第9話 <三月二十日>

 M病院の外来受付は、機械を用いた方法が多く取り入れられている。


 例えば再診の場合、病院内にいくつも設置された機械の一つに診察券を通すと、受付がすまされ、その日の呼び出し番号などが印刷されるのでそれを持ち、診療科に向かう。窓口に行く必要がない。


 会計も、一旦窓口へ向かう必要はあるが、お金を支払う相手は人間ではなく機械だ。会計機に診察券を通し、必要分のお金を入れて終了。一昔前はこれらのすべてのことを、人間の手で行っていたので、病院での待ち時間はすさまじかったが、最近は随分と解消されているらしい。


 だが、それでもやはり受付にはまだたくさんの事務員が必要だし、初めてかかるときなどは必ずそこを通らねばならない。


 M病院は大学病院なので、基本的に紹介状を持ってくる人が多い。クリニックなどで診察を受けてから、『大きい病院で診てもらいましょう』と言って紹介状を貰うのだ。それがないと、初診時選定療養費というお金が別途かかるので、はじめから大学病院に行く人はあまり多くはないらしい。


 そんなM病院の受付で働く安藤さんは、ここで働き出して一年が経過し、ようやくすべての業務を滞りなくこなせるようになったと自負していた。初めは、次から次へとやってくる患者の多さに圧倒され、やる業務の多さに愕然とし、ここでやっていけるか不安になったそうだ。それでも、一年経てば慣れるのだから人間は強い。


 受付で働いていると、やってくるいろんなタイプの患者がやってくるのだが、その人たちと触れ合うのが一番難しい、と安藤さんは思っている。


 もちろん体調が悪い人も多いので、こちらもなるべく待ち時間がないように全力でやっているし、ミスもないように必死になっている。それでも、突然わけのわからないことで怒鳴りつけてくる患者は多い。


 そんな安藤さんが、ここ最近で一番印象的だという患者の話をしてくれた。


 その日いつも通り受付で目まぐるしく働いている安藤さんが、次の番号を呼び出した時、現れたのは一人の女性だった。


 パッと見たところ、ぼさぼさの黒髪が顔の前まで垂れていて表情がよく見えない。彼女は半そでのワンピースを着ていて、そこから伸びている手足が異様に細かったという。とはいえ、病院では治療や病のために細身になってしまうことはよくあることなので、そう珍しくはない。


「本日はどのようなご用件でしょうか」


 安藤さんは笑顔で尋ねた。この女性におかしなところを感じるとすれば、まだまだ肌寒い時期だと言うのに薄着であることだ。暑がりだとしても、この恰好はさすがにない、と思った。それと、まっすぐ立っているのにやけに頭を左右に揺らしているのも気になった。が、もちろん口に出すことはない。


「……診察券を失くして……再発行して頂けますか……」


 女性から出てきた声はとてもか細く、聞き取れたこと自分を褒めたいと思うくらいだった。そして、発言すると同時に女性は顔を上げたのでようやく髪の下に隠れた顔が見えたのだが、これまた印象的だった。


 とにかく肌は真っ白。それは色白というわけではなく、どう見てもファンデーションを塗りたくった肌質だった。逆に目元は何も塗られておらず、小さな黒目がやけに不気味に見えた。


 塗られたファンデーションはほうれい線や目元がしっかり割れてしまっていて、年齢はあまり若くないよう見える。唇は目と違って真っ赤に塗られており、街中でこんな化粧をする人に出会ったら間違いなく振り返ってしまうと思う。元の顔がどんな顔なのか、見当もつかない。


 だが安藤さんはもちろんプロなので、じろじろ見たりだとかそんなことはしない。それに、病気で顔色が悪くなった人が濃い化粧を施すことも、よくあるのだとか。


 この人もきっと、顔色をよく見せたい、健康に見せたいと思ってこんな化粧になってしまったのだろう――安藤さんはそう考えた。


「診察券の再発行ですね。フルネームでお名前を、それと生年月日もお願いいたします」


「イスルギミサトと言います」


「イスルギミサト様……」


 安藤さんはとりあえず、パソコンにその名前を打ち込んだ。


『イスルギ ミサト』……該当者がいない。


 小さく首を傾げ、安藤さんは聞き返した。


「すみません、ええっと、イスルギミサト様でよろしかったでしょうか?」


「そう言ってるでしょお!!!」


 突然、甲高い叫び声が聞こえて、安藤さんは驚きのあまり黙り込んだ。目の前のイスルギミサトは、小さな目を見開いて安藤さんを睨みつけている。周りの患者やスタッフも、一瞬黙って安藤さんたちに注目した。


 女はふーっふーっと鼻から息を吐いており、興奮状態にあるように見えた。


「あ……も、申し訳ありません。保険証をお願いいたします」


 慌てて安藤さんはそう言った。初めからそうしておけばよかった、と後悔しながら。ただ、女は今度は淡々とした声で答える。


「ないです」


「……」


 安藤さんはたらりと額に汗をかきつつ、もう一度パソコンにイスルギミサトを入力したが、やはり出てこなかった。


 安藤さんは無理やり笑って見せる。


「申し訳ありません。イスルギミサト様の記録が残っておりません。ええと、いつ頃診察されたのでしょうか? 今現在通院中でしょうか?」


 考えられるのは、どこか他の病院と間違えているというミスだ。ありえないミスかと思われるが、案外珍しくない。病気で色々な病院を掛け持ちしている患者は多くいる。こうやって質問を投げかけることで、相手の記憶を呼び起こし、自分のミスに気づいてもらうという魂胆だ。


 だが女性は何も答えなかった。黙り込んだまま、じいっと安藤さんの手元を見つめている。キーボードの上に置かれた指を。


「……記録、なかった?」


「は、はい。イスルギミサト様ですよね? 当院には何も……」


「……」


 しばらくその場に立ち尽くした後、女性は何も言わずにその場から離れていってしまった。非常に不安定でふらふらした足取りで、今にも転びそうだった。


 その後姿を呆然と見つめていると、彼女の折れそうなふくらはぎとサンダルが見えた。薄着にプラスして、サンダルとは。


 それにしても、急に怒鳴ったりしたし、一言くらい謝るとかあってもいいんじゃない? あの様子だと、多分違う病院と間違えてたんでしょ。


 安藤さんはそう思ってむっとしたが、すぐに気持ちを切り替えた。待っている人が大勢いるので、次の番号を呼び出した。

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