第3話 柚子香るささみ蒸し
梅雨の夜。窓の向こうでは、雨が静かに降り続いていた。
東京のビル群を湿らせる霧雨。時折、遠くで車のタイヤが水たまりを弾く音が響く。部屋の窓ガラスはしっとりと曇り、湿った空気がじわりと肌にまとわりつく。
結城紗和は、デスクに肘をつき、ぼんやりとスマホを眺めていた。未読のメッセージがいくつも並んでいるが、どれも開く気になれない。
「はあ……」
思わずため息が漏れる。
連日の仕事のストレスで、ここしばらく食事をまともに摂っていなかった。食欲が湧かない。胃が重たく、何を口にしても味がしないような気がする。それでも、空腹だけはじわじわと忍び寄ってくる。
その時、スマホが震えた。着信の表示に目をやると、名前は「千春」。
高校時代からの友人だった。
「……もしもし」
「紗和? ちょっと声、元気ないんじゃない?」
千春の声は明るく、少し心配そうだった。
「まあね。仕事、ちょっとバタバタしてて」
「食べてる?」
その問いに、紗和は一瞬、返事に詰まる。千春は察したようだった。
「やっぱり。こういう時こそ、ちゃんと食べなきゃダメだよ」
「食欲がなくて……何を作る気にもならないし」
「だったら、さっぱりしてて簡単なものがいいよ。たとえば……ささみを蒸して、柚子をかけるの。柚子の香りって、食欲出るし、気分もスッキリするよ」
千春の言葉に、紗和は少しだけ想像した。湯気の立つ柔らかなささみ、そこにふわりと漂う柚子の爽やかな香り──
「……いいかも」
「でしょ? 私も梅雨の時期、食欲落ちるんだけど、これならするっと食べられるから。ささみなら消化にもいいし、タンパク質も取れるし」
「ありがとう、やってみる」
電話を切ると、ゆっくりと立ち上がる。久しぶりに料理をする気になった。
キッチンの窓を少し開けると、湿った空気と共に、どこか遠くの土の匂いが流れ込んできた。雨の夜の匂い。
冷蔵庫から、ささみを取り出す。鍋に湯を沸かし、ほんの少し塩を入れる。お湯が静かに波打ち、ぽつぽつと小さな泡が立ち始めると、ささみをそっと沈める。弱火に落とし、ゆっくり火を通していく。
蒸気がふわりと上がり、台所にほのかな鶏の香りが広がる。
その間に、柚子を取り出し、包丁で半分に切る。切り口から弾けるように立ち上る、甘酸っぱい香り。鼻を近づけると、すっと気持ちが晴れるようだった。
ほどよく火が通ったささみを取り出し、氷水にさらす。表面がひんやりと引き締まり、中はしっとりと柔らかい。手で割くと、繊維がふんわりとほぐれた。
器に盛り付け、たっぷりの柚子を絞る。ジュワッと果汁が滴り、ささみに馴染んでいく。仕上げにほんの少し、醤油を垂らすと、爽やかな香りの中に、ほんのりとした深みが加わった。
箸を手に取り、ひと口。
ささみは驚くほどしっとりとしていて、口の中で優しくほぐれていく。柚子の酸味がふわっと広がり、鼻を抜ける香りが心地よい。醤油のコクがわずかに感じられ、単調にならない。
「あ、美味しい……」
久しぶりに、心から美味しいと思えた。
ふと、スマホを手に取り、千春にメッセージを送る。
──「柚子の香り、すごくいいね。ちゃんと食べられた。ありがとう」
すぐに返事が来た。
──「よかった! 美味しいもの食べたら、また明日も頑張れるよ」
紗和は微笑みながら、窓の外を見た。雨はまだ降っている。でも、さっきより少しだけ、気分が軽くなっていた。
梅雨の夜、柚子の香りが、静かに心をほどいていく。
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