第一章 第九節「白と灰の街、心のない列車」

 その日、都市はいつもと変わらぬ静けさをまとっていた。


 が、それはアノンにとって“いつもの”静けさだったが、レクシィにとっては、息を呑むような非日常の始まりだった。


 彼女は、白と灰の制服を着ていた。


 ドーム都市の市民が皆、規格通りに身にまとう無地の衣装だ。体型補正と体温調整機能を備えたその素材は、シワひとつなく、個性という名の揺らぎをすべて排除していた。


 「似合う?」


 レクシィがそう訊いたとき、アノンは思わず笑ってしまった。


 「うん。……似合いすぎて、逆に目立たないかも」


 レクシィは、くすっと笑った。その笑い方は、まだ完璧とは言えない。笑い慣れていないピアノの和音のようだったが、そこには紛れもない“彼女らしさ”があった。


 地下搬送口からエレベーターに乗り、二人は静かに地上へと上がった。


 そして、光が見えた瞬間――レクシィは足を止めた。


 「……これは……空?」


 頭上には、スクリーンに描かれた昼空が広がっていた。絶えず最適化された色彩。青は濁らず、雲は完璧な形で、角度によってすら“歪み”を見せない人工の青天。


 「これは……絵?」


 「ううん。これは、空“だったもの”だよ」


 レクシィは、手を伸ばした。届かないとわかっていても、指先を空に向けて浮かせてみた。

 その仕草はまるで、触れられないものに名を与えようとする祈りのようだった。


 ホバーカーが頭上をすべっていった。


 音もなく、影も落とさず、都市の空中を滑るように飛ぶその乗り物を、レクシィはしばらくの間見つめていた。


 「鳥じゃないのに……飛んでる」


 「でもあれ、乗ってても何も感じないよ。ただ運ばれるだけなんだ」


 歩道は自動ベルト式で、レクシィは歩かなくても進むことができた。だが彼女は、自分の足で一歩ずつ、確かめるように歩いた。


 その足音は、都市にはあまりにも小さすぎて、誰の注意も引かなかった。


 まわりを行き交う人々――誰もが白と灰の制服を着ていた。背筋を伸ばし、同じ速度で歩き、同じタイミングで目線を下げる。


 表情がなかった。  怒っているわけでも、喜んでいるわけでもなく、感情というものが、まるで設計書の外に追いやられたかのようだった。


 「ねえ、アノン……」


 「うん?」


 「この人たち、どこを見てるの?」


 「たぶん、何も見てないよ。見る必要がないんだ。信号も、人とのすれ違いも、全部BMIが制御してるから。考えなくても、道を間違えない」


 「じゃあ……“迷う”こともないんだ」


 「うん」


 レクシィは足を止めた。


 そして、静かに呟いた。


 「……それって、ちょっと悲しくない?」


 二人は高架列車に乗った。


 都市内移動用のシャトル列車。外観は無機質な白で統一され、車内には広告も音楽もなかった。座席は自動折り畳み式。壁には「現在地」と「目的地」が、ただの数字で表示されている。


 「降車予定者数:87人」

 「到着予定:6分32秒後」


 列車の振動は限りなく小さく、まるで風に押されているだけのようだった。


 乗客たちは、みな静かだった。


 本を読む者もいない。誰かと会話する者もいない。イヤホンも、画面も、なにも持たずに座り、ただ前を向いていた。


 アノンがレクシィの耳元で囁いた。


 「全員、BMIで娯楽モードに入ってる。脳の中ではたぶん“何か”を見てるんだろうけど、外からはわからない」


 レクシィは眉をひそめた。


 「でも……誰も、“ここ”にいないみたい」


 その言葉に、アノンはどきりとした。


 「ねえ、アノン」


 レクシィが少し声を落とした。


 「この人たちって……どこへ向かってるの?」


 アノンは黙った。


 その問いは、ただ“どの駅で降りるのか”という意味ではなかった。

 彼女は、もっと根源的な問いを口にしたのだ。


 「どこへ向かってるのか、わかんない。でもね、たぶん自分たちも知らないと思う。与えられた仕事場に行って、AIに言われた通りに暮らして、それで人生が“終わる”ってことになってる」


 「……それって、機械と変わらないね」


 「うん。でも機械には“変だ”って思う機能がない。君にはある」


 レクシィはしばらく黙っていた。


 そして、アノンの手をそっと握った。


 その手は冷たくなかった。人工皮膚の内側で温度調整が行われているはずなのに、なぜか彼女の体温は、ほんの少しだけ、心の温度に近いような気がした。


 「わたし……歩いてよかった」


 「どうして?」


 「“心がある”って、まだよくわからないけど……でもね、歩いて、見て、疑問に思って、誰かの手を握って……」


 彼女は、ほんのわずかに微笑んだ。


 「……それが“生きてる”ってことなら、今のわたし、生きてるって言える気がする」


 アノンは、その笑顔を見ていた。


 列車の窓の外に、都市の光が流れていった。


 それは、あまりにも整然としていて、まるで誰かが完璧に組んだ模型のようだった。

 でも、その中で、アノンの心にはひとつの揺らぎが残っていた。


 彼女の問いが、いまも胸の奥で響いていた。


「この人たちは、どこへ向かっているの?」

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