そんかし

祐里

1. そんかし - 帰りたくないガキと俺

 やってらんねえ。

 椅子の背の上着を掴み、コンビニ、とだけ言って家を飛び出す。

 家といっても安アパートの一室だ。手を離れたドアが、バタン、と大きく音を響かせる。

 そうして俺は暗いアパートの階段を下りながら上着に袖を通し、スマホの電源を切った。


 何も考えたくないときは酒に限ると、一番安い缶チューハイを買う。店を出た瞬間に煙草のことを思い出し、自動ドアに挟まれそうになりながら踵を返してキャメルの8mgミリも。


「うおっ」

「うおー」

 ビビった。道路からアパートへ入る階段にガキが一人座っていた。私立小学校の白いシャツを、味気ない白の防犯灯に晒して。

「……通報案件」

「おまわりさん来たら『僕、おじさんにさらわれそうになったんです』って言えばいい?」

「んだよそれ。かわいくねー」

 缶チューハイを階段に置き、隣に座る。春の夜のコンクリートは尻に冷たい。ゴミ置き場にルール無視で置かれたゴミがあるが、異臭は放っていないようで安心する。

「今日はずいぶん遅い登場だな。塾は終わったんだろ」

「まだ家に帰りたくない」

「ガキが外にいる時間じゃねえんだよ」

「おじさん、朝早いんじゃないの? 僕は明日から春休みだからいいけど」

「ほんとかわいくねー。まあ塾サボらないだけいいか」苦笑混じりに言い、プルトップを開ける。

「大人ってお酒飲んだら何でも忘れるの?」

「そういうときもあるし、そうじゃないときもある」

「そうじゃないときって、どんなとき?」

「知らねえよ。大人になったら飲めばいいだろ」

 ぷくっと頬を膨らませてみせる、あざとい子供。俺は缶チューハイを二口飲んだ。

「コンビニ行く前に何があったの?」

「……訊き方変えてきやがって……禅問答かよ」

 自分に苛立って、相手のせいにしようとしてもうまくいかない、なんてガキに言えるわけがない。

「愛って何?」

「あのなぁ……、それマジで禅問答だからな?」

 適当に「AIのことだな」と混ぜっ返すこともできた。「いいか、よく聞け。AIというのは……」なんて。でもしなかった。

「よく言うじゃん、むしょーのあい、なんてさ」

「はぁ、そっすね」

 ランニング野郎が前を通り過ぎる。

「愛って何」

「しつこいな、おまえ……。要するにあれだ、むしょーだろうがむしょーじゃなかろうが、自分を縛るものだ」

「へぇ、そうなんだ」

 そうだよ。俺は縛られている。自分の意思で愛したはずなのに。缶チューハイは残り少ししかない。柔らかな春の夜風が、火照った首筋を撫でていく。

「おい、おまえもう本当に帰れ。親が心配するだろ」

「心配、するならあの人たちは自分のことだけだよ」

「またそういうことを」

「でも愛が自分をしばるものなら、それで当たり前なのかも」

「……おう」

 無灯火の自転車が前を通り過ぎる。一人で転んでしまえ。

「あのな、誰でも自分の意思で、自由に誰かを愛していいんだ。そんかし自由には責任が生じる。どんなにくだらねえ自由でも」

 説教くせえ。心の中で自分を嘲り、缶チューハイを飲み干した。

「そんかし?」

「その代わり、って意味。知らねえのか」

「知らなかった。今知った」

「んなこたいいから、さっさと帰れよ」

「……うん」

 くだらねえ俺も、家に帰らないといけない。

「気をつけろよ」

「うん。バイバイ」

「はい、バイバイな」

 軽い動作ですぐに立てる体がうらやましい。ガキの背中を見送ると、俺はよいしょと立ち上がった。まだあまり酔ってはいない。

「……責任、ね……」

 自分の言葉が刺さった。どうしようもねえ飲んだくれの親父に殴られて育ったんだ、結婚なんて怖いに決まっている。

 俺はズボンのポケットからライターを出し、キャメルに火を点けた。

 そうして半分くらいまで吸った煙草を指に挟む。

 次の酒は発泡酒でいいか。

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