは素晴らしい。おめでとうございます」
村井さんは少し考え込むような表情をした後、本棚の方へと歩き出した。みどりも後に続く。
「実は、佐藤さんにぴったりの本がもう一冊あるんです」
村井さんは、文学のセクションから一冊の小説を取り出した。
『孤独の向こう側』
「この本は、あなたの企画にも関連があるかもしれません。孤独と繋がりについて、とても深い洞察が書かれています」
みどりは本を受け取り、表紙をめくった。
「どうして私の企画テーマを…」
「さっきあなたが話してくれたじゃないですか」
「あ、そうでした」
みどりは本を開いた瞬間、不思議な感覚に包まれた。この本もまた、自分のためにあるかのような気がした。
「村井さん、どうしてこんなに的確な本を選べるんですか?」
「長年の経験です。人の目を見れば、その人が何を求めているかがわかるものですよ」
村井さんはそう言って微笑んだが、その目には何か深い意味がありそうだった。
「でも、本当にありがとうございます。この本も借りていきます」
みどりが帰り支度をしていると、そばにいた若い女性スタッフが小声で言った。
「村井さんには特別な才能があるんです。人の心を読む力…」
「え?」
みどりが振り返ると、若い女性は慌てて奥へ消えていった。
「何のことだろう…」
不思議に思いながらも、みどりは二冊目の本を借り、図書館を後にした。
帰り道、みどりは考えていた。一日でこれほど人生が変わるなんて。まるで小説のような出来事だ。
そして、明日から始まる新しいプロジェクトへの期待と、もう一つの好奇心—「星の本棚」という不思議な図書館と、人の心を読むという司書の村井さんについて—が、みどりの心を満たしていた。
「また行こう」
みどりはそう決意した。あの図書館にはまだ多くの謎がある。そして、自分の中にもまだ見ぬ可能性が眠っているような気がした。
雨上がりの空には、星が一つ二つと輝き始めていた。
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