ああなんと素晴らしき生命
昼食後は少し休んだ後にまた運動をし、さらに酒造の経理などに駆り出されたりなどもする。転生がバレて以来、僕が数学もできること──とはいえ数字を使う計算はあまり得意ではなく、微分方程式を解いたりする方がメイン──も芋蔓式に発覚しているのだ。
酒造も酒造で人的資源が充足しきっているというわけではない。そのあたりはトサント伯にして非騎士道的戦争伯ヴァレンタイン卿の偏執的なまでの用心深さによるものであると言えよう。この「アルバイト」もそれなりに楽しくはある。
あれよあれよという間に日は落ちてしまう。そしてこの幼い体は、夜になるとすぐに眠くなってしまう。
別にそれに抗う理もないし、抗って何か得があるわけでもない。この体は寝れば寝るだけ成長するのだし、そもそも寝ないと朝の「シゴき」の疲れが取れない。
五歳の誕生日以降に与えられた自分の部屋──壁全面を埋め込みの本棚にしている──のベッドで眠りに落ちる前に、念のために防音の魔法をかけておく。
理由は聞かないでほしい。僕の両親はお元気でいらっしゃるのだ。「若い」と形容するのは事実誤認となるのだが、間違いなく若々しくはあるし、よく楽しんでいるのだろう。それに関しては僕が何か言える立場ではない。
多少のイレギュラーこそあったものの、これが僕の一日だ。
僕が八歳になって早々、ミュシャの懐妊が発覚した。妊娠が始まってからミュシャはずっと不機嫌で、つわりも辛そうだったものだから、その期間の酒造の業務は僕がほとんど行っていた。
実際に飲んで確かめることができないのはなんとも心残りではあったが、それにしてはうまくいっていたとは思う。
魔法でその辛さを軽減することができないのかと言われたら、それは「理論上は可能」あるいは「技術的には可能」といった答えになるだろう。つまり元々人体に存在する機能を減退させると、別のところに皺寄せがきて、それをずっと修正し続けることはできないということだ。
そして、それは出産の時期が来ても変わらない。陣痛の痛みは想像に絶する──前世では当然独身だった──ものだが、かといって魔法で痛みを消せるわけでもない。
さらに痛みのせいで思考などがまとまるわけがないので、妊婦自身が魔法を行使できるというわけでもない。
リクランドにおける最強格の〈征東の魔女〉にしても、その原則から逃れることができるわけではなかった。
僕が八歳になってから初めての秋、九歳になる直前のよく晴れた夜にそれは始まった。異臭を放つ香──魔除けのためらしい──を焚きしめた居間で、産婆と僕の補助によって出産が行われた。ハリオスはまた長期演習だとか言って山の方に行っているらしい。つくづくタイミングの悪い男だ。
そうして抱き上げた小さないのちは、あまりにも脆く、柔らかく、そしてどこかいい香りがした。女の子で、名前はセナ。肉付きもかなり良く、これからの成長に期待できそうだ。
数時間ほど続いた出産が終わり、部屋の中を満たしていた異臭は僕の魔法が消し去り、代わりに麦酒の醸造に使うホップなどで爽やかな甘いお香を焚いている。
居間は意図的に暗くしてあり、暖炉の火も灯っていない。その中心に設置されたソファベッドで、ミュシャは目を閉じて眠っていた。
彼女は普段からは考えられないほどに疲れ切った様子で、顔にも血の気がほとんどない。無理に回復魔法をかけるわけにもいかないし、消化器官も弱っているだろう。
僕の腕の中ですやすやと眠っているセナがモゾモゾと動き、そして目を開けた。その目は僕のものともミュシャのものとも違い、むしろ遠い海のような青色をしている。
セナは僕のことを見て、何かと勘違いしたのか、急に顔を歪めてぐずり始めた。ちょっと、これは未知の経験すぎる。お腹が空いているのかな。
その泣き声で目が覚めたのか、ミュシャはゆっくりと僕らに目を向けた。セナと比べると、彼女の瞳の青の方がより黒に近い。その黒は、夜の闇の中でもキラキラと輝くような黒だ。
「お腹が空いたのかしらね」
「わかるんですか?」
「ええ、この子はまだ言語で考えてないから……生まれたばかりのあなたと違って」
「それは……まあそうですけど」
生まれた直後の僕は日本語で思考をしていた。それをミュシャがわかるはずもない。今は概ね帝国共通語で考えつつも、複雑なことに思いを馳せる時は日本語を使ったりしているし、たまに日本語で日記も書いてみたりしている。漢字の書き方はだいぶ忘れてしまったから、人に見せられるものではないけれど。
そういえば、父が使うココノツシマの言語の文法と構造は日本語と似ていたから、そっちに移してもいいかもしれない。
手が震えて仕方がない。命あるものに触れるという行いは、正直言ってかなり怖い。ゆっくりとセナをミュシャの腕の中に滑り込ませる。
彼女は着ている服のケープをずらして、片方の胸を露出させた。ミュシャに背を向ける。おそらくそれは二人だけの儀式だろうから、僕が気安く見ていいものでないと思った。
「ミシェル、あなたは手がかからない子だったわ」
「そうでしょうね? セナはどうでしょうか」
「わからない……けど、この子も私とあのひとの子よ」
それはなんとも癖が強そうだな。ミュシャとハリオス──最強の魔女と、それを刀一本で降した男──の娘なのだ。そもそも第一子にして転生者たる僕の癖が強すぎたのが真の問題であるのかもしれない。
乳を飲み終わった後のセナは興味ありげに頑張って目を動かして周りのことを確認していた。どれだけ見えているのかはわからないが、少なくとも彼女自身が満足するくらいなのだろう。
セナは程なくして目を閉じ、そして安らかに眠り始めた。直接見てはいないが、気配でなんとなくはわかる。
ミュシャは安心のため息をこぼし、僕も二人の方に向き直った。母上は本当に全てのエネルギーを燃やし尽くしてしまったようで、自分に疲労取りの魔法をかけるくらいの力もないようだ。
「ミシェル、杖を持ってこっちに来てくれるかしら。私は疲れたわ」
「そんなもうすぐ死ぬみたいな言い方しないでもいいでしょう?」
「ふふ、冗談よ。でも、こっち来てくれる?」
まだ少し震えの残る手で僕が差し出した杖をミュシャは握った。彼女の思考が僕に流れ込む。
それは否応なしの安心そのもので、また僕の魔力を使って、僕の生命力を彼女に少し移す魔法を行使するという意思も含まれていた。
僕の体が仄かな燐光を放ち、それが杖を通じてミュシャの肉体に吸い込まれる。魔法も一応マクロなスケールでは熱力学第二法則に従っているようで、全ての魔力を魔法効果に変えることはできず、故に多少の魔力が光と熱になって漏れる。
僕の体が少し冷える代わりに、ミュシャの体に生命力の熱さが戻った。体を締め付けるような疲労を感じた僕は、もともと座っていた椅子に腰掛けて、深呼吸をした。
いわゆるマナポーション的な、魔力を戻す薬はあることにはあるが、新生児と妊婦はその薬を飲んではいけない。
最悪のケースだと、魔力過敏症を発症して、成長して以降の魔法行使に多大な影響を及ぼす可能性があるとのことだ。だから、こういった回りくどい方法で回復をするしかない。
「そういえば、回復魔法自体は問題ないんですね?」
「人の体の機能を賦活させるものだから、痛み止めよりはよっぽど楽よ」
光と熱によってか、セナはまた目を覚ました。彼女は興味ありげにミュシャと僕の顔を見比べている。おそらくまだ顔の区別がつかないのだろう。自分で言うのもなんだが、今のところ僕はかなりミュシャに顔が似ている。数年後にどうなっているかはわからないが。
「……そういえば、部屋が暗くないですか? セナが怖がっちゃいますよ」
「そうね──任せていいかしら? 私たちの魔法使いさんに」
「光栄にございます、〈征東の魔女〉さま」
僕はセナを左腕に抱いて、暖炉の前で跪く。暖炉脇に積んである枝の山から大枝小枝を適当に投げ込んで、そこに杖を向けた。
「『いかづちよ』」
バチ、バチと空間に雷光が走る。火が灯る。
「これが魔法だ。言葉を──いや、考えると世界が変わるものだ」
セナは不思議そうにその火を見つめていた。彼女がこれを使えるようになる日が待ち遠しくて仕方がない。振り返ると、母上が神妙な顔をして僕のことを見つめていた。
「こういう言い方も嫌いだろうけど……あなたもお兄ちゃんよ、ミシェル。この子の手本をなさいな」
「もちろん。任せてくださいよ」
さすがに気合いが入るな。前世では一人っ子だったし、今世では──当然ながら──さっきまで一人っ子だった。仲間内ではお兄ちゃんの役目をすることが多かったけれど、実際にお兄ちゃんをするのは初めてである。もしかすると、これは相当面白くなるのかもしれない。
赤ちゃんの時代にいっぱい話しかけておくと、言葉を喋り始めるのが早くなるらしい。それも問題ない。物理をやると得てして口数が多くなるものだし、理論系の研究者はそれに輪をかけてよく喋る。
むしろ、言葉の洪水を浴びせかけられるセナの方が少し心配になるというものだ。
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