第15話 <五月一日>

 M病院には図書コーナーがある。


 あまり広いものではなく、三十平方メートルほどの広さに、医療に関しての本がずらりと並んでいる。これは自分や家族の病気について知りたい患者用に設置されているもので、外来・入院どちらの患者も気軽に利用できる。


 病に関するものはもちろん、その治療法や検査方法、退院後の生活についてなど、専門的な本ばかりが並んでおり、一般的な小説や雑誌はない。


 石重道子さんは、ここに勤めるようになって五年ほどだろうか。子供が小学校高学年になり、一人で留守番が出来るようになったので久しぶりに働きたいと思い、募集を探してここに辿り着いた。医療に関しての知識が豊富な司書で、出産前も違う病院の図書コーナーで働いていた経験者だったので、採用されたのだと思っている。


 ここは規模も小さく、訪問者も多くない。石重さん一人で管理しており、残業は基本ないし比較的いい仕事だと自分では思っていた。とはいえ、患者からの質問にすぐ答えられるように知識は必要だし、医学は常に変化していくので、新しい知識を増やしつづけなくてはいけないのが彼女の仕事の大変なところだ。


 あまりスペースがないので一般書はないが、最近は少し小説の類も入荷してみてもいいのでないかと、希望を出してみるつもりだ。というのも、暇な入院生活に読書を取り入れる患者も結構おり、小説などがないと聞くとがっくりして帰って行ってしまうのだ。


 辛い入院生活を少しでも忘れられるように、小説の貸出があってもいい――彼女はそう考えている。


 図書コーナーは透明のガラス戸を開けると、すぐに石重さんが座るカウンターが目に入る。その両脇には本が並び、端には小さな椅子とテーブルが設置されている。その日石重さんはいつも通りカウンターに座り、本の貸出し履歴の回数をチェックしていた。貸し出しが多い本と少ない本を把握しておくのも、仕事の一つだ。


 パソコンの画面に集中していると、ガラス戸が開く音がして顔を上げる。一瞬、彼女は息を呑んだ。


 青いワンピースを着た女が、ひっそりと佇んでいる。髪で表情は見えにくいが、顔は化粧がしっかり施してあるように見えた。格好というより、俯いたまま立つその姿が異質で、石重さんは正直あまり関わりたくない、と心で思った。


 とはいえ無視することもできない。彼女はにっこりと笑って言う。


「こんにちは。何かお困りのことがあればなんでもおっしゃってくださいね」


 それだけ言うと、再びパソコンに視線を戻す。女は何を探しているのだろう。格好からして入院患者というより、外来患者だと思うのだが……。


 女が少しずつ歩き出す。ぺた、ぺたという足音が気になり女の足元を見てみると、サンダルを履いていた。温かくなってきたとはいえ、まだサンダルを履くような時期ではないだろうに。


 女の足が、ぴたりと自分の目の前で止まる。


 石重さんはゆっくり顔を持ち上げ、女を見上げた。


「…………何かお探しですか?」


 かろうじて引きつった笑顔でそんな声を出す。至近距離で見る女の顔は恐ろしいとしか思えなかったからだ。


 なぜ嬉しそうに口角を吊り上げ、恍惚の表情で石重さんを見つめていた。その口元には銀色に光る唾液が糸を作り、反対に唇はパリパリに乾燥しているのを隠すように赤いリップが乗せられている。目はギラギラと光り、白目が血走っていた。


 普通じゃない――直感的に石重さんはそう思った。だが、体が固まって動けなくなっている。


 大声を上げれば、廊下に届いて誰かが気づいてくれるだろう。でも、まだ女は何かをしてきたわけじゃない。ただそのオーラと表情が異様だ、というだけだった。


 しばらく見つめ合った二人だが、少し経って女が口を開いた。


「イスルギ……」


「……」


「イスルギ」


 わけがわからず頭がくらくらする。イスルギってなんだ、日本語じゃないのか? やっぱり一人の手には負えない気がするので、自然を装って人を呼んでくるしかない。


 そう思った時、女の視線に気が付いた。女はやたら石重さんの胸元に注目している。自分も見下ろしてみると、左の胸ポケットにつけられた名札が目に入った。


 M病院では名札をつけているスタッフが多い。医師や看護師など、基本的に装着が義務付けられている。ただ、最近では個人情報の問題でスタッフから不満の声があがり、苗字のみの名札になっていた。ほんの少し前までフルネームだったのだ。フルネームだと、それを利用してSNSで検索をして接触してくる患者などがいるらしい。恐ろしい世の中だ。


 そんな流れがあり、石重さんも苗字のみの名札をつけている。女はそれを凝視していたのだ。


 石重さんはああ、とようやく合点がいった。同時に、女が何を言いたいのか理解することができて、少し安堵する。


 イスルギ、とは、確か石動という名字の読み方だ。こっちの地方ではあまり多くないのだが、北陸の方ではよく知られたものだとか。石重さんはたまたま、そのことを知っていた。


 石重さんの名札は、苗字が印字されたシールを貼り付けただけの簡単なもので、それが一部剥がれてくるんとめくれあがっていた。これを見て、石動という名字だと勘違いしたのだろう。


 石重さんはめくれた部分を指で直し、笑って答えた。


「すみません、石重と言います。石動って、北陸の方のお名前ですよね。そちらの出身なんですか?」


 フレンドリーに話しかけたがその途端、女の笑顔が無に戻った。


 まるで時が止まったかのように女はピクリとも動かず、石重の文字だけを見つめている。


「あ、あの、どうされました?」


 震える声で尋ねるが女は答えない。しかし少し経った後、突然自分の顔を両手の爪で搔き始めた。まるでイライラが募るようなしぐさだったが、顔は無表情だったためアンバランスで、恐ろしい。


 石重さんは唖然と見つめるしかなかった。


 女はがりがりと爪を立てながら自分の顔面を掻きむしっていくと、塗りたくられたファンデーションがはがれ、真っ白な肌の下にまるで死人のような肌が現れた。次第に皮膚は出血しだし、女の両頬がえぐれて真っ赤に染まっていく。


「ひいっ……!」


 石重さんはようやく反応して立ち上がった。とはいえ、目の前の女の奇行を止める勇気もでず、助けを呼びにいくしかないと必死に考える。だが、上手く足が動いてくれなかった。


 女の搔きむしった皮膚が、ぽろぽろと足元に落ちていく。その光景は、まるで人間の皮を被った恐ろしい何かが下に隠れているようだった。皮膚が落ちても、顔中出血しても、女は手を止めようとはしなかった。


「だ、誰か!!」


 ついに石重さんは大きな声を出し、カウンターから飛び出した。女のすぐ後ろにはガラス戸があり、廊下には人が歩いている。とにかく誰か、他の人間を呼びたかった。


 外に出た石重さんは、たまたま目の前を歩いていた中年男性の腕を強く掴んだ。格好から見るに、どうやら検査技師のようだった。


「す、すみません! 変な人がいるんです、来てください!」


「え!?」


「へ、変な女性が……!」


 男性は驚きながらも、すぐに石重さんが指を指す図書コーナーに駆け寄って、その戸を開けた。石重さんは入る勇気がなく、外で震えながら立ち尽くしていた。


 だがすぐに、


「誰もいないけど……」


 という気の抜けた声がした。


「え?」


「いや、誰もいないけど……」


「あ! きっとカウンター裏に入ったんです!」


 カウンターの後ろにはまた小さな部屋があり、表に並んでいない本たちや仕事で使う道具などがしまってある。男性は頷いて再度中へ入って行ったが、すぐに首を傾げてまた出てきた。


「やっぱりいないけど……」


 そんなはずはない。ここには、出入り口はこのガラス戸一つだけなのだ。


 石重さんは慌てて男性と共に中に入り、隅から隅まで見回した。隠れられそうな部分も細かに調べ、しっかり確かめたが、あの女の姿は見つけられなかった。


 石重さんはカウンター前で愕然とする。


「……嘘、どこに?」


「どんな人がいたの?」


「あ、青い服を着た女です。やけに厚化粧で、突然自分の顔を掻きむしって……!」


 そこまで説明して、はっと自分の足元を見てみる。先ほど女はこの場で皮膚を掻きむしり、ぽろぽろとそれをこぼしていたはずだ。


 だが、石重さんの足元には磨き抜かれた綺麗な床しかない。瞬きもせず、その床を見つめる。


「まあ……気になるなら、警備員に来てもらった方がいいんじゃないですか」


 男性は困ったようにそう言って、すぐにいなくなってしまった。その視線は石重さんを怪しい人間扱いしており、彼が自分を疑っているということは明確だった。居眠りでもして夢を見てたんじゃないか、それとも変な薬でもやってるんじゃないか。彼の目はそう言っていた。


「……なんで」


 一瞬で消えたあの女は、一体誰だったのか。


 だがこんなことを警備員に話したところで、同じように自分が不審に思われるんじゃないのか。


 しばらく石重さんは何も言わず床を見つめていた。




 その後、彼女は全身に原因不明湿疹が出てきて頭を悩ませることになる。


 かゆみに耐えられず無意識に引っかいては、皮膚が傷つき出血した。皮膚科に行って薬を貰っても、なぜか全く効かなかった。鏡を見るのも嫌になるほどひどく、一週間以上仕事を休む羽目になる。気が狂いそうになるほど痒く痛く、夜も全く眠れない日が続き、精神的にもかなり参っていた。


 だがその湿疹も、一週間経った頃に急に消失した。残ったのは掻きむしった傷跡だけだった。

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