第九章 私、あなたになりたかった ①

瞼を開けると、白い天井が視界に入った。

──生きている。

ぼんやりとした意識の中で、わたしはゆっくりと呼吸を整えた。

気管切開の違和感が喉に残る。喉を塞がれた私は、もう二度と声を発することができない。それでも、視線を動かし、周囲を確かめる。

病室の窓からは、朝日が差し込んでいた。

滲む光の中、ベッドの傍らには二人の影があった。

詩織──そして葉月君。

詩織はベッドの横に座り、わたしの手をそっと握っていた。

いつもは冷静で完璧な彼女が、今日はひどく疲れた顔をしている。

その手は、微かに震えていた。

「……朱莉」

詩織が、わたしの名前を呼ぶ。彼女の声が、こんなにも弱々しいのは初めてだ。

葉月君は腕を組み、無言のまま壁にもたれていた。

彼の目には、苛立ちと焦燥が滲んでいる。

わたしは、薄く微笑んだ。

「ごめんね」と言いたかった。「ありがとう」と伝えたかった。

でも、声が出ない。

代わりに、視線入力の端末を見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

『ごめんね、また心配をかけてしまった』

画面に映し出された文字と流れた音声を聞いて、詩織は小さく息を飲んだ。

「馬鹿だな……お前は……」

わたしがどれほど彼女を心配させたのか、分かっている。

でも、これだけは伝えなければならない。

わたしはもう、戦うことができないだろう。自分の身体だ。もう、あまり持たないことは分かる。それに、あの襲撃。きっと国のお偉いさんからのものだ。呼吸さえ自分で出来にないわたしが外を出歩けば、人質にして下さいと言っているようなもの。

だから──託さなければならない。

指先をわずかに動かし、視線をゆっくりと端末に戻す。

『詩織、お願いがあるの』

「お願い?」

『わたしの代わりに、日本を変えて』

詩織の表情が凍りついた。葉月君も、黙っていた唇をわずかに歪める。

『ALS支援法案は、やっと成立した。でも、これだけじゃ足りない』

『わたしは知ってる。日本には、もっとたくさんの問題があることを』

『障害者福祉だけじゃない。子どもの貧困や貧困女子、無戸籍問題、いじめ問題や不登校、ヤングケアラーや物価高、年金問題、教育、女性の権利、医療、政治汚職、環境問題──上げたらキリがないけれど、すべて、解決しなければいけない』

わたしが生きている間に、すべてを変えることはできなかった。だからこそ、詩織に託したい。詩織は政治家に向いていないと言うけれど。でも、詩織以外にこの国を変えられる存在はいないと確信できる。

詩織は、一瞬だけ目を伏せた。そして、低く呟く。

「……具体的には?」

視線入力で答えを紡ぐ。

『まず、生活保護制度の見直し。生活保護の受給基準を明確にし、不正受給を防ぐ一方で、本当に必要な人に迅速に支給される仕組みを作る』

『教育改革。義務教育において、福祉や税制度を教えるカリキュラムを導入し、若年層の政治意識を高める』

『医療アクセスの改善。在宅医療を拡充し、ALS患者や難病患者が病院に行かなくても適切なケアを受けられるようにする。もちろん、並行して必要数の施設やグループホームを整備する』

『そして──政治資金の透明化。企業献金の徹底的な規制と、官僚・議員の汚職を防ぐ監査機関を独立させる』

わたしの言葉を聞きながら、詩織は静かに拳を握る。

『他にもすべきことは沢山あるけど。詩織ならできる』

そう入力した瞬間、詩織の手がピクリと動いた。彼女は私を真っ直ぐに見つめる。その瞳の奥には、怒りのような、不安のような、わたしには読み取れない感情が揺れていた。

「……朱莉、それは違う」

違う? なにが?

「私はお前の代わりになんてなれない」

詩織は、わたしの手を強く握りしめた。

「お前は、お前の言葉で、世界を動かした。それは、私には出来ないことだ。私には人を操る能力はあっても、人を奮い立たせる力は無い」

詩織の声が震えている。彼女は私の「代わり」になることを、拒んでいるのだ。

わたしは思わずふっと笑った。わたしはきっと、詩織にとっての傷になれた。

『詩織は、わたしにとって最初は「神様」だった。わたしの救済者であり、憧れの象徴だった。でも、ただただ守られるだけは嫌だったから、詩織みたいになりたくて、詩織を「理想の姿」として目指したの。わたしの人生、ずっと詩織に縋っていたね。だから最期も、日本の此れからを、詩織に縋りたい』

「……私は、朱莉が思っているほど良い人間じゃない」

詩織は拳を握る。

「私は、お前を──」

詩織は言葉を詰まらせる。

しばらくの沈黙の後、絞り出すように呟いた。

「……私は、お前がいない未来なんて、考えたくない」

心臓が、痛くなるほど締めつけられた。

 わたしはこれほどまでに、わたしの神様に愛されているのだ。

泣きそうになった。でも、上手く泣けない。

再び、視線入力を操作し、革命家としての最後の言葉を綴った。

『わたしは、詩織に憧れていた。わたし、ずっとあなたになりたかった』

『でも、今は、詩織を信じている』

『詩織が、わたしの生きた証を、未来へ繋げてくれるって』

詩織は息を飲んだ。葉月君は、静かに顔を伏せた。

『お願い』

『詩織が、わたしの「生きた意味」になって』

その瞬間、詩織の目から、一筋の涙が零れ落ちた。

「……分かった」

詩織は目を閉じ、深く息を吐く。

「私が……お前の生きた証を、未来へ繋げる。そして、この腐りきった国を、変えてみせるよ」

彼女の言葉は、誓いのように響いた。わたしは、安堵した。

もう──大丈夫。詩織がいる。葉月君も、支えてくれる。

『ありがとう』

──これが、わたしの「戦いの終わり」。

そして、詩織の「戦いの始まり」。

わたしが残せるものは、すべて託した。あとは、未来に託すだけだ。

世界は、まだ変えられる。詩織なら──必ず。


「ね、これからどうする?」

 朱莉の体力が尽きたのか、寝息も立てずに眠りに入っているのを見て、オレは詩織に言った。実際問題、あの総理の裏には裏社会のドンの他にも、油断ならない連中が大勢いるだろう。本当に国を変えようと、総理に真っ向から立ち向かえば、オレ達もただじゃいられない。

「……分からない。でも、変えなければ」

執念を帯びた、鬼のような声が聞こえた。見ると詩織は、復讐心と焦燥感に駆られた、追い詰められた人間の顔をしていた。

これは、良くない。

確かにオレは、朱莉に便乗して詩織を国のトップに据えようと日々暗躍し調整していたが、これではオレの目的を果たす前に、詩織が総理に消されてしまう。

……オレが、なんとかしなければ。

詩織を守るのは、オレだ。

 

神薙家の書庫──夜。静寂の中、オレはパソコンを操作し続けていた。

古びた書物が並ぶこの部屋で、オレはここ数日間、一つの答えを探し続けている。

いや──「答え合わせ」をしていた、と言った方が正しいか。

調べれば調べるほど、確信に変わる。

なにもかも、オレが思い描いていた通りであり、そして、最も良いタイミングで起る。

「……ハッ」

喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。

滑稽だ。この国の「支配者」とやらは、自分たちがすべてを牛耳っているつもりでいる。

だが、彼らは知る由もない。この国が、今どれほど 「脆い場所」に立っているのか を。

オレは、ある「異変」のデータを見つけた。

それは、政府が今後起こり得る未来へ必死に目を逸らし、十分な根拠が無いと否定した「不都合な未来」。

連中は、情報を隠し、圧力をかけ、己自身と国民の目を逸らしてきた。

しかし、それは 「止められるもの」ではない。

彼らの手のひらの上で転がせるような、小さな問題ではないのだから。

そして、オレは既に知ったのだ。すでにあったデータを元に、オレが演算を行えば、その「不都合な未来」が訪れるのは近いということを。──ならば、利用しない手はない。

計画はシンプルだ。

政府内部の機密ネットワークにアクセスし、総理の情報管理システムに細工を施す。

極秘会合の日時と場所を「変更せざるを得ない状況」を作るのだ。

あくまで、それは自然に。疑われることなく。「偽の危機」を作り上げる。

首都の某所で、政敵による襲撃計画がある──。

裏社会のドンに刺客が放たれる──。

米国の諜報機関が日本の政財界に介入しようとしている──。

嘘でも、本当でも構わない。大事なのは 「連中が恐れる状況を作り出すこと」だ。

そして、連中に 「ここなら安全だ」 と思わせる。

そこが──この国で、最も「死にやすい場所」だと知らずに。

詩織は、このことを知らない。いや──知らせるつもりもない。

「……オレたちは、この世界の汚さを嫌という程知っているけど。詩織は、綺麗のままでいれば良い」

この国が変わるなら、彼女の手は 「穢れないままで」 あるべきだ。

そして、もしも詩織が穢れる日が来るとしたら、それはオレの手によってが良い。

オレは、彼女の盾であり、剣だ。

オレのすべては、詩織のためにある。だが、朱莉に諦めないことの大切さを教わった。

だからオレの夢も叶えるためにも、オレは、賭けをするのだ。

PCの画面を静かに見つめる。……仕込みは完了。

政府の情報システムは改ざんされ、総理や裏社会のドンに 「新たな会合場所と日時」 を指示するメールが送られた。その場所・その日時こそが、──数ヶ月以内に「それ」が起こる場所だ。

彼らは自らの足で──地獄へ向かう。

その様子を想像して、オレは、静かに微笑んだ。

「お前らの〝墓標〟は、すでに決まっているんだ」

──詩織はきっと、オレのやり方を許さないだろう。

だが、オレは最初から「許されること」なんて望んでいない。

そして、「それ」を気づかせることもしない。

詩織が生き残るためならば、オレはどんな穢れた手でも使う。

たとえ──この国を、血の雨で洗い流すことになっても。

運命の日は迫る。情報が流れた。連中は、動き出す。

「最も安全な場所」へと、真っ直ぐに。それが 「最も危険な場所」 だとも知らず。

オレは、夜の窓の外を見上げた。不吉な静寂が、この国を覆っている。

「……詩織」

オレの計画が成功すれば、君はもう、何者にも邪魔されずに進める。

「──君にとって、オレは今、何者なの?」

前、同じ質問をしたときは、詩織はオレを「自分の罪そのものだ」と言った。だが、あれから四、五年たった今、詩織はオレをどう思っているのだろうか。

オレが人知れず殺人者になる前に。それを聞いておきたいと思った。


久しぶりにオレが詩織の元に行くと、詩織は忙しなく動き、部下に指示を送っていた。

目の下の隈が酷い。この様子では、ほぼ寝たきりとなってしまった朱莉のお見舞いにも、殆ど行けていないのだろう。

「詩織」

「葉月か。お帰り」

「忙しそうだね。なんか手伝うことある?」

「いや、問題ない。お前も最近寝ていないだろう。私はこれから仮眠をとるつもりだが、お前もどうだ?」

「うん。オレも寝る」

詩織に誘われ、オレはノコノコと詩織の寝室に付いて行く。もう二十歳を越えた異性の大人二人が同衾するというのは異常だと分かっていても、オレには辞めることが出来ない。

だって、詩織の匂いと詩織自身に包まれるこの瞬間が、オレのなかで一番幸せな時なのだ。それを無くすような真似をオレはしない。

詩織が目を瞑る。オレは詩織に絡みつくように、何処にも行かせないように、詩織の身体に腕を回した。

「ねえ」

オレが話しかけると、詩織は薄く目を開けた。

「前、詩織は言ったよね。オレは詩織の罪そのものだ、と」

「ああ」

「それは、今も同じ?」

心臓がバクバクと鳴り響く。オレのことを面倒だとでも思われたり、要らないと言われたら、今すぐにでも首を吊れると思う。

「そうだな。お前が私に付いてこなければ、お前が命を狙われることも無かっただろうと、思う日もある。もっと自由な異国で、お前が思うように生きられる世界線もあったはずだ」

そんな世界があったとして、詩織の近くにいれないオレの人生は地獄同然だと、詩織はいつまで経っても分からない。

「でもな。私にとって守りたいものは、両親と、朱莉と、国と、そしてお前だ。だが、両親とは当分は会えないだろうし、朱莉は私の腕から抜けていってしまった上に、もうすぐ私を置いて行ってしまう。そして、国は綺麗なところはあるだろうが、醜いところもあるだろう」

「……」

「私がお前に向けている感情は、好きというような変わりやすい感情じゃなく、恋みたいな同じ気持ちを返して欲しい訳でもなく、「愛している」が一番合っていると思う。

だから、今は。お前に昔言われた言葉を返そう。──お前がお前の望むように生きることが、私の望みだ、葉月。きっとそのためなら、私は多分なんだってする」

その言葉を言われた瞬間、胸の奥に頑丈な金庫まで付けてしまっていた感情が、完全に溢れ切ったのを感じた。詩織がオレに抱く感情は、オレが昔一番に欲していたものであり、だが今、欲しいものではない。

「そっか」

オレが頷いたのを見届けると、詩織はふっと笑い、眠りに入った。

思わず、嗤ってしまう。これほど悔しくて、だがこれほど良い舞台は無い。

「ハハハ。……ありがとう、朱莉。君が居なかったら、オレは諦めていたかもしれないよ」

仕込みは上々。あとは、時を待つだけだ。

だが、世界が変わってしまうその前に。

朱莉へ感謝と、とっておきの冥府への土産を渡そうと、オレは思った。

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