第10話 逸話
ウル山脈の南に面する国の名を、「
水はけのよい土壌は小麦やブドウの栽培に適しており、独特な香りと強い酸味を持つこの土地のブドウからつくられる葡萄酒には、愛好家も多い。王宮内でも愛飲されていると市井ではもっぱらの噂だ。
リンドバーグはこの村唯一の医者である。いつものように水を汲みに来たアカリを見送ったあと、予定通り午前中のうちにひとりの来客があった。診療所の机の上で薬を調合していると、玄関の扉に取り付けられた鋲を打つ音がした。玄関に出てみると、初老の男性がいた。
「ああ、ヨキさん。待っていましたよ」
白髪や深い皺こそ目立ち始めているが、まだまだ壮健だ。しかしいつもは真っすぐに伸ばしている背筋が今日は少し曲がっている。そのせいか、上背のあるリンドバーグをさらに見上げる格好になっており少し苦しそうだ。
ヨキと呼ばれた老人は無愛想に言った。
「悪いが、少し調子が悪くてな」
「どうぞ中に」とリンドバーグは診療所の中に迎え入れる。
作り付けの机とスツール、寝台が置いてある簡素な診察室にヨキを招き入れると、リンドバーグは「かけてください」とスツールをすすめた。
いちおう触診をしてみるが、痛みの出る部位はいつもと同じようだ。ヨキはブドウの栽培を生業としており、この腰痛は長時間の畑仕事が原因で慢性的なものだとリンドバーグは診断している。
「いつもの薬を出しておきましょうか」とリンドバーグ。
「ああ、頼むわい」
ヨキの態度が無愛想なのはいつものことなので、リンドバーグは気にしない。悪い人間じゃないということは十分知っている。
リンドバーグはヨキに薬を手渡す。セリ科の一品種の根茎部や桑に生えたヤドリギの葉を乾燥させてすりつぶし、調合したものである。前者は鎮痛作用があり、後者は関節痛に効果のある生薬である。
「しかし久しぶりですね、ヨキさん。最近はずっと調子が良かったみたいですが」
「畑に全然行っていないからな」ヨキはため息をついた。「皮肉にも腰の調子は良くなったが、ちょっと無理な動きをしただけでまた痛みだした」
「今年は残念でしたね。私も収穫の時期は毎年楽しみなんですが」
ブドウが特産として知られるユナヴィール村だが、今年は収穫量が大幅に落ちると見込まれていた。天候に特段異常があったわけではない。ここ一年の間に村の北に出没し始めた害獣――『魔物』の影響である。『魔物』は畑を荒らし、居合わせた農夫や木こりたちの命を奪った。
「今年どころか来年も難しそうだ。一昨日『北の台地』に行ってみたんだが『魔物』に出くわしてな」
「え……『北の台地』に行かれたんですか?」
「ああ」とヨキはうなずく。
リンドバーグは呆れてしまう。北方辺境伯領には、火山の噴火に伴う火砕流堆積物によって形成された台地が数多くある。「北の台地」とは、その中でも広大で、その名の通りユナヴィール村の北に位置する台地のことだ。この台地にはブドウ畑が広がっており、ヨキもここに畑を持っている。
「北の台地」で収穫されるブドウは、村全体からとれるブドウのおおよそ四割を占めている。そのため、ここでの収穫の出来がその年の村全体の収穫の出来を左右すると言っても過言ではない。『魔物』が現れ、「北の台地」にだれも近づけなくなったことは、村にとって大きな損害だった。
「まったく無茶をしますね、『北限』まで行くなんて。いまはあんまり北に行ってはいけないですよ」
「どうしても、畑の様子が気になってな」
「それが農夫の性ではあるんでしょうが……。ただ、いまは耐えたほうがいい。そのうちトゥヘル様が対処してくださるはずです」
それには答えず、しばしの間ヨキは押し黙った。たっぷりと沈黙があって、ヨキは言った。
「ときにリンドバーグ。お前が目をかけているあの小僧じゃが」
「アカリのことですか」
珍しくヨキは少し言い淀んだ。「……あやつは今日もここに来たのか?」
「ええ。北のはずれに追いやられたせいでね。あいつの住んでいる小屋のまわりには井戸がありませんから」リンドバーグは少々の皮肉を込めて言う。
ヨキは言った。「孫は、あやつを恨んでおる」
「……アリサですか」リンドバーグは言葉を選ぶ。「筋違いの恨みだとは思いますが、同情はします」
「同情はしてくれるのか」ヨキは少し笑みを漏らした。
リンドバーグは大まじめに答える。「『魔物』に両親を殺されたんです。だれかのせいにしないとやっていられないのも無理はない」
「ああ。可哀そうな子だ」とヨキはうなずく。「ひとつ訊くが、お前さんはあの小僧をどう思う?」
「どう、とは?」
「村の連中の多くが、あやつがこの村に『魔物』をおびき寄せていると思い込もうとしているのは知っているだろう。お前さんはどう思う」
リンドバーグは即答した。
「馬鹿馬鹿しいと思ってます」
特にその返答が意外だとは思わなかったらしい。ヨキは「そうか」と短く言った。
「ヨキさんこそどう思ってるんですか?」
「わしも、信じてはいない。『魔法使いの里』なんてものが存在しないことくらい、連中だって本当はわかっているだろう」
「信じては、ですか。含みがありそうですね」
「……引っ掛かっていることがある」
「引っ掛かっていること?」
「あやつは、死んだセイの仕事を引き継いで毎日のように北の森に踏み入っておるんだろう?」
おおよそ一年前、『魔物』によって命を奪われたうちのひとりがセイである。二十代の青年で木こりを生業としており、仕事中に『魔物』に襲われた。
そして、『魔物』による被害が出た直後に村に迷い込んできたのがアカリである。アカリはいなくなったセイの仕事をそのまま引き継ぐことになった。そのため、『北の台地』から少し北に行ったところにある森から木材を調達するのがアカリの仕事だ。
「ええ、そのはずですが」とリンドバーグはうなずく。
「一昨日わしが『北の台地』へ行ったのは、『魔物』と出くわすことなどめったにはないと勝手に思い込んでおったからだ。村の連中は必要以上に怯えすぎで、運が悪くない限り大丈夫だろうと。だが」
ヨキはその場面を思い出したかのようにごくりとつばを飲み込んだ。
「――『魔物』はいた。目が合った。途中でなんとかまいたようだが、『魔物』はわしを見つけ、そして追いかけてきた。
わしは、あの小僧がこの村にあんな怪物を招き寄せているなどという妄言に耳を傾けるつもりは毛頭ない。だが、あの小僧はどこかおかしい。毎日あんな場所に足を運んでおいて、どうしてあやつは無事なんだ? その上、本人曰く出自はここよりずっと北ときている。村の連中が不気味さを感じるのも道理だ」
ユナヴィールは五洲珠国最北に位置する集落。ウル山脈を越えない限りそのさらに北に、ひとが住む地なんてあるはずがない。それが世間の共通認識だ。
にもかかわらず、この村に迷い込んできたとき、少年は言ったのだ。
この村よりもずっと北から来た、と。
ユナヴィール村よりずっと北。それはつまり、『魔物』のすみかだとされるウル山脈に近いところで暮らしていたと言っているのと同義。
ふつうに考えてありえない。最初はだれも信じなかった。所詮、子どもの言うことで、なにかの勘違いだろうとだれもが思った。
しかし、どうだろう。彼が迷い込むのとほとんど時を同じくして「北の台地」周辺に『魔物』が住みつき、あまつさえ命を落とした住民もいる。
この不幸な出来事を思い出すと途端に、少年がこの村にやって来たという出来事はなにか悪い意味を暗示しているのではないかと思えてくる。
北には、逸話があるのだ。
――『魔法使いの里』。
『魔物』を生み出したとされる最悪の『魔女』が、仲間の悪い『魔法使い』とともにつくったとされる、いわば伝説上の里。『魔法使いの里』があるのはウル山脈の近辺とされており、そこではいまもなお、『魔女』が『魔物』を生み出しているのだと言われている。
もちろんこれはおとぎ話だとされている。『魔物』がどうして生まれたのかを描いた形而上の物語。しかし、『魔女』も『魔法使いの里』も架空の存在だと知っているはずなのに、ひとは都合のいいときだけそれを真実だとして解釈する。
少年の出自は、『魔法使いの里』ではないのか。『魔法使いの里』から迷い込んできた少年は、凶兆なのではないか。この少年が、この村に『魔物』を引き連れてきたのではないか。この少年がいると、さらに『魔物』が村に迷い込んでくるのではないか。出自不明の少年にそういった嫌悪や恐怖を覚える者が、ユナヴィール村には少なからずいたのである。
ヨキも最初は、『魔物』の出現と少年の存在の間に因果関係があるなどという考えを無視していたが、実際に村の北に足を運んで『魔物』の存在を目の当たりにすると、途端に少年のことが不気味に思えてきてしまった。
リンドバーグは言った。
「ヨキさんのおっしゃることもわかります」
「北の台地」の周辺に毎日足を運んでいるにもかかわらず、あの少年にはまったく『魔物』に襲われた様子が見受けられない。怪しいからとわざわざ『魔物』の危険性が高い村の北のはずれに住まいをあてがった村の連中にも閉口するが、すんなりとそれを受け入れ表面上は何食わぬ顔で日々を過ごしている少年が尋常ではないのもまた確かだ。
「我々は、あの少年のことを知らなすぎる」
なぜあの少年は『魔物』に襲われないのか。それは、少年があの醜悪な怪物となにかかかわりがあるから。そう考えたくなる気持ちもわからないではない。だが……。
リンドバーグは、あえて自分もアカリのことを詳しくは知らないという体で話した。そうしたほうが、共感を得やすいと思ったからだ。
「しかし、ヨキさんと同じように私にも引っ掛かっていることがあるんです」
「なんだ?」
「まわりの集落の状況です。ヨキさんも聞き及んでいるんじゃないですか? よその村じゃ、ここ一年の『魔物』による被害は数十人にも及ぶと聞きます。娘さん夫婦をなくしたあなたの前でこういう言い方をするべきではありませんが、うちの村で出た人的被害はたった三人しかいないんです」
「……よそではずいぶんと危機意識が足りていないようだな」
「ずいぶんな言いぐさですね」リンドバーグは忍び笑いをする。「ヨキさんこそ、のこのこと畑の様子を見に行って『魔物』に出くわしたんでしょう?」
「……」
「まあそれはともかくとして、私がなにを言いたいのか、もうおわかりなんじゃないですか? この村で人死にがあったのはアカリが村に来る直前のことであって、アカリがこの村に来てからというもの、『魔物』に襲われてだれも死んでいないしだれも怪我さえしていないんです」
「あくまであの小僧の肩を持つ気か」
「いえ、私は中立です。アリサの肩を持ちたいのはわかりますが。もともとアカリが『魔物』をおびき寄せているという疑いだって根拠薄弱なものです。それなのにあいつにとって有利に働く事実だけ無視するというのは道理じゃない」
「ふん」とヨキは鼻を鳴らした。
「よその村で被害が大きいのは、村そのものが『魔物』に襲われているからです。しかしここユナヴィールの近辺では、いまのところ『北の台地』あたりまで北上しなければ『魔物』の危険性はありません。これじゃあむしろ――」
リンドバーグは少し間を置いて言った。
「これじゃあむしろ、あいつが『魔物』をこの村に近づけさせていないみたいじゃないですか?」
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