四つ目の国 -3

 翌日の夕方、私たちは例の如く売り上げを持って宿へと戻って来ていた。



「連日すごいな。」

「えへへ。今日はこの国の刺繍も勉強できたので、他の国に行ったらまた売り上げを出せそうです。」

「そうだな。」



 優しく微笑んだジンさんは売り上げをまとめて置くと、お手洗いの為に部屋を出た。ミナさんはまだ情報収集から戻っていないらしい。私は部屋に一人になると、膝を抱えて座った。昨晩からずっと、自分の中でどす黒い感情が蜷局とぐろを巻いている。これは不安なんだろうか。それとも嫉妬、劣等感…? バンのことになると何だか冷静でいられない。私の知らないバンが沢山いることは重々承知だったけれど、知らないバンに出会うたびそこに私がいないことを目の前に突きつけられる。当たり前なのに。分かっていたはずなのに。大きく溜め息を吐くと、膝におでこをくっつけた。正直、自分の中にこんな感情があるだなんて思いもしなかった。一人になりたいのに、この状況下ではそれも叶わない。旅を始めてから初めてのことだった。私はバッグの中から紙とペンを取り出すと、少し散歩してくるという旨、すぐに戻るという旨を書き残して机の上に置いた。

 外は人がまばらになっていた。空を見上げると、先程より日が傾いていた。近くの山に半分日が隠れている。空は不気味な程に紅く染まっていた。ウユではなかなか見ない見事な夕焼けに惹かれ、私は山へと向かった。高い所に登ればもっと良くこの夕焼けが見えるに違いないと思ったのだ。

 山へと近付くにつれ不気味さはどんどん増していった。けれど夕焼けに魅せられた私は、その不気味さをぐっと堪えて山へと足を進めた。山の麓の紅い鳥居の下を見れば、整備された歩道がある。そこからなら多少快適に山を登れるだろうと鳥居を潜ると、急に辺りの空気が変わった。



「っ…。」



 鳩尾の辺りが急に重くなる。引き返そうとしたが、時既に遅しだった。



「鳥居は境界。ここは、この世とあの世の境。」



 声に驚いて振り返ると、全身黒ずくめの男の子が立っていた。15歳くらいだろうか。私より少し年下くらいの見た目だ。黒髪に黒眼、黒い服。村の子だろうか。



「お前、この国の者じゃないな。」



 いつの間に背後に立っていたんだろうか。言葉を発しようとして気が付いた。頭に、角が生えている。見慣れないその異物から放たれる異様な雰囲気に、私は後退りした。



 ──『その国じゃな、“妖怪”ってのがいるらしいんだ。中でもとりわけ、“鬼”ってのがやべぇらしい。なんでも、人を食っちまうって話だ。』



 バンの言葉が脳内で再生される。



「……鬼…。」



 ポツリと呟くと、黒鬼はポーカーフェイスを崩さずに首を傾げた。



「俺らのこと知ってんだ? なのにこの山に来たのか? 物好きだな。」



 黒鬼はそのまま距離をゆっくりと詰めてきた。崩れないポーカーフェイスがより一層不気味さを引き立てる。



「い、や…。」



 喉がキュウッと窄まって上手く声を発することができない。何とか声を絞り出すが、誰かに危機を知らせることなんて到底出来そうになかった。何とか後退してみるが、整備されているとはいえ足元が悪い山道だ。すぐに木の根に足を取られて尻餅をついてしまった。



「とりあえず、ほむら様の所に連れて行こうかな。おいで。」

「痛っ…。」



 優しい口調とは裏腹に、私の二の腕を掴んだ手は非常に強い力だった。骨が軋んだ気がした。本当に食べられるかもしれない。闇雲に抵抗しても勝てっこない。ジンさんとミナさんに習いたてホヤホヤの護身術を思い出すが、とても歯が立ちそうになかった。

 私は黒鬼に引き摺られるまま山を登った。山を登るにつれ、山は紅く染まっていった。紅葉、彼岸花、椿、牡丹。季節がめちゃくちゃだ。いよいよ日常ではないことを認識した私は、宿を一人で出てきたことを盛大に後悔していた。今頃書き置きを見つけたジンさんが心配しているだろう。もし再会できたなら、びっくりする程怒られるんだろう。そう思う傍ら私は既に諦めていた。きっと私は焔という人に食べられるんだ。人というにはきっと相応しくない。その人も鬼に違いない。この黒鬼の親玉だろうか。だとすればきっともっと恐ろしいに違いない。そんな風に諦めていた私の視界に入ってきたのは、紅い壁の家だった。村にあった家よりも古そうな造りだ。茅葺き屋根に障子が映えて、醸し出されるどこか安心する雰囲気に私は拍子抜けした。



「お前はこっち。」



 黒鬼は掴んでいた私の二の腕を再び物凄い力で引っ張ると、紅い家から少し離れた石造りの蔵の前で立ち止まった。



「焔様は今出かけてるから、お前はここに居ろ。」



 黒鬼は蔵の扉を開けると、私を中に押し込んだ。



「きゃ…!」



 押し込まれた勢いで床に倒れ込んでしまった。身を起こしている間に、黒鬼は蔵の扉を閉めてしまっていた。



「開けて…!」



 扉を叩いてみるも、扉はびくともしない。耳をそば立ててみても、近くに人の気配はない。どうやら、私は焔様とやらが帰って来るまでここにいる他ないようだった。


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