第8章 

 万が一の時のため私は銃をホルスターからとり薬室に入った銃弾の数を確認する。

 咄嗟に机の下に隠れたが

「失礼します」

 暗闇で姿は見えないが声からして、中年かそれ以上と思われる女性が校長室に入ってきた。校長ではない……じゃあ誰だ?なんで今校長室に?もしかして表彰式で何か問題があった?

 机の影で息を殺して身を潜めていると、突然ミロクが机の上に置いてあった書類に手を伸ばし一枚ぬき取る。私は「何をしてんのよっ」とアイコンタクトを送るも、彼女は気にせずその書類に目を通す。

 このまま静かにしていれば、この女が用を済ませて校長室から出て行くかもしれない。そうすれば、無事校長室から出られるとかすかな期待を抱いたその時だった。

 『ピピピピピッ』というポケベルの音が静寂を切り裂く。

 私はポケベルを急いで切断するも、次に女性から聞こえてきた言葉で無駄だったと悟る。

「机の裏に誰かいるんですか?」

 私はその言葉に胸騒ぎと共に嫌な汗がドッと吹き出すのを感じた。

 机の下で焦燥感に駆られながら私は何とか助かる方法を模索していると、ミロクは取った書類を一枚ポケットの中に入れて私の肩に手を置く。

「私がカウントを取るから1と言ったら銃をあの人の肩より上に3発撃って。あの人が銃から身を守ってる間に窓を割ってそのまま逃げよう」

「暗闇なのに肩より上に撃てって…それにここ4階よっあんたわかってる!?」

 ミロクのあまりにも無謀な発言に私は声を殺しながらも思わず大きな声を出してしまう。それでも彼女は自信に満ち溢れたような笑顔で私の耳元で囁く。

「信じて。ニアだけは絶対に守るから」

 こんな奴信じるなんてどうかしてる。でも今ここで信じることのできる相手はミロクしかいない。私は目を瞑り一つ深呼吸すると、覚悟を決めて両手でグリップを握る。引き金に人差し指をかけた私は、暗闇で姿の見えない彼女の方を凝視する。

 こちらに向かって不審がっているのか、ゆっくりと歩く彼女の右肩よりも上に勘で照準を合わせる。

「3……2……1っ!!」

 ミロクの合図と共に私はトリガーを引く。銃口から発射された3発の銃弾が彼女に向かって一直線に飛んでいく。

 「ギャアッ」という甲高い声と共に彼女は銃弾から身を守るために体を屈める。

 さぁ、これからどうするつもりとミロクの方を見ると、突然有無を言わさず、私の腰と肩に腕を回し、私に密着するとミロクは窓によりかかる。

「ちょっ!?何っ」

「ニアッごめん」

「え?」

 言葉を返す間もなく、彼女の手が私の上から重なり、背後の窓に向かって銃の引き金を強引に引いた。

「っ――!」

 鋭い発砲音とともに、ガラスが四方に飛び散る中、窓という支えがなくなった2人分の体は重力に引かれながら窓の外へと投げ出された。

 一秒にも満たない浮遊感。

 しかし、その浮遊感はすぐに重力によって加速され地上へと落下する感覚に変わる。

 恐怖のあまり叫ぶことすら忘れ、私はただただ目を瞑りミロクにしがみつく。しかし、落下する感覚は長く続かずすぐに体が地面に叩きつけられる衝撃が全身を襲う。しかし想像していたよりも痛みは少なくて、恐る恐る目を開けてみると目の前には私の下敷きとなったミロクの姿があった。

「…ね?ニアだけは絶対守るって言ったでしょ」

「ばっかじゃないの!?あんた額から血が出てるじゃないっ」

 急いでミロクに覆いかぶさっていた私の身体を起こし、彼女の前髪を上げてハンカチで傷口を抑える。

「傷は思ったより浅いわね……体は痛くない?額以外どこか怪我した?」

「ニアお母さんみたい」

 おどけたように笑って私を茶化すミロクに私は安心して無言で頭をチョップする。

「私は全然大丈夫だから早く逃げよう。ここにいたら私たちが侵入したってバレちゃう」

「…そうね。ルボフには今連絡できないけど多分逃げてくれてることを願うわ」

私たちは急いで校舎の影に身を隠しながら、灯りのない裏道を抜けて走る。

幸いなことに、逃げる途中で誰にも鉢合わせることはなかった。

「はぁはぁ……ここまで来れば、大丈夫そうね」

息も絶え絶えに私は壁によりかかって地面に座り込む。ずっと張り詰めていた緊張が解け、体の力が抜けていくのを感じる。

ミロクを見てみると私以上に息が上がっており、額から流れ落ちる血を手で拭っている。

「それにしてもあんなところから落ちたのに額を怪我しただけなんて、奇跡ね」

「奇跡かな…あはは」

私の軽口にミロクは力なく笑う。

「とりあえず、ルボフ生徒に合流するためにも私たちの部屋に戻ろう」

「それにしても、ここまでしたのに脱走に関する情報はほとんど得られなかったなんてきついわー。ルボフまで巻き込んだ計画だったのに、どんな顔して報告すればいいか……」

さすがにあの状況であれだけの書類を取ってくることはできなかった。わかっていたけど、この作戦はあまりにも無謀だったと今更後悔が押し寄せる。でもルボフ生徒を巻き込んだ以上もう後戻りはできない。

私は自分の頬を軽く叩くと立ち上がり、ミロクに「行きましょ」と手を差し伸べたその時だった。

ミロクのポケットから何か白い畳まれ四角みたいなものが落ちる。

「なによこれ?」

私は特に意味もなく拾い上げると、それは先ほどミロクが机から抜き取ったと思われる1枚の書類だった。

「いや、あっ!返してよ」

 私が小さく畳まれていた紙を広げて首を傾げると、ミロクが慌てて書類を私から奪いとろうとするので私はその書類を頭上高くにあげる。

「何よ、もうすでに私はあの胸糞悪い資料を読んでるのよ。今更隠すことないじゃない」

ミロクの行動に訝しむような視線を送る私を見て、彼女はため息を一つこぼすと諦めたかのように再び肩を竦めた。

 内容は脳移植の工程や実験結果など先ほど見た書類と何ら変わりはなかった。

 違うとすればその実験は今までのただの脳移植の研究ではなく『脳を移植した体にさらに脳を移植することはできるか』という人体の限界を試す実験がされその結果が記されていたことだ。

 そこで生み出された『被験体No.369』は普通の女性の体格、体力共に変わらないが、移植された脳の記憶を消費する量に比例し肉体が常人の数倍の筋力や瞬発力、そして回復量を生み出すという副作用を生んだ初の被験体と記載されていた。

「No.369は実験を重ねた後、現在『王立イアンティネ指揮官学校』の生徒として在学している。監視する際に貴重なサンプルである被験体が逃げ出さないためNo.369だけ…真っ赤な制服を着ている…?」

 一通り目を通し私が顔を上げるとミロクの瞳は動揺を隠せずその表情は青ざめていた。彼女が何を考え何に怯えているのか私にはわからないがが、私の服の裾を掴む彼女の手は震えていた。

「ごめん、キショいよね。体は誰かので記憶もほぼない人間なんて…あわよくば記録消そうてしちゃってて気持ち悪いよね…」

「……ミロク?」

「本当はニアの先輩の話をきいたとき、自分と同じ目にあってるってわかってのにそれが言えなくて…言ったらダメな気がして知らないふりしちゃって…ごめんごめん…ごめんなさい」

 ミロクはうわ言のように私に謝罪の言葉を述べながら私と一歩一歩距離を取っていく。

 先ほどまでの飄々した態度は見る影もなく、震えながら目に大粒の涙をため今にも泣きだしてしまいそうな表情に私は何も言えずただ立ちつくす。

「でも泣きじゃくってるニアを見て、ニアを救いたいって思ったのは本心だよ。ミロクみたいな同じ目に合わせたくなかった。体を乗っ取った側の人間であるミロクが言っちゃだめってわかってるけどニアを守りたいって思った」

 私を突き放そうとして伸ばした彼女の腕を、思いっきり引っ張り、ミロクの体を自分に引き寄せる。

 生意気で、誰よりも優秀で、誰よりも達観していた彼女が、今はまるで壊れかけたガラス細工のように脆く見えた。

「あんたが私のこと、どう思ってるのかは知らないけど……言って欲しかった。ちゃんと」

「ごめん」

 こっちを見ずにずっと俯くミロクに少し苛つき、私は「ドーン」と言いながらミロクの肩を押す。不意をつかれたミロクはよろけた拍子に私の顔を見上げる。

「これでお互い様だから…もう謝んのはやめなさい」

 私は顔を背けてミロクに左手を差し出すと、彼女は何も言わずその手を握る。

「あんたの体が誰かのものでも、記憶がなくても、そんなの関係ないわ。今、私の目の前にいるのは、うざいバディ兼ルームメイトの『ミロク』で、私を助けてくれたミロクなんだから」

きっぱりと言い切った私に、目尻の涙を指で拭いながらミロクはかすかに笑った。

「……それって、慰めてるの?」

 涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、けれど心の奥から少しだけ軽くなったような笑みだった。

 私たちの部屋に戻る帰り道、そこに会話はまったく無かったけれど、それでも二人の間に存在する繫がりは前よりかは少し強くなれた気がした。

 そんな私たちの様子を陰から見ていた大人がいたことにも気付かずに。



「それでわざわざ校長室まで行ったのに地図とかそういう脱走に関する情報を獲得できなかったの?」

「めんぼくない、ルボフ生徒」

 校舎の窓に背中を預けて外の風景を眺めていた私は、ルボフとミロクのやり取りに振り返る。

「二人とも今ここ学校でその話をしないで。特にここでは」

 小声でミロクたちに訴える。

 昨晩あの後、ルボフにすぐ接触するのは危険だと思った私たちは、次の日食堂で朝食を食べる際に詳細を話そうと提案し。朝を跨いで今に至る。けれど、今の私たちは食堂にいない。では、どこにいるか。

 それは校長室前だった。

「やっぱりすぐ校長室に侵入をしたのか探りを入れるとは思っていたけど……まさか早朝4時とこんなにも早く集めさられるとはね」

 疲れた体を休めるべくベッドで眠っていると、急な寮内アナウンスとともに、私たち含めた中等部1年以上の生徒たちはすぐさま校長室前へと並ばされた。

 生徒たちは一人ずつ順番に呼ばれては校長室に入っていく。

 中で行われているのは、おそらく――尋問。

 その尋問はすでに二時間が経過し、ようやく高等部の番がまわってくる。

 寝ているときに至急校長室前に呼び出されたため、ほとんどの生徒が寝巻き姿のまま廊下に並び、なにごとかと低く抑えた声で、ひそひそと憶測を交わし合っている。

「尋問されても、私たちは表彰式からはやめに切り上げ、部屋に帰って寝てたと証言すること。わかった?」

 私はミロクとルボフに小声で伝える。この三人のうちひとりでも口を滑らしたら、私たちはもうおしまい。早めの死かそれ以上のものが確定する。

 先輩のために生徒一人一人に目をかけて密告していた時もきつかったけど、これはさらに精神的にきつい。

 先輩のために生徒一人一人に目をかけて密告していた時もきつかったけど、これはさらにきつすぎる。一人の命を背負うのも重いのに三人の命を背負うのはさらに荷が重すぎるわ。

「アニア・スカーレット・イリイーナ生徒。次はあなたの番です、中に入ってください」

 私が憂鬱な気分になっていると、寮の管理人が校長室の扉の隙間から私に声をかける。私はふたりに目配りし、重い足を引きずりながら校長室へと入る。

校長室の中は外のざわめきとは打って変わって静寂に包まれていた。

「あらアニア生徒、おはよう。昨日はよく眠れたかな?」

昨晩きたときと特に変わらない、高い天井と重厚な木製の書棚、壁には古い紋章と肖像画がずらりと並ぶ、格式ばった空間のその中央にはレスキナ教官が机に腰をかけていた。

私はその言葉に返事をする前に、ふと視線を室内の奥へ向ける。

レスキナ教官の背後にある大きな窓は、昨晩、私たちが逃げる際に割ったままの状態だった。

床にはガラスの破片がまだ散らばっており、朝の風が吹き抜けるたびにカーテンがはためいている。

「はいぐっすりと」

「そう。管理人、椅子を」

管理人はレスキナ教官に言われた通り、椅子を私とレスキナ教官の前に置く。

「時間がないからさっさと本題に入るわ、君がこの校長室に侵入した。そうだろう?」

 彼女の単刀直入のその一言に、まるで心臓ごと凍りついたかのように体が震えた。

 全身の血が逆流するような感覚に襲われ、足元がふらついて座っているのでやっとになる。この質問がくることくらい私はわかっていた。

 ただこんなにもすぐ、はっきりと言われると思っていなかった。

 感情を表に出すな、震えるな。自分を保て、じゃないと死ぬわよ。

 内心でそう言い聞かせながら、私は震える身体をゆっくりと押さえ込むように深く息を吸い込んだ。

「なんのことでしょうか?」

「この窓を見てもわからないかな」

 すると彼女は少し口角を上げて微笑む。

「昨日表彰式の時間帯にこの校長室に侵入した生徒がいたと、たまたま目撃した人がいる。名は言えないが、彼女は確かにこの校長室でみた。生徒は二人組、影から見るに二人は女子生徒だろうとその人は証言した」

 レスキナ教官はそう言いながらバコの箱から一本を取り出し、唇に咥えた。

「人に目撃されたのにも関わらず、冷静に暗闇だという利点を利用し、この窓から脱出した。かなり度胸のある生徒だ。そんな生徒、かなり数は限られてくる」

 マッチで火を点けタバコの先に近づけると、炎が紙を焦がす音が微かに聞こえる。

「そう例えば君とか、ミロク生徒とか」

 彼女は深く息を吸い込んでから、口から煙を吐き出すとともにその言葉を吐く。白い煙がゆっくりと広がり、彼女の顔の前で薄い幕を作った。

「残念なことにそれは私ではありません。第一私が報告以外の理由でこの校長室に入る理由がないです」

「知っているかしら、この校長室には金庫があるの。中に何が入ってるかわかる?」

 もちろんわかる。昨日私たちが開けたのだから。

「さぁ、普通に考えて金庫に入れるということは貴重なもの。お金とか宝石類などでしょうか」

「ハズレ。正解はその中には資料が入っていたの」

 彼女は口から煙を吐き出し、目にかかる金髪を手で払うように耳にかける。机から立ち上がったレスキナ教官はゆっくりと私のもとに歩み寄る。

「そして資料を一つ一つ見ていたところ、一枚だけ抜かれていたことがわかった。なんの資料かわかる?ミロク生徒のよ」

 やはり責められるとしたら、あの書類か。一体なぜそこまでしてあの資料を盗む必要があったのよ、まったく。

 レスキナ教官は座っている私の前に立ち、私に視線を合わせようと少しかがんで私の顔を覗き込む。

「私はね、あなたを信頼しているの。今までも正確な生徒たちの情報を私たちに伝え、毎週優等生として生きたあなたを。あなたが寮に仕掛けてくれた盗聴器すごく助かってるわ。だから教えて欲しいの。あなた表彰式の時間どこにいたの?」

「信頼してくれるのは嬉しいですが、残念ながら私は校長室ではなく夜風にあたりに外にいました」

私がそう答えると、次の瞬間、彼女はゆっくりと手を伸ばし、私の首筋に指を添えた。そして口に咥えていたタバコの火を私の手の甲に押し付ける。

「正直に答えなさい」

 手の甲に直に火を押し付けられあまりの高熱に、ついに耐え切れず私は思わず短く悲鳴を上げた。

「……っ。証拠はあるんですか?」

「いいえ残念ながらないの。髪も制服の繊維落ちていないし、指紋も残っていない。手袋をつけていたのね。でもあなたが答えてくれればこれで終わるの。さぁ答えてるんだ、この校長室に侵入したか?」

 彼女の長いまつ毛が目元に影を作り、艶めかしく光る唇が開き声を発す。彼女の瞳孔がゆっくりと動き、私はその瞳の中に吸い込まれるような感覚を覚える。

 周りの音が聞こえず自分の心臓の音だけがやけにうるさい。目をそらせばいいだけなのに、体は全く動かないし呼吸すらままならない。でも私は彼女から目を逸らさなかった。逸らした瞬間に、その一瞬で私はきっと終わってしまう気がしたからだ。

「校長室に侵入なんかしていませんっ」 

 私は彼女の目を見て、はっきりと否定する。

 しばらく沈黙が続いた後、レスキナ教官は首から手を離す。その瞳には先ほどのような圧はなく、どこか優しさすら感じた。 

 私の手の甲に押し付けていたタバコをカーペットの上に落とし、踏みつける。

「管理人。次の生徒を呼んで、彼女じゃないようだ」

「かしこまりました」

 管理人は私たちの会話の成り行きに動揺することなく、すぐさま席を立ち扉の方へ歩き出した。レスキナ教官はゆっくりと私の元から退くと椅子の方に戻って腰掛ける。そして一息つき私を見る。

「タバコをおしつけてすまなかった。どうしても侵入者を探さないといけなくて、正直参っているの。てっきり君だと思ったけど違うみたいね」

「だから最初からそう言ってます」

「すまない、今の件は水に流して今後もいつも通り報告よろしくね。君みたいな優等生がいないと学校側も困るの」

「わかってます。では」

 私は立ち上がり、扉へ向かう。やっとこの部屋から解放される…逃げ出せる。

「あっ、そういえば」

 扉に手をかけた瞬間、背後からレスキナ教官の落ち着いた声が響き、私は思わず動きを止める。急になに?やっぱりまだ私を疑ってる?なんなの。

「ディア生徒を覚えてるかしら?」

「ああはい」覚えてるに決まっているだろう、最後を見とったのは私だ。

「あの子妊娠していたらしいわ。助かったわ戦場で死んでくれて、中絶を説得するって大変だもの。仕事が減って大助かり」

 その瞬間、私の中で何かが崩れる音がした。そしてすべての記憶が鮮明に呼び起こされた。あの戦場の光景、血の匂い、そして彼女の最後の言葉と顔。

 私はゆっくりと振り返り、レスキナ教官を見る。その目は先ほどとはうって変わり、まるで虫けらを見るような冷たい目をしていた。

「あなたもそう思わない?」

レスキナ教官の返事を聞くまでもなく、私は扉を開けると廊下へ出た。ミロクが管理人に呼ばれるのを傍目にみながら、私は列に並ぶルボフに「外で待ってる」とだけ伝えて私はその場を去る。

頭の中では彼女の言葉だけがずっと繰り返されていた。

ディア生徒、妊娠してたんだ……お腹の子は一体何か月だったんだろう。パンラオイス生徒はそのことを知ってたのだろうか。

頭の中がぐちゃぐちゃに渦を巻き、思考と感情の境界が溶けていく。

私の中で「妊娠」という言葉が、ディアの命の重さを何倍にもしてのしかかっていた。何かに引っかかったわけでもないのに、足元がふっと浮いたように感じた。バランスを取ろうと手を伸ばしたが間に合わず、私は無様に床に倒れ込んだ。床にぶつけた膝がじん、と鈍く痛む。

「痛いわねぇ……もう……」

倒れたまま、私は吐き捨てるように独り言を呟き、立ち上がり歩こうとしたところで気づいてしまった。

目元が濡れている。それは最初は小さな涙の粒だったのに、やがて視界が霞むほどの量の涙がぼろぼろと零れ落ちた。

悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい…くやしい。

もっと私が強ければディア生徒も…お腹の中の子も救えたはずだ。

 野営地にて私の腕を握った彼女の手はあたたかく、彼女の笑顔も彼女の脈打つ心臓も、全て彼女が生きていた証だった。

 それを私が殺してしまった。

 自分の能力が足りていなかったせいで、彼女は私を庇い、そして彼女は死んでしまったんだ。足を引っ張らないでだって?足を引っ張って班員を殺したのは私じゃないか…。

 私は自分の班員一人守れないで……何が実力試しだよ…人一人でも守れるようになってから実力試しとか言えよ、私。

 あの時だって結局ミロクが助けてくれなきゃ私どころかあの男子生徒も死んでいた。

 結局私は誰も守ることはできないんだ。

 悔しくて悔しくて…そしてどうしようもなく悲しかった。

 自分が無力であることを自覚するのはとても辛いことだった。

 自分を傲り高ぶり、自分は優秀であり、班員くらい守れると思い込んでいたからだからあんな事態を招いたんだ……。

 もしまた今回の脱走でもルボフとミロクを守れないどころか危険にさらしてしまったら、私は死んででも償い切れない。

「いや違うだろ……命に代えてもふたりを守り通す」

償うとか弱いという言葉を使って、もう逃げない。私は袖で涙をぬぐい、頬を両手の手のひらで叩く。

「アニアちゃんっ!」

その時、私に呼びかける声が聞こえ顔をあげる。そこには駆け足で私の元へ走ってくるルボフの姿があった。

「あれ…?ルボフ、尋問は?」

「アニアちゃんの様子がおかしいと思って、順番をあとにまわしてもらったんだ」

そう言って心配そう見つめるルボフが、そっと手を差し伸べてくる。

「アニアちゃん、大丈夫?」

 その手はあたたかくて、どこか懐かしい温もりがあった。私は迷わずその手を取る。

「……うん、大丈夫。ありがとう、ルボフ」

 ルボフに引っ張り上げてもらって、私は立ち上がる。握られた手からそっと視線をあげルボフの顔を見ると、視線が交わり目が合う。

 しかしお互い突然気恥ずかくなり、顔を背けて手を放した。ルボフの手が離れた後もその余韻だけが私の手に残り続ける。

「いやいやお二人さん、仲良くしてるねぇ。熱々だねぇ」

 そんな声とともにニョキッと背後から手が伸びて、私とルボフの肩が抱かれる。

「……ミロク、あんたいつの間に。尋問は終わったの?」

「うん、もうばっちし!」

 ミロクは親指を立てて、にっと笑う。

「さてさて役者が揃ったところで。作戦会議でもするべく食堂に行ってちょっとはやめの朝食でも取らないかね?」

「それはあんたがただお腹が空いているだけでしょ」

「バレたか」

 舌を出して笑うミロクに、私は呆れてため息を吐きながらもニヤリと笑う。

 ルボフは私を支えてくれた、ミロクは背中を預けてくれた。

 ならば今度は、私がその背中になる番だ。

 それがきっと私が、まだ生きている意味だ。

 そう思いながらポケットを探った指に何か紙切れのようなものに触れる。私は無意識にその紙切れをつかみ、取り出した。

「なにこれ」

 メモ帳の切れ端のような小さな紙には、特徴のない文字でこう書かれていた。

『昨日あなたたちがしたことを知っているのは私だけ』

 背筋が凍るのと同時に心臓が大きく脈打つ。私が持っていた紙切れをミロクとルボフは覗き込み内容を確認する。

「もしかして、これ……レスキナ教官?」

「わからない。でも反応しないで、ニア。もしかしたらどこかから私たちの反応を見て、確信を深めようと見られているかもしれない。だから平常でいて。紙はミロクがもっとく」

 私はそのささやきに小さく頷き、その紙切れを素早くミロクに手渡し、それを受け取った彼女は制服の胸ポケットにしまう。

「さぁて食堂にれっつらごー」

なにもなかったかのように明るい声でミロクは階段を降り始めると、私たちは急いでミロクの後を追った。





 春も終わり夏が身近になり、日は長くなったことで夕方だというのにまだ外は明るい。窓の下枠に体を預けて座り、テープレコーダーを聴きながら空を眺めていると射撃訓練を終えたルボフが私の隣に腰を下ろした。

「訓練をサボるなんてアニアちゃんらしくないね。ここ最近ずっとそんな感じだ」

「前までは卒業した先に指揮官としての未来があると思ってたから真面目にできたのよ。今はそんな未来がないことを知ってるから…なんか今まで自分が頑張ったものが馬鹿みたいで」

 私はテープレコーダーを止めてイヤホンを外すと、大きく伸びをする。

 最近は授業を受けても内容は頭に全く入ってこないのに、習慣というのは恐ろしいもので無意識のうちにノートだけは取り続けてしまう自分自身に呆れる。

「アニアちゃんが今まで積んできたものを俺は馬鹿みたいとは思わないよ」

 私と同じように窓の外を眺めながらボソッと呟くルボフの横顔を私は盗み見る。

「指揮官になれないとしても、今まで16年間積んできた実績が脱走した後、何かに繋がるかもしれないじゃん。馬鹿みたいなんて言わないでよ」

「何かって、何よ?」

「それは…わからないけどさ」

 ルボフの曖昧な反応に私は軽く吹き出すと彼は照れくさそうに、自分の髪をくしゃくしゃと掻きむしる。

「アニアちゃんは、この脱走が成功するとか思ってる?」

「思ってるわけないでしょ…でも1パーセントを信じたいとは思ってる」

「1パーセント?」

 私は窓の外を見つめながらルボフの質問に対してゆっくり頷く。

「ミロクっていう考えが読めなくて意味がわかんない1パーセントに私は…なんでかわかんないけど賭けてしまってるのよね」

 私は軽く自分の口元が緩むのを感じながら、ルボフの方に顔を向ける。私と目が合った彼は少し驚いた顔を見せたがすぐに歯を見せて笑った。

「アニアちゃんは絶対にギャンブルに向いてないね」

 私は立ち上がり尻についた埃を手で払い落とし、ルボフを見下ろす。

「そうね、案外私にも向いてないものはあるみたい」

「おーい二人とも何してんの?」

 顔を上げると、窓の外から向側の校舎にいるミロクが身を乗り出しながら、私たちに手を大きく振っているのが見える。私とルボフはそんな呑気なミロクを見て、お互い顔を見合わせるとどちらともなく笑いが込み上げる。

「私もそっち行くから待っててー!」

 ミロクはそう叫ぶと窓を閉めて、バタバタと走り去っていくのがこちらから見えた。

「アニアちゃんはミロク生徒に出会ってから変わったね」

「変わった?どういうふうに?」

「前よりずっと、素直になったと思う。人に頼るのが少しだけ上手になったっていうか……昔のアニアちゃんは、全部ひとりで抱え込んじゃってたから」

 ルボフのその言葉が、胸の奥にじんわりとあたたかく広がっていく。

 それはすごく不思議な感覚で、でも嫌じゃなくて少しむず痒いような気持ちだった。これが成長という感覚なのだろうか。

「でも……頼れる人が僕以外にも増えたんだなって、なんか少し寂しく思うよ」

「はぁ?なんであんたが寂しく思うのよ?」

 私の問いかけにルボフは、少し間を置いてから口を開く。

 そのルボフの表情はどこか寂しげで何か言いたげだったが、すぐに彼はいつもの明るい表情を見せてはにかむ。

「なんでだろうね、俺もわかんないや」

 ルボフはそう言って立ち上がると、座っていた彼を見下ろしていた私が今度は見上げる番になる。

「ふーん。そう」

「ごめんなさい二人とも。ちょっとお願いしていいかしら」

 私たちの背後から急な声がかかり振り返ると、箱を何個も抱えた管理人が私たちのほうを申し訳なさそうに見つめていた。

「本当は寮に送られる予定だった荷物が間違って、学校の方に送られちゃって…もしよかったら手伝ってくれないかしら?」

 私とルボフは顔を見合わせ、そして再び管理人の方を見ると彼女も困った表情のまま私たちを見つめていた。

「今ちょっと友達を待ってて…その子が来るまでちょっと待っててくれますか?」

「ええ、もちろん大丈夫よ。本当にありがとう…助かったわ。この箱まあまあ重くて…」

 管理人は私たちに一礼すると、箱を床に置き額の汗を拭う。あまり話すことのない私たちは少し気まずい空気の中、ミロクが来るのをただ待つ。

 管理人も管理人で会話の糸口を探しているのか、そわそわと落ち着きがなく床に置かれた箱に目をやる。

「はぁはぁ…ああっごめん二人とも待った?」

 真っ赤な制服のスカートを揺らして走ってきたミロクの姿を見て、私とルボフは安堵のため息をもらす。

「あっ、管理人さん。どうもです」

「この方の手伝いをすることになったの。あんたも手伝いなさい」

「えぇ!?今こんな汗だくになって走ってきたのに…?そんなぁ」

 私とミロクのやり取りを見て、管理人はちょっと申し訳無さそうにしながら微笑んだ。

「本当にごめんなさいね。運び終わったらお茶でも出しますから」

「全然大丈夫ですっ、どんどん運んじゃいましょう!!」

 管理人のお茶という言葉にミロクは瞳を輝かせて、床に置かれた箱を2つずつ持ち上げる。

「女の子がそんなに持って大丈夫かしら?結構重いから気をつけてくださいね」

 心配そうに言う管理人をよそに、私とルボフもお互い2つずつ箱を持ち上げる。確かに少し重いがこのぐらいなら毎日訓練を受けている私たちにとって軽々と持てる重さだ。

「…なんか全部持たせて悪いわ。アニア生徒の箱を一個私が持たせていただけないかしら」

「いえ、これより重いものを毎日訓練で持っているので結構です。それより、この箱を管理人室まで運べばいいのですよね?」

 私は管理人にそう確認をすると、彼女は「そうですよ」と申し訳なさそうに頷いた。荷物を持ち管理人室に向かう途中、私より少し歩幅の大きいルボフに私は、追いつこうと駆け足で歩き、軽く肘で彼を小突く。

「悪かったわね。私と一緒に話してたせいで巻き込まれちゃって」

「アニアちゃんのせいじゃないよ。俺が選んで一緒に手伝うって決めたんだからさ」

 ルボフは横目で私を見て微笑むと、歩みを遅くし私の横に並ぶ。管理人室がある寮に向かうため、私たちは靴箱で靴を履き替え外に出る。

 ふと、前を歩くミロクに視線を向けると管理人と楽しそうに談笑しながら箱を運んでいるのが見えた。

 私は人と馴染むのが苦手な上、こんな性格だから友達と呼べる人はルボフしかいない。だけどミロクはあまり話したことのないルボフともすぐに打ち解けて、あの管理人とも何気ない会話ができて、私は少しそれが羨ましかった。

 二人の背中を眺めながらそんなことを考えているとミロクは私と目が合う。

 笑顔を振りまきながらミロクは私に向かって大きく手を振る。

 そんな仕草に少し気恥ずかしさを覚えながらも、私も小さく手を振り返した。

「はぁぁぁ疲れたぁ…ちょっとタンマ」

 ミロクは管理人室前に着くと、床に箱を置き扉の前に座り体を丸める。

「ごめんなさいね、疲れてるのはわかってるんだけどもしよかったら奥の部屋まで箱を運んでくれないかしら。その間に紅茶を作りますから」

 それを見た管理人は鍵穴に鍵を挿し込み、ガチャリと扉を開けると私たちに中に入るように促す。

「いえ、紅茶は結構です。ミロク、あと少しだから箱くらい持ちなさいよ」

「えぇ〜そんなに言うならニアが持ってよ」

 ミロクと私は箱を間にしてお互いを押しのけ合うが、ルボフが間に入る。

「アニアちゃんは持たなくていいよ。俺が持つ」

 すると彼は軽々とミロクの分の箱を持ち上げ、ミロクを見下ろして微笑む。ミロクはルボフを見上げながら自身の制服のネクタイを緩める。

「へぇ。ありがとう」

 よくわからないがこの瞬間ミロクとルボフの間に、異様な空気が流れたのを私は感じた。

「どっちが運ぶかはどうでもいいけど、早く箱を運ぶわよ」

 私は二人の間の空気に耐えきれず、そう急かすと睨み合いをやめ、奥の部屋に荷物を運んでいく。管理人室の奥は倉庫になっており様々な物が雑多に置かれていた。

 倉庫の一番奥には、大きなテーブルがありその上にはノートや本が山積みになっていた。私はテーブルの上に箱を下ろすと、その横でルボフも持っていた箱を置く。

「思ったより整理されてないのね。あの管理人、神経質そうだからそういうの結構気にするって思ったから意外」

 初めて入った空間に少し興味を持ちふと周りを見ると、本棚の上に積まれた本やノートが今にも崩れそうな不安定な形で積まれていることに気がつく。私は安定させようと背伸びをして本棚の上まで手を伸ばすが、ギリギリのところで届かない。

 もう少しで届くというところで私はバランスを崩してしまい、後ろに倒れそうになる。

「危ないっ!!」

 瞬時に背後から伸ばされた腕に支えられなんとか倒れずに済む。一瞬何が起こったのか理解できなかったが、横を見ると少し息の上がったミロクが私の体を支えてくれていた。

「はぁはぁ、間一髪」

「あ…ありがと」

 私が体勢を立て直し床に足をつけると、ミロクもゆっくり私の体を支えていた手を下ろす。

「アニアちゃん大丈夫!?怪我してない?」

 慌てた様子で隣に立っていたルボフがこちらに駆け寄ってくる。私は床に置いた箱に腰をかけて、服についた埃を払い落しながら頷く。

「大丈夫よ、大袈裟に心配しなくてもいいから」

 それでもルボフは私の顔を心配そうに覗き込む。私はそんなルボフの頬を両手で軽く挟むと、彼は少し驚いた顔を見せる。

「大丈夫って言ってるでしょ」

「…うん」

 少し照れた様子で頬をかくルボフを横目で見ながら、立ち上がるとテーブルから乱雑に置かれていた本を手に取る。

 その本は表紙がかなり色あせており、年季が入っていることがわかる。パラパラとページめくると、中には見たことのない言語で書かれた文字や人の体の構造が書かれているものや、地図のようなものが描かれていた。

 私が本に興味をなくし閉じようとした瞬間、本の隙間から一枚の写真が落ちる。

「私も最近よく物を落とすわね…」

 ため息をつきながらその写真を拾い上げると、私はしばらく思考が停止してしまう。何故ならそこには脳がむき出しになった二人の人間が写っていたからだ。

 脳の周りには複数の管がつながれていて、二人の生きているとは思えないような見た目に私は恐怖を覚える。

「ミロク…これを見て」

 私は緊張で震えた声を精一杯振り絞り、写真にうつる脳を指差してミロクに見せようと前を向く。しかし、その視線の向こうにいたのはティーカップと砂糖入れをお盆にのせた管理人だった。

「あら?一体何を見つけたのかしら、アニア生徒」

 ミロクの隣に立っていた管理人がテーブルの上にお盆を置いて、ゆっくりと私の顔を見ながら微笑む。その微笑みに私の背筋が凍り付くように冷たくなるのを感じた。

「いえなんでもありません。次の授業が始まるわ、二人とも教室に戻るわよ」

 私はこの場から早く立ち去りたかった。ミロクとルボフの返事を聞くことなく、写真と本を管理人室に置いて倉庫から出ていこうとする。

 そんな私を管理人は引き止める。

「そんなに慌てて出なくてもいいじゃないですか。紅茶くらい飲んでいったらどうです?」

 カップにポットで紅茶を注ぎながら、椅子に座るよう私たちを促すが、ルボフは椅子に座らず私を庇うように前に立つ。

「いえ俺たちはもう行かなきゃいけないんで……失礼します」

「そうですか…あっ!でももう次の授業まで時間ギリギリじゃない。せっかく手伝ってくれたのに、3人共遅刻させたら申し訳ないわ、ちょっと待ってて」

 そう言って管理人は近くにあったメモ帳をちぎり、ボールペンでサラサラと文字を書き込む。そしてその紙を折り畳むと私に差し出した。

「私を手伝ったせいで授業に遅れたとしっかり書いたから、次の授業の教官に見せてください。これでお咎めはないはず」

「ありがとうございます」

「ありがとうございます」

 私は紙を開き中身を確認すると、管理人の字で書かれたその文にどこか奇妙な違和感を持った。この字はどこかで見たことがある、それもここ最近…今日見た。

 私は紅茶を呑気に飲んでいるミロクの胸ぐらを掴かむと、制服の胸ポケットに強引に手を入れる。

「あっ!ちょっ、ニア待って…こんな人前で大胆な」

 ミロクは頬を赤らめながら私に制止するよう呼びかけるが、私は無視して胸ポケットにしまい込んだあのメモを無理やり引っ張り出す。

 そして全てのピースが合わさり、私の中で一つの答えが浮かび上がる。

「あんたがこんなふざけた紙を私に送った目撃者なのね」

「え?え?」

 ミロクとルボフは状況が全く理解できていない様子で、困惑した様子で私と管理人を交互に見る。先ほどまで自信がなさそうな表情をしていた管理人は、今は不気味な微笑みを浮かべて私を見つめる。

「そうです。あなたたちの犯行を昨晩全て目撃したのは私です」

「えっ?まじで?」

 ミロクが素っ頓狂な声を上げ、管理人は楽しそうに「ふふっ」と笑う。

「感謝してほしいですよ。たまたま校長室の掃除に来て鉢合わせしたのが私でよかったけどですけどねぇ、これがレスキナ教官や他の教官だったら一発であなたたちの計画は…ドンよ」

「で、私たちだと知っていたのにレスキナ教官には言わなかった理由はなに?一体何が目的なの?」

「取引を行いたいのですよ。あなたたちと」

 そう言いながら私が握りしめていたメモ用紙を優しくぬき取り、その紙をいれたばかりの紅茶の中にポチャと捨てた。メモ用紙は小さな泡を立てながらみるみる変色していき、そして最後は黒い紙クズのように変わる。

 空はもう陽が傾き始め真っ赤な夕焼けが空を支配しつつあった。そんな光景を一瞥して、管理人はゆっくりと私の前に立つ。

「この学校の情報も脱走経路も全て教えます…だから私も脱走に付き合わせて」

 笑みすら浮かべずまじめ腐った瞳を私に向けた管理人は、いきなり私に右手を差し出す。予想だにしていなかった展開に私は戸惑い、ミロクとルボフの反応も気になって後ろをちらりと見るも、二人は私以上に困惑した様子で立ち尽くしていた。

 レスキナ教官に私たちのことを密告しなかった時点で、何かを求めてくるとは思ったがまさか寮の管理人という安定した地位を捨てて私たちの脱走に加担するどころか、自分も脱走するつもりでいるなんて予想していなかった。

「校長室からたいした情報を盗めてないんでしょ?昨日のあなたたちが荒らした資料を見たら一目瞭然。でも私の取引を受け入れてくれるなら私が持ってる脱出に必要な資料を全てあなたたちにあげるわ。脱走するなら私の情報が必要よっ!!」

 懇願にも似た管理人のその叫びに私は唾を飲み込む。もし管理人が言ったことが本気なら、私たちはかなり心強い協力者を得れる。本当に管理人が脱走の計画に加担する気なら……でもそれは罠かもしれないという不安に私は襲われる。

「おっけーじゃあ取引を受け入れましょう」

 脳を酷使してまでこれを受け入れるべきか悩んでいる私を差し置いて、ミロクは管理人に差し出された右手を躊躇なく握る。

「はぁ!?こいつが裏切らないって保証できないのに、あんたマジで言ってんの?」

「うん。だって協力なしにがむしゃらに情報をさがすの大変だし、こっちの方が圧倒的に簡単に大量の情報を得られるじゃん」

「そうかもだけど…」

「それにこの取引…私たちには圧倒的に不利なんだもん」

「えっ?」

「だってこの取引断ったら、私たちがやってきたこと全てこの管理人さんは多分校長や教官たちに言うよ。そしたら校長室侵入どころか脱走計画までバレて私たちは卒業する前に脳移植に回されちゃう。だから私たちにできることは一つだけ」

 人差し指を私に見せつけるように立てて、ミロクは流し目で管理人を見つめる。

「管理人を私たちの共犯者にする」

 ミロクの立てた人差し指は、そのまま管理人を指す。

「どうやらアニア生徒よりあなたの方が賢いみたいですね、ミロク生徒」

「ニアは私より賢いよ。ただ用心深いだけ」

 差し出されたお互いの手を握りしめた管理人とミロクは、まるで昔からの友人のような親しさで微笑み合う。

「ただこの脱走は私だけのものじゃない、3人のものだからもちろんニアとルボフ生徒が嫌なら断る。だから二人の答えを教えて」

「それが最適解なら別に俺はいいよ。アニアちゃんに合わせる」

「ニアはどうする?」

 3人の目が私を突き刺す。刃物のように鋭く、鈍器のように重く、注射器のように冷たい視線に私は耐えられず視線を反らしてしまう。

 でもどうせもう後戻りはできないのだ、だったら最後までやるしかない。

「いいじゃないっ、やってやるわよ」

「交渉成立ですね」

 管理人はミロクの手を一度強く握り返すと、私の目の前に手を差し出す。私はその手を握り返すと管理人は嬉しそうに微笑む。

 そうやって私たちは共犯者になったのだった。

「一つだけ質問させて。なんであんたはわざわざ管理人という安定した地位を捨ててまで脱走を選ぶの?」

「ああ、そんなことですか」

 窓の外を眺めながらポットに入った紅茶を淡々と捨てる彼女は夕日の光で顔に影を作り、その表情を私たち悟らせないまま答える。

「許せなかったのですよ、私だけ脳の移植を認められなかったことが…」

「は?」

「この学校にいる教官や校長はみんな脳の移植をして、若々しい体を永遠に手に入れることができるのに、私はあいつらより地位が低いからってこの毎日少しずつ老いる体と向き合わなければならなかったっ。この苦しさがあなたたち若い子供にわかる!?」

  怒りを含んだ管理人の声に、私とミロクは無意識に一歩後ろに下がる。

 だが、そんなことには目もくれず管理人はテーブルをバンっと叩き、その瞳には涙が浮かび上がり頬を伝って流れるのが見えた。

「私が寮を管理して生徒が逃げ出さないように監視してるのに…私が一番大変なのにあいつらは私の脳を若い体への脳移植を許してくれなかった。それならもう第11区に住んでいる息子のもとに帰りたいんです」

「第11区?あんたは他の区からきたの?」

 管理人の瞳の大袈裟な主張に、ため息をつきながら乾いた笑いを浮かべていた私だったがグレイス帝国という言葉を聞いて管理人に詰め寄る。

「ええ、そうですよ。正確にはシュテーレン連邦第11区ローリング市に息子と家族は住んでいました。そしてここはシュテーレン連邦特別経済特区第13区仮称ドルトニア王国」

「そんなに区があるってことは他の区にさえ行ければ脱走はそんなに難しくないんじゃ……」

「確かにっ。管理人さんの協力があるなら脱走は容易に!」

 ボソッと漏らすルボフの言葉に、ミロクはテーブルから身を乗り出す。

 しかし管理人はそんなミロクを見てとっさに間に入る。

「無理よ、不可能に近いわ。例えこの学校を脱走できても、シュテーレン連邦自体が人身貿易国。だからたとえ他の区に逃れてもすぐ捕まって、このドルトニア王国に戻されて人身売買は続行されるわ」

「っ……そんな」

 息の詰まる音がミロクから聞こえ、力なく椅子に腰を落とす。私もルボフももちろんミロクのように落胆し、どんよりとした暗い空気が私たちの間に流れる。

「上が実験で唯一成功させた実験体って聞いたから期待してたけど、そんなことも知らなかったんですか?」

 管理人の瞳には先ほどの涙の跡など跡形もなく消え去り、その顔には余裕めいた笑みさえ浮かべている。

「シュテーレン連邦は他の区で子供達や赤ちゃんを取り上げたあとこの学校に連れてこられて子供の元の記憶を抹消してあたかも学校に最初からいたみたいに操作して、質の高い体を育成するの。私も最初は息子が取り上げられそうになって、身代わりとして私が来たんです」

 私たちは管理人の話す内容に言葉を失う。書類で読んだことがあるからその事実は知っていたとはいえ、資料に記された冷たい文字の羅列で知らされるのと目の前で誰かの口から、淡々と、まるで日常会話のように語られるのでは衝撃がまるで違った。

「どうせ脱走をした後学校は、高値がつくはずだった『体』あなたたち3人を血眼になって探すはず。私がいなくなっても誰も気にしません。つまりあなた達を『囮』として使いたい……そう言ってるんです」

 管理人の正直すぎる物言いに、私は嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったが逆上されても面倒なのでやめておく。

 私たちとこの管理人とは背負うリスクが違いすぎる。

 たとえこの脱走が途中でバレても、私たちに脅されて仕方なく従ったとでも言えばいいし、そもそもさっきから言っているこの息子とかの話自体が嘘で私たちを教官達に突き出すための材料が欲しいがために協力など言っているのかもしれない。

 どちらにしろ背負うリスクが違いすぎる計画はうまく行かない。これは模擬戦を指揮してきた指揮官としての経験から言えることだ。

「私は共犯である以上あなた達に正直でありたいんです。でもリスクが違う私をあなた達は受け入れることはできるんですか?」

 人差し指を私たち一人一人の顎に当てながら管理人はわざとらしく唸り最後に私を指す。全員の視線が私に向き沈黙が広がる中、私はただ一言だけ発する。

「できるわ、それが必要なことなら」

 その答えが私の考えであり、この3人の答えであると信じて。

「なら、いいです。安心しました」

 これが好手と転ぶか悪手と転ぶかは今の私にはわからない。

 ただこの取引によって3人だけではどうにもできないほど大きな壁を打ち破る王手を手に入れたということだけは確かなことだった。

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