第6話 団地の格付けと、消えた優越感

 研修後の週末、手術を終えて沙映子の実家に一泊した涼ちゃんが寮に帰ってきた。

涼ちゃんは私と同部屋だ。


「おかえり。体調はどう?」

「うん、結構いいよ。心配かけちゃって、本当にごめんね」


 研修時の青白い顔に比べたら、明らかに顔色が良くなっている。


​「伊勢ちゃんと恋ちゃんの部屋には行った?」

「まだ。恋ちゃんはともかく、伊勢ちゃんは先輩と同部屋だからちょっと行きづらくて」


 確かに。

伊勢ちゃんは指導係の先輩と同じオペレーター勤務だ。

 私は伊勢ちゃんと恋ちゃんをこの部屋に呼び、沙映子以外の四人が集結した。

 ​沙映子は運良く、二人部屋を独占していた。

同部屋になるはずだった子が健康診断の結果で入社辞退になったらしい。


「沙映子ならまだ横浜の実家だよ。明日から一ヶ月、東京の本社でブライダルの講習があるんだって」


 涼ちゃんが教えてくれた。

さすが花形のブライダル、他とは力の入れようが違う。

​ 涼ちゃんは、沙映子の実家で過ごした二日間のことを熱心に語り始めた。

全身麻酔の手術中、沙映子がずっと付き添ってくれたこと。

泊めてもらった実家は団地だったが、お母さんが優しくて面白く、料理が絶品だったこと。


「特にビーフシチューが最高だった。お母さんも部屋の内装も、とにかくオシャレなの。沙映子も『自慢のお母さん』だって言ってたよ」


​ ……でも、団地なんでしょ?

私は心の中で毒づいた。

意外だった。

あの沙映子が団地住まいなんて。

私の実家でさえ、田舎とはいえ持ち家だ。

 ——勝った。

初めて沙映子に対して明確な「勝ち」を見つけた気がして、胸がすく思いだった。


「いいなー、私も沙映子の実家に行きたい」

「お母さんと友達になりたいよね」


 伊勢ちゃんたちが羨ましがる中、私は一人、団地というキーワードを心の中で何度も反芻し、彼女を自分より下の位置へ押し下げていた。


​ 翌朝、私たちは出勤前に制服を見せ合った。

海をイメージしたマリンブルーの制服。

フロントの私はブレザーに青紫の蝶ネクタイ、クリーム色のプリーツスカート。

恋ちゃんたちのワンピース姿も華やかだった。

寮から職場までは徒歩圏内。

互いの制服を褒め合いながら、期待を胸に歩いた。

​ けれど、社員通用口をくぐった瞬間、その高揚感は霧散した。

フロントのバックヤードには、同期の鈴木加奈がすでに座っていた。


「鈴木さんは、フロント希望だったの?」

「うん。ホテルといえばフロントでしょ?」

「だよね! 良かった、私と同じ考えの子がいて」


 私は安堵した。高卒でフロントなんて大抜擢だ。

自分たちの凄さを、本社研修中の沙映子に見せつけてやりたいとすら思った。


​「でも、どうして私が選ばれたのかな。池井さん、資格とか持ってる?」

「英検三級なら持ってるけど……」

「すごーい! 加奈、三級ダメだったもん。池井さん頭いいんだね!置いていかないでね」


 自分のことを「加奈」と呼ぶ彼女に、私は少しだけ優越感を覚えた。

幼稚で頭も良くなさそうな彼女と一緒で気分が良かった。

置いていかれないでね、なんて言われて、私は少し浮ついていた。

​ そこへ、宿泊課の山本課長と片瀬主任が現れた。


「山本です。二人には期待していますよ。えっと、鈴木加奈さんは……」


 課長がネームプレートを確認する。


「私です。よろしくお願いします!」

「……帰国子女だそうですね」


​ え?


「地元も湘南の中心、茅ヶ崎だとか。英語も堪能で、地元の観光スポットにも詳しい。頼もしいですね」

「いえ、英会話は日常会話に毛が生えた程度です。茅ヶ崎も数年しか住んでいませんが、仲間内ではよく遊び歩いていましたから」


 鈴木加奈は、謙遜しながらも完璧な「武器」を披露した。


​ ——してやられた。


 置いてけぼりにされたのは、私だった。

褒められて浮かれていた自分が、ひどく惨めで馬鹿に見えた。


​「鈴木さんは課長が館内を案内します。池井さんは、まずここのデスクに座って」


 示されたデスクには、分厚い資料やカタログが山積みにされていた。


「フロントは、お客様のあらゆる質問に応えなければならない。湘南の歴史や特色をすべて把握してください。海外のお客様も多いから、英語も日常会話レベルは必須です」


​ 挫折どころではない。

絶望だった。

憧れだけで務まるほど、この仕事は甘くない。

有名観光地のフロントなら、外国語もガイド能力もあって当然なのだ。

どうしてこんな場所を希望してしまったのか。


​ 辞めたい。

逃げ出したい。

けれど、私には帰る場所がない。

あの暴力的な父と、意地の悪い継母がいる家には、一生帰りたくない。

​踏ん張るしかない。

ここに居場所を作るしかない。

死ぬ気でやるしかない。


 ……私、まだ十八歳だよ。

重すぎる資料の束を前に、私の新しい人生は、冷たい現実の雨に打たれて始まった。

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